国際人権の展開と中国における女性の権利
−第4回国連世界女性会議とその後−
国際社会専攻 M1 江上 未生
1 はじめに
2006年8月7日から25日に開催された、第36会期の国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)での審議において、委員会は中国政府の第5、6次レポートに対してコメントを行った。コメントでは、2005年の婦女権益保障法、2001年の婚姻法改正、2002年の農村土地請負法の公布、2006年の義務教育法改正、中国女性発展要綱(2001−2010)等の法や政策の展開を歓迎する一方で、多方面において勧告が出されている。特に「女性に対する差別」の定義がなされていない事や情報としての数値の欠如など、報告書提出において前提であるはずの部分が指摘されており、中国政府の姿勢そのものを言及していると受けとめられる。と同時に、経済成長における男女格差や農村女性の地位、労働問題、脱北女性など中国国内では指摘しにくい問題に踏み込んだ勧告など、全般的に見てその内容はかなり厳しいものだと言えるだろう。
この勧告に目を通すと現在、中国の女性の権利保護は多くの問題を抱えている状況が伺えられる。しかしながら新中国誕生以降、中国国内に動きが無かったわけではない。1980年に中国が女子差別撤廃条約に加入書を寄託してから四半世紀が経過し、中国の女性問題に対する姿勢の構築において一定の方向性が整理される時間もまた経過したと考えられるからである。特に国連主導の女性の人権に対する関心の中で条約に加入した事は中国政府が国際的な動向に配慮している事を示している結果であり、そのことを踏まえた上で国内の流れが存在するはずである。とするならば中国の女性に関する人権やそれに伴う政策はどの様に変化してきたのだろうか。
元来中国にとって女性問題は決して軽視し、なおざりに出来る問題ではなく、国内では着実に動きが存在していた。そこには1949年の建国以降社会主義体制の下、男女平等を目標とした憲法や婚姻法はもちろんのこと、女性を革命隊伍の構成員として婦女連合会を共産党の組織に組み込んだことによって、女性問題は常に党活動の問題とされていた背景が存在する[1]。その後も1979年改革開放による経済や社会構造の急速な変化の中で、既存の女性の役割としての家事が維持されている点はもちろんのこと、市場原理によって新しく作られた格差などの問題が顕著になると、婦女連などの女性団体の活動が活発になり、国内法整備へと繋がって行った。[2]この時期に中国が女子差別撤廃条約に加盟しているのも、この様な国内での動きが関連している事は間違いないだろう。もっとも中国が本格的に国際的な側面と向き合うには多少の時間を必要としたこともあり、1980年の加入後すぐとは行かなかった。実際に関わり出したのは、経済成長に伴って諸方面で国際社会と繋がり始めた1990年代初頭に入ってからである。その流れの中で中国が国際的な女性問題に着目するようになったひとつの契機が、95年に北京で開催された第4回国連世界女性会議である。
そこで本論文ではこの国連女性会議に着目し、この会議によって中国の女性の権利に導入された変化を鑑みようと考えている。また若干ながら会議後の政策的な展開に関しても整理を試みるものである。
2 第四回国連世界女性会議の目的
1995年9月4日から15日、中国の北京において第四回世界女性会議・政府間会議(以下北京会議と省略)が北京国際会議場で開催された。それと並行して8月30日から9月8日までNGOフォーラムが懐柔県で開催され、2つの参加者は約四万人にのぼり、中国で開催された国際会議としては最大規模のものである。
この様な国際会議が開催されるに至った過程として、1975年以降の国連による女性の地位向上を目指した一連の流れが存在する。1975年に「国際女性年」と宣言し、メキシコで国際女性年世界会議が開催され「世界行動計画」が実施されると、国連は以降10年間を「国連女性の10年」と位置づけた。この間の1つの動きとして女性差別撤廃条約の採択が行われている。85年にナイロビで行われた世界会議では、「国連女性の10年」の成果が検討、評価を行うと共に2000年に向けて「女性の地位向上のための将来戦略(ナイロビ戦略)」が採択されたのである。そして第4回会議の主な目的としてはナイロビ戦略の検討と21世紀に向けての行動綱領を作ることが主な目的であった。
「平等・開発・平和」をテーマに掲げた中で採択された行動綱領では、各国が女性差別を撤廃しジェンダー平等の促進を図ると共に、女性のエンパワーメントの為に実現すべき重大関心事項として、貧困、教育、健康、暴力、紛争など12分野が詳細に記されている。またこの政府間会議はNGOによる傍聴が認められており、最終的には2,184[3]のNGO団体が国連婦人の地位委員会の認証により傍聴が行われていた。よって同時期に開催されたNGOフォーラムにおいても連動して、政府間会議にオブザーバーとして参加していたNGO代表が女性の人権を確認するための「NGO北京宣言」を出している。このことから、第4回会議は政府間会議だけではなく、NGOの積極的な参加に対して重要視をしていたことが理解出来る。
