2004年11月2日
比較政策研究
国際学研究科
国際交流研究専攻
MK040305 高井孝美
日光市に期待される国際化
―――――「世界の日光」
世界遺産と観光立国――――
はじめに
日光国際交流協会を発足させて、はや2年となる。市民として行政にその必要性を訴え続けて数年、いっこうになんの進展も見られないのでついに民間だけで立ち上げる形となった。「世界の日光」「国際観光都市日光」と呼ばれながら、これまでこのような交流団体がなかったことは意外だと思われるかもしれない。観光客は訪れるが在住外国人は少ないというのが理由とされてきた。現在、日光市の人口は約1万7千人。平成14年度に訪れた観光客は約610万5千人。そのうち外国人観光客は、約3万5千人。(日光市観光商工課調べ)。およそ市の人口の倍の外国人を迎えていることになる。市民は子供のときから「世界の日光」という言葉を何度も聞かされて育っている。しかし、外国人に対するホスピタリティについてはインターナショナルな雰囲気に程遠い。英語のボランティア通訳はほぼ市外からの応援、市としてはホームステイの送り出しはしていても受け入れはいっさいしていない。平成16年度にいたっては、夏期の中高生ニュージーランド派遣でさえも予算削減の為中止となった。ALT(外国語指導助手)は1名で11校の小中学校を担当しているために、ALT本人の努力にもかかわらず効果は薄いと思われる。
日光市において外国人観光客対象のアンケートを実施したり別荘利用の在日光外国人との座談会などを行った結果、これは日本国内の他の観光地にも言えることだが、外国語案内標識の不備やインフォメーションセンターの機能不足も指摘された。国際電話どころか、普通の公衆電話さえどんどん撤去されているので、観光地として不親切だと言われている。また、致命的なのは日光市内ではカードが使える店が非常に少ないことや、ATMで簡単に現金を引き出せないことである。これでは外国人観光客に日光でお金を遣わないほうがいいと言っているようなものであり、カードが使えないことは現代の観光地としては信じがたいことであるが、これに関して金融・商工関係からのなんの指導もなされていない上に、自営業者もその手数料を負担するのを嫌がって導入をためらっている。したがって外国人観光客は御土産を買いたくてもお腹が空いても、帰りの電車賃だけは何とかして確保しておかなければ東京に帰ることが出来ない。これが「世界の日光」の現状である。
序章
栃木県日光市は観光地として外国にもよく知られ、湯元・中禅寺湖や、華厳の滝などの奥日光の自然と、1999年に世界文化遺産に登録された東照宮・輪王寺・二荒山神社を中心とする宗教的歴史的建造物があることでも有名であるため、上記のように多くの外国人観光客が訪れている。そして、その歴史が語られる時、古代からの宗教の聖地としての観光の面は強調されるが、案外、明治以降から現代に継承されている国際的な交流のページや史跡が紹介される機会は少ない。
また、最近になって、国際化や外国人観光客誘致がクローズアップされ、商業的な駆け引きが行政や観光協会において話題にされている。しかし、それに対応する人材の育成や受け入れる側のサービス意識は全く改善されていない。現在の日光市において国際化という視点で行政システムを点検する限り、そのほとんどは名目上のものであり、実態はかなりずれているというのが問題となっている。ましてや、青少年の国際化教育に関しては驚くほど遅れている。市町村合併をひかえて調べたところ、となりの今市市では国際化に関して行政としてそれなりの実績もあり、合併後の新「日光市」となってからこの部門での改善はおおいに期待されるところである。
そこで、これらの現状を踏まえた上で、「NIKKO」という観光地の歴史からみて、これからの日光市に期待される国際化を改めて考え直し、新しい「日光市」に提言していきたいと思う。
第一章 日光の国際化における歴史的背景
