ドイツにおける戦後補償の経緯

国際社会研究専攻 1年 呂 洋

はじめに

20047月から8月にかけて中国で行われたサッカー・アジアカップにおいて、中国側サポータが「反日騒動」を起こした。20054月、中国の主要都市で大規模な反日デモが起こった。首都の北京では約一万人が参加し、日本大使館に石やペットボトルなどを投げ込んだ。日本料理店などまでもが破壊の対象となった。上海では、日本人留学生が殴られてけがをした。これらの「反日行為」は日本だけでなく、各国の主要メディアに大きくに取り上げられた。

いったいなぜこのような事態が起きてしまったのか。その原因として、靖国神社参拝問題、歴史教科書問題、領土問題、中国における愛国教育問題など、様々な問題が指摘されている。また、中低層の民衆の中国政府への不満のはけ口として利用された反日デモという指摘もあり、その他にも、中国企業のライバルである日本企業にダメージを与えるための経済目的としてのデモという指摘もある。これらもデモの一因であることは確かである。それぞれ独立した問題のように見えるが、私からすればそれは同じ根から発生した事柄であり、根本的な原因はやはり歴史認識の違いのように思える。それが靖国神社参拝問題や歴史教科書問題、領土問題に顕著に表われ、大規模な反日デモにつながったのである。また、比較的メディアに取り上げられる回数が少ないため認知されにくいが、戦後補償問題に関して消極的な日本政府の姿勢も重要な要因の一つであることは間違いない。

靖国神社参拝問題や歴史教科書問題、領土問題はメディアなどでも長い間語られてきているにもかかわらず、平行線をたどる一方である。私はこれらのことよりも日本の戦後補償に対する姿勢に疑問を感じている。

日本で歴史問題を考える際に、必ずといっていいほど引き合いに出されるのがドイツである。共に第二次世界大戦で破れ、戦後も似た歩みを経てきた。本論文では、ドイツにおける戦後補償の経緯を概観し、今後の日本における戦後補償との比較資料にしたい。

 

二つの世界大戦

 1914年、第一次世界大戦が勃発し、ドイツは191811月に降伏した。その戦後処理のため、19191月から5月にかけてパリ講和会議が開かれた。この会議では英・米・仏の3国が指導権を握り、ドイツに単独の戦争責任が帰せられた。628日、ヴェルサイユ宮殿において国際連盟規約およびドイツの領土・賠償・軍備問題などに関する諸条約を含んだ講和条約が連合国側とドイツとの間で調印された。これがヴェルサイユ条約である。しかし、条約による海外領土の消失、莫大な賠償金[]、軍備縮小に対する国民の不満も大きかった。これがヒトラーを生み出した一因となった。

 1926年、ドイツは国際連盟に加盟し、常任理事国となった。しかし、同年にはソビエトとベルリン条約を結び、独ソ軍事協力を強化していった。1933年、ヒトラーは国際連盟を脱退した。

 1939315日、ヒトラーは軍をプラハに侵攻させ、そして同年91日にはポーランドに侵攻させた。一方、同年12月日本の対米宣戦で太平洋戦争が起り、戦域は全世界に拡大した。これが第二次世界大戦の始まりである。ナチスの統治下で行われたユダヤ人迫害は、ドイツ国内だけでなく、ドイツ軍占領下の全ヨーロッパで行われ、大きな被害を出した。1933年には、ドイツにユダヤ人は50万人ほどいたが、その全てと、ヨーロッパ全域で510万人から650万人と推定されるユダヤ人が殺害された[]

 1942年夏以降、連合国軍は総反攻に転じ、43年にはスターリングラード[]におけるドイツ軍が全滅した。455月英・米・ソ軍のベルリン占領によりドイツが降伏し、8月には原爆投下により日本が降伏し、第二次世界大戦は終了した。

その後、ドイツの主要犯罪人22人に対して国際軍事裁判所がニュルンベルク法廷で裁判を行った。これがニュルンベルク裁判である。

 

「過去の克服」

 「過去の克服」という言葉はドイツ連邦共和国初代大統領テオドーア・ホイスによって世の中に広められたと言われている。今日のドイツにおいて「過去の克服」とは一般的に、ヒトラー支配下のドイツ、つまりナチス・ドイツの侵略や非人道的行為に対する戦後ドイツのさまざまな取り組みを総称する言葉として用いられている。「過去の克服」の具体的な行為についてはさまざまあるが、大別すると、