しかしながら現在もなおNGOに対して積極的ではない中国で、なぜ会議が開催されたのだろうか。そこにはもちろん中国側の強い要望があったことは当然だが、途上国などの人権への取り組みが遅れている地域で開催することによってその地域を啓発しようと試みた国連側の狙いもあった。
3 会議開催地としての中国
北京の開催地決定は1992年第36会期婦人の地位委員会での中国との非公式会談によって決定されたものだが、中国側の意欲的な開催地要請の背景には幾つかの要因があった。
1つには中国政府が大規模な国際的なイベントを通して、天安門事件によって失いかけていた信用を回復する狙いがあったこと、また国際会議の実績を通すことによって2000年オリンピックの招請を成功させようとする意図を持っていた。
そしてもう1つの動きとして、先述した中華人民共和国全国婦女連合会(以下婦女連と省略)の活動がある。官製団体として建国当初は政府→婦女連→一般女性[4]といった形での女性解放を形作ってきた婦女連だが、改革開放以後増加する新しい問題に対応しきれなくなって来ていた。そのため1980年代に入ると、民間の女性組織や女性研究組織等で多方向からの働きかけによって、問題の解決を試みる気運が高まっていったのである。このことは政府からの一方通行な流れの不十分さを露呈し、女性状況の分析と決定において民間の女性の動きが必要になっていることを示したのである。この様な状況下で婦女連が女性会議を希望したのは、女性問題の重要さを政府と国民にアピールする事はもちろん、女性問題における自分達の主導権の再認識させることにあったと言える。実際北京会議において婦女連は中国のNGOとして、フォーラム運営の組織委員会という大役を担っていた。
以上のような中国国内の事情を秘めて開催された北京会議だったこともあり、その開催は順風満帆では無く中国側の目論見と国際社会のズレを示す様な問題が浮上することになる。それは「巨大な国家権力によって支えられたNGO会議」[5]と表現される程であり、同様に北京会議について扱う論文の大部分が中国においてのNGOの扱いについて言及を行っている。そもそもNGOの概念そのものが希薄だった中国において、NGOフォーラムの開催はあくまでも政府間会議に付随してきた副次的な存在でしかなかった。特に政府の枠組みから離れるNGOに対して警戒心を保持していたことは容易に想像がつく。そのため開催直前にNGOフォーラムの開催地を、北京から55キロも離れた懐柔県に移し意図的に政府間会議との間に実質的な距離と時間的な距離を作り出すなどの手段を講じている。また肝心のNGOフォーラムでは中国から5000人が参加していたが、全員が婦女連の推薦を受けた人であり、基本的に中国人と外国人の接触を阻止するための監視が行われていた。且つ中国の国家利益に反する表現も規制の対象となっており、中国側の権利侵害状況の報告が難しい状況はもとより、そのことが却って外国人参加者側の発言や交流に暗黙の配慮を課すものだと考えられる[6]。
これら一連の問題を受けて、参加者の一人でもあった山下は「世界女性会議の開催地の選択には、政府のNGOに対する理解度を考慮する事がこれからの必須の条件となるだろう[7]」との批判を行っている。確かにNGOの土台が確立していない場所での大規模なNGOフォーラムの開催は、否応無く政府の支援が必要となり政府の干渉を受けざるを得ない矛盾を作り出す。その点において中国のこのNGOフォーラムへの対応は極端なものであったことは否めない。しかし極端な例ではあるがNGOと政府の関係は何処の国にも矛盾は存在する物であり、両者の関係において理論的・実践的な側面での整理が必要不可欠であることを十分に提示している。そのためには、やはり経験が重要であり山下の述べるような経験の選別が必要か否かは若干の疑問が残る。
また同じく参加者だった松井は「この会議によって、中国の人たちの意識に多少なりとも働きかけが出来る事を願っていました。しかし残念ながら中国政府の隔離作戦はみごとに成功し、一般の人たちにはあまり伝わらなかったようです。」[8]と述べており、中国での開催への問題を指摘している。事実フォーラム内では基本的に中国人と外国人の接触を阻止するための監視が行われていたようである[9]。この2者の批判は国連の啓発の意図通りにことが進まなかったことへの批評と受け止めることが出来る。つまり裏を返せば、中国の政府や婦女連の思惑通りに会議が進んだことを暗に示している。しかしながら4万人もの人々が参加した北京会議が、中国に何も残さないまま終わったわけではないだろう。そこで中国にとって初めての女性会議がもたらした物を以下で整理してみる。
4 中国にとっての国連女性会議の意義