1) 加害者の追及

2) 被害者、犠牲者の救済と補償

3) ナチズムの再来を防ぐという意味での再発の防止

の三つの柱によって成り立っている[]。この三本の柱はいずれも単独でなされるものではなく、他の二本があって初めて効果を持つものである。もちろんこの三本の柱だけで「過去の克服」が成り立っているわけでもない。ここで私が最も注目したいのは(1)の加害者の追及である。

加害者の追及について最も重要な点の一つはナチス犯罪の時効の問題である。旧西ドイツの刑法では通例の殺人罪は20年の時効が適用されていたため、終戦の1945年から20年目の1965年に時効を迎えることになっていた。しかし、その直前にイスラエルやフランスなどの近隣諸国からの圧力を受け、時効の始まりの年を西ドイツが成立した1949年に修正し、結果として時効年限が4年間延長された。さらに、再び時効を迎えることになった1969年には諸外国からの声は大きく、時効がさらに10年延ばされた。そして、これらの結果を受け、1979年にドイツはある重要な選択を迫られた。それは、時効を成立させて今後のナチス犯罪の追及をやめるか、それとも時効を廃止してこの犯罪を当事者が生きている限り永久に追求するか、のどちらかであった[]

197973日、旧西ドイツの国会において、255222、わずか33票の差で「時効廃止」が可決され、ナチス犯罪は永久に追及されることとなった。こうして、ニュルンベルク裁判とその後のアメリカ軍によるニュルンベルク裁判(継続裁判)に引き続き、ドイツは自らの手でナチス犯罪の追及を続けたのである。このような旧西ドイツにおける戦争犯罪に対する追及の厳しさは、日本と比較して政治的道義の高さを物語るものとして注目された[]。しかし、ここで最も重要なことは政治的道義のレベルではなく、ドイツがナチス犯罪に関して時効を廃止させ、その決定を下したことが戦前と戦後との間の明白な違いとして示した点である。悪をあくであるとして、二度と繰り返してはならないことをこのような形で明らかに示した点、そして自国民の加害責任を追及し、裁判にかけるというその姿勢が、東京裁判とその他の連合国によるBC級裁判で全ては終わったとした日本との違いなのである[]

 次に被害者の救済について見ていきたい。195012月、ドイツでは戦争犠牲者の問題を扱った連法援護法が制定された。戦争犠牲援護とは自国民の救済を意味していたが、日本との違いにおいて重要なのは、空襲の被害者と他国民の扱いである。日本では、原爆被害者とは異なり、空襲の犠牲者は戦争犠牲者として認定されることがなく、戦争犠牲者援護の対象外であり続けている。ドイツではそうした区別は存在しない。また、日本の国籍条項による自国民以外の援護の排除はなく、戦争犠牲者援護の対象をドイツ国民に限定していない[]

 

ドイツの国内補償立法

次にドイツにおける補償の現状について見ていきたい。補償に関しては、まずドイツが占領されていた時期に連合国によって補償立法がなされ、西ドイツが独立国となるとその法律にならって国内法で規定がなされた。

1連邦補償法[]
 1953年に制定された「連邦補充法」は3回にわたる修正を経たのち、1956629日に「連邦補償法」と名前が変わり、戦後補償の基本法となる規定になった。この法律でいわれるナチズムの被害者は、ナチズムに対する政治的敵対関係、あるいは人種、信仰、世界観を理由としてナチスの暴力措置によって迫害され、生命、身体、健康、自由、所有物、財産、職業上または経済的に損害を受けた者である。国籍条項は適用されないが、194711日まで西ドイツに居住していた者、または1937年を基準としてドイツ圏内に居住していた者と制限されている。
 対象者には年金、一時金、治療費などが支給され、
199311日までに総額71049百万マルクが支払われている。1993年の時点での年金受給者は約15万人。月平均12千万マルクが支払われ、そのうち83が西ドイツの居住者である。
2連邦償還法[10]
 過去にユダヤ人から略奪した財産の返還を目的とした法である。19471110日に制定された償還法をもとに、1957719日に制定された。直接返還が可能な財産はそのまま返還し、それが不可能である場合には損害額を算出して支払う。199311日現在まで3933百万マルクを支払い、2030年までに40億マルクに達する予定である。この法による返還の34は不動産であった。
3)苛酷緩和最終規定[11]
 1980年当時の与党であった社民党の発議で強制不妊、強制断種の犠牲者へひとりあたり5000マルクの一時金を支払った。同年103日には当時まで対象者に入っていなかったユダヤ人被害者の中で、健康障害がはなはだしい者を支援するために、4億マルクの苛酷緩和最終規定が制定された。1981826日にはユダヤ人以外の被害者を対象に、さらに1億マルクが準備されている。1988年にはさらに3億マルクの緩和基金が設置された。
 連邦とは別に西ドイツの
11の州で犠牲者補償を実施し、1990年までに約218千百万マルクが支払われており、2030年までには総額35億マルクが支払われる展望である。
4) 国内被害者補償[12]
 第二次大戦中、軍事またはそれに準ずる任務の遂行中に被害を受けた者に対する援護法。ドイツ内の外国人、国外のドイツ人にも適用される。1993年まで829億マルクが支払われ年間16億マルクが支払われている。戦後西ドイツは戦争賠償として莫大な海外資産を放棄している。これに対しては賠償補償法が制定され、被害を受けた個人の損害を保全することとした。収容されてしまった個人財産に対する補償を行ったわけである。
 その一方で、戦争過程で財産を破壊されたり、戦後旧ドイツ領から追放または帰還した際に財産を喪失した者に対する対物補償のために、負担調整法が制定された。また戦争過程で財産被害を受けなかった者は、
1948年を基準として保有財産の1/2相当額を30年にわたって連邦政府に納付することとした。旧ドイツ領から西ドイツに移住した約1000万人の難民の2/3が適用の対象となった。