意義としての一つは女性に関わる問題への政策的な重みが増したことである。政府の思惑が絡んだ一時的な会議であったかもしれないが、それでもなお国際的な注目の中で中国独自の女性問題を再確認するには極めて意義があったと考えられる。建国後男女平等の実現を抱え、一見して女性の地位に積極的に捉えられる中国であるが、その中での女性の地位はあくまでも国家を支える社会的生産の担い手としての存在意義が前面に押し出されていた。それは男性と同等の働きが求められる一方で、限りなく男性と一元化していく姿が理想と奨励されていた[10]。しかしながらその理想が却って、女性独自の問題という観点を奪う結果になっていたのではないだろうか。例えば「相続法」(85年)の相続権の男女平等や憲法の男女同工同酬など権利の制定がなされているが、前提として男女のスタートラインが同じとする観念が存在する。つまり権利が認められている以上男性にしろ、女性にしろ同等の立場であり各々が権利の行使によって問題を解決すべきとする状況を生み出すことに繋がる。
しかし既存の男女平等原則による権利保護では解決出来ないほどの女性の権利侵害が多発し始めた状況の中、北京会議開催決定が決まると、会議準備期間における女性の権益や地位を改善する措置として92年「婦女権益保障法」が施行されることになった。これによって女性の保護と言った価値観が男女平等原則の女性貫徹よりも重視されるようになるのである。このことは結果として北京会議でも重要事項であったジェンダー概念の導入をスムーズにした側面があると言えるだろう。もちろん現在もなおジェンダーに関しては、若干の抵抗の論議が中国国内で続いている。しかしながら北京会議において「行動綱領」を容認している以上、将来的にはジェンダー容認に働く可能性は高いと考えられる。
また婦女連にとって、世界女性会議開催を通じて女性問題の関心を政府に持たせることは最も重要な目標であり、その意味では会議の招聘成功は十分な意味を持った。しかしこれを一過性のものとして終わらせない為の手段を講じる必要から、婦女連は会議準備期間中に『中国婦女発展綱要(1995−2000)』を作りだし、会議後には「共同綱領」を残している。特に前者は@労働、A教育、B家庭、C貧困撲滅、D政治参加、E社会福利、F国際交流、G女性問題の監督機関、H労働権利、I保健衛生、J法律保護[11]などの11項目に対して具体的な数値を含めた上で、2000年度までの目標が掲げられている。且つ国務院婦女児童工作委員会が責任者と明記され、末端の行政にも女性発展計画を社会経済計画に含む事を義務付けている。よってこの「綱領」は北京会議以降の活動指針であると同時に、政府に政策的実行を求める拠り所になった。
そしてもう1つが今回の会議においてネックになっていたNGOである。現在の中国ではNGO団体らしいものを組織立てするときには、社会団体登記管理条例(1998年10月13日)を通す必要があり、NGOの活動が依然として国家によって管理されると言った矛盾状態が顕著に現れている。ただそれでも、「政府」と「反政府」の概念以外のものとして「非政府」の言葉が認識されニュース語彙として使われた契機としては貴重なことだと言えるだろう。譚深[12]の論文は北京会議の前年に記されたものだが、北京開催を1つの好機と捉えており、論文の締め括りとして「非政府組織の女性組織が女性を援助し(中略)正確な世論動向を作る面において果たす役割を重要視すべきである。」と記している。この文章が可能になった裏には、少なからず非政府組織に対して寛大になった社会的な動向があったと考えられるだろう。
5 世界女性会議から10年
北京会議から約10年が経過した現在、女性の権利に対する様々な問題は収拾されること無く続いているのが中国の状況である。加えて新しい課題が作られるスピードは経済成長の波と相まって加速し、短期間で様々な問題が噴出している。例えば第36会期のCEDAWでの勧告やその直前に開かれた「雇用の性差別及びその救済のメカニズム・国際シンポジウム」では中国での「間接差別」が問題視されており、中国国内法において「間接差別」概念が無いことが劉明輝によって指摘されている。一概に比較は出来ないものの、日本が抱えている女性の権利に対する問題と同様の課題が既に提示されていることは、中国での女性の権利に対する問題を問題と認識するスピードが速いことが伺える。同時に問題に対する意識や関心の度合いが日本と同等の水準であることが示唆されているようにも感じる。