 

おわりに

 これまで、ドイツにおける戦後補償の経緯を概観してきた。本論文では戦後の日本について触れていないが、戦後の日本との類似点と相異点が私の中で明白になってきた。

まず何よりも、ドイツにおいてニュルンベルク裁判や連合国の裁きで済んだとせずに、自分達で過去に関する結論を出したことが日本との大きな相違点の一つであり、世界の中でも注目に値するであろう。もちろん、戦後の日本とドイツが置かれた立場に基本的な違いがある。例えば、地理的相異である。日本は大陸から離れた島国としてこれまで歴史を歩んできたが、ドイツはヨーロッパのほぼ中心に位置し、旧ソ連を除けばヨーロッパで最も多くの国々と国境を接している。よってドイツの戦後補償の場合、近隣諸国からの圧力があったことは確かである。この地理的相異が両国の歴史への対処に大きな影響を与えてきたと言える。また、そもそも第二次世界大戦自体が日本とドイツでは違う意味を持っていたと主張する人もいる[13]

しかし、今日のドイツは自らの手で過去の加害者を追及し、戦後補償を行っている。ここで確認しておかなければならないのは、私はドイツの戦後補償体制を美化し、そこにはまったく問題が生じないと言っている訳ではない。ただ、相異点ばかりに目を向けず、日本とドイツにおける共通点、さらに今日のドイツの戦後補償に対する積極的な姿勢にも目を向けなければならない。戦後補償裁判で戦時中の事実認定がなされても、原告の請求がほとんど棄却される日本の戦後補償体制が学ぶべきものがそこに存在するのではないかと私は考える。

 



[] 19214月、連合国はドイツの賠償額を1320億マルクと決定した。

阿部謹也『物語ドイツの歴史』(中央公論社 1998234ページ参照。

[] 同上。244ページ参照。

[] ヴォルゴグラードの旧称。ロシア西部、ヴォルガ下流に沿う工業都市。1925年までツァリーツィン、2561年スターリングラードと称。第二次世界大戦の激戦地。(広辞苑)

[] 佐藤健生「ドイツにおける「歴史」への対処」『国際問題』(日本国際問題研究所 200146ページ参照。

[] 同上。47ページ参照。

[] 望田幸男『ふたつの近代―ドイツと日本はどう違うか―』(朝日新聞社 2001

146ページ参照。

[] 日本については、一方で東京裁判を「勝者の裁き」であると非難しながら、他方では東京裁判で決着済みとする主張に矛盾が見られる。佐藤「前掲論文」48ページ参照。

[] 同上。48ページ参照。

[] アジア記者クラブ http://apc.cup.com/index.html?no=12.1.0.0.2.0.0.0.0.0. 参照。

[10] 同上。

[11] 同上。

[12] 同上。

[13] 日本の戦争は「解放戦争」であったし、ドイツの「人道に対する罪」とは異なり、「通例の戦争犯罪」が問題とされたと主張する人がいる。このように日本とドイツの相異点を強調する立場は、自らの加害責任を回避しようとする立場である。

佐藤「前掲論文」43ページ参照。