女性の権利は、しばしば国家との関係性において大きな影響を受ける性質を持つものである。特に北京会議以前、中国では女性問題が婦女連つまり政府による一元化が行われ、婦女連が扱う以外の多くの問題が排除されてしまった過去を持つ。その点に関しては近年の女性センターの設立や、女性学に関する著書などの動きから、排除への働きかけが大分緩くなって来ている。また北京会議以降中国政府自身も、それなりの働きかけを行っている。『中国婦女発展綱要(1995−2000)』に基づいて、1998年及び2001年の2回、目標に対する評価と現状を報告している。加えて2000年以降の目標立てとして『中国婦女発展綱要(2000−2010)』を提示している。この文章内では「この要綱は第四回世界女性会議において提出された発展の重要な12の領域を考慮し(中略)女性と経済、女性の政治参加、教育、健康、法律、環境の6項目を優先発展領域とする。」[13]と記されており、政策の上では北京会議以降の女性問題への関心が継続されていることが確認できる。加えて2000年度版の綱要の特徴として「95年の要綱と比較して数量による目標を減少させ、政策措置の比重を重くした」[14]といった変化を明確に記述しており、政策と言う具体的な方法論での展開に移行しつつあることを示している。恐らく政策への転換は数値目標よりも実効性を伴い、様々な側面での議論を必要とするはずである。とするならば10年の時間をかけることによって、議論が出来うる土台が作られたことになるだろう。その為には何らかの形で女性の自主的な関与が必要になってくるはずである。その様な変化の一端として先述したシンポジュウムの開催が行われたことも挙げられるかもしれない。
6 おわりに
今回のレポートは北京会議を中心に、中国と国際的な動きとの関係の中での変化を簡単に整理してみた。政策的な側面から考えれば、北京会議の開催は少なからず中国の女性問題に対する姿勢に訴えかけるものがあったようである。今回使用した論文の多くが95年前後に書かれたものがほとんどであり、中国での開催自体への批判が多く見受けられた。その中で10年が経過した現在の政策と照らし合わせてみると、意外にも北京会議の開催を行った自負は中国の女性政策で重要な柱となっていることが理解できる。しかしながらその一方で、今回出された委員会からの勧告を中国のインターネット上の新聞には一切掲載されていない事実もまた存在する。この両極端な対応の仕方は、恐らく他の政策への対応にも現れ中国政治の堅固な側面を顕にするとともに、委員会が持つ1つの限界を示している様にも感じる。
国際的な働きかけがどの程度中国国内で意味を持つのかを判断することは、政策及び実行においてかなり難しいことのように思う。しかしながら卒論で扱った社会保障と比較して今回のテーマは具体的に国連を代表とする国際的な流れと中国国内の動向が関連している点で、より踏み込んだ両者の関係を捉えることが出来ればと思う。レポートはまだまだ不十分な点が多く残っている。特に実際の問題と政策の関連に関しては全く触れていないため、中国政府の公表されている政策に則した内容になっていることは否めない。その点に関しては、今後さらに女性の権利のどの部分を中心に置くかを決めてから詰めて行きたいと考えている。
[3] 山下 泰子『女性差別撤廃条約の研究』 尚学社 1996年 484ページ
[4] 秋山 洋子 「第四回国連世界女性会議をめぐって」『論集 中国女性史』 吉川弘文館322ページ
[5] 秋山 洋子「参加した人としなかった人と」『私と中国とフェミニズム』236ページ
インパクト出版 2004年
[6]山下 泰子『女性差別撤廃条約の研究』 尚学社 1996年 486ページ
[7] 同上
[8] 松井 やより『北京で燃えた女性たち 世界女性会議95』 岩波書店 1996年
21ページ
[9] アジア女性資料センター『女たちの二一世紀』
四号 1995年8月 29ページから30ページ
[10] 石川 照子「中国の女性労働政策 −改革・解放時期の失業問題をめぐる法制化を中心 に−」『論集 中国女性史』 吉川弘文館 311ページ
[11] 《中国妇女发展纲要》 http://www.nwccw.gov.cn/show/ggjjshownews.jsp?belong=&alias=jcpg_fvetfzbg_gj&news_id=33355
[12]原題「当代中国婦女状況的分析と予測」『社会学研究』1994年3期 70ページ
(前山加奈子 訳)「経済改革と女性問題」『中国の女性学―平等幻想に挑む』
秋山洋子他編著(けい草書房、1998年)
[14] 同上
参考文献
柴山 恵美子等 編著 「世界の女性労働」 2005年
総理府男女共同参画室 編 『北京からのメッセージ −第四回世界女性会議及び関連事業等報告書』
田村 慶子等 編著「東南アジアのNGOとジェンダー」2004年 明石書店
中国女性史研究会編 「中国女性の一〇〇年 : 史料にみる歩み」 2004年 青木書店
辻村みよこ 著 「女性と人権 歴史と理論から学ぶ」 1997年 日本評論社
参考ホームページ
CEDAW http://www.un.org/womenwatch/daw/cedaw/states.htm
中国女性(中国妇女)http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-09/10/content_1073241.htm
(2006/9/20)