日光は歴史をさかのぼれば、奈良時代(766)勝道上人によって仏教の聖地として開かれた。はじめ四本龍寺が建立され日光権現が祀られ、平安時代(810)には今の輪王寺の前身である「満願寺」と寺号を改める。鎌倉時代には将軍家に仕える僧侶たちによって、神仏習合の山岳宗教の地「日光山」として包括され関東の一大霊山となった。江戸時代には、徳川家康を東照大権現として祀る東照宮が建立され二荒山神社とともに神道をつかさどり、仏教である満願寺は「輪王寺」の寺号を天皇家より勅許される。輪王寺門主と呼ばれる法親王(皇族の僧侶)が徳川家の祭祀をつかさどるという神仏習合・公武合同の姿で運営される特殊な聖地となって明治維新を迎えた。慶応4年(1868)明治政府が宗教政策として神仏判然令を出した後、明治4年(1871)日光でも神仏分離がなされ、日光山は二荒山神社、東照宮、輪王寺の二社一寺に分離され今日に至っている。
(1)近代観光産業の幕開け―観光地NIKKOの誕生
日光は明治時代から外国人との縁は深い。現存する日本最古のホテルといわれる「日光金谷ホテル」の創業もヘボン式ローマ字の生みの親であるアメリカ人ヘボン博士(ジェイムス・カーティス・ヘップバーン)らの勧めがきっかけである。英国人女性旅行家イザベラ・バードはその旅行記(「日本奥地旅行記」明治12年)で日光を世界に紹介し、その中に金谷ホテルの前身である「金谷カッテ―ジ・イン」も登場している。それまで日本人の間では、山岳宗教の聖地「日光山」に信仰中心で登ることは古くから行われてきたが、彼らのように純粋なツーリズムとして日光を訪れるようになったのは幕末以降であった。まさに外国人が日光の観光産業の近代の幕を開けたともいえる。
安政5年(1858)、日本はアメリカとの修好通商条約をはじめとして、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間にいわゆる安政5カ国条約を結んだ。この条約によって、明治元年(1868)までに、横浜、長崎、函館、神戸、大坂、新潟、東京が開港され、外国人居留地が出来たが、その内容にはかなり制限があった。公使や総領事など外交団には、職務上国内旅行が認められていたが、一般の外国人は原則として居留地内に限定され、周辺地域も日帰りの範囲でしか散策が許されなかった。
また、当時は外国人を受け入れる側にも規則があり、無届けで宿泊させたりすると社会の秩序を乱すとされ、罰金や鞭打ちの刑に処せられた。こうした維新直後の不自由な時代に日光を最初に訪れた外国人は明治3年(1870)駐日イギリス公使ハリー・パークスらの外交官達であった。公使館の若い職員のなかからは、アーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレンといった日本研究家や避暑地・日光を広く紹介する外国人が現れてきた。
明治維新後、日本に赴任してきた欧米諸国の外交官や御雇外国人たちにとっては、日本の夏の蒸し暑さは耐えがたく、明治6年(1873)日本陸軍御雇教師のマルクリー中佐は仲間を代表して、気力の充実や身体を健全に保つという目的で、富岡、箱根、日光などへの夏の長期休暇願いを出している。それに先んじて、明治5年には横浜の英字新聞「ジャパン・ウイークリー・メイル」は一般の在日外国人が内地を旅行できる日に備えて、東京、横浜を基点とした旅行ルートを掲載し、その中で、イギリス公使館書記官アーネスト・サトウが中禅寺を旅した印象を4回にわたって紹介した。
明治7年(1874)、「内地旅行規則」制定、明治8年(1875)「外国人旅行免状」誕生、再び奥日光を訪ねたアーネスト・サトウは40ページほどの小型パンフレットをジャパン・メイル社から発行して奥日光の魅力を伝えた。「内地旅行規則」のルートに日光が指定されたこともあり、日光はそれまでの信仰のための巡礼の聖地としてではなく、自然科学、博物学、建築美術といった研究分野からも外国人に注目され、美しい自然に包まれた健康保養地、国際的避暑地へと生まれ変わることになる。
例えば,明治10年(1877)には、東大に生物学科が新設され、矢田部良吉教授は日光にて草本を採集、植物標本の基礎をつくった。同じ頃、ドイツ人デーニッツ、ラインらは湯元、男体山で採集、フランス人宣教師ファリーも31年に採集し、多くの植物学研究家によって早くから草本採集され発見されたため、ラテン語の学名にニッコウがついたり、ニッコウ地方の地名が冠されるものも多い。ちなみにアーネスト・サトウは武田兼という日本人女性との間に子どもをもうけ、次男の武田久吉はその後ロンドンに渡り植物学を学び、帰国後日本の植物学界に貢献し数々の勲章を受け、日光市内浄光寺に墓がある。
(2)鉄道開通がもたらした避暑地日光町の賑わいと奥日光の国際交流
明治18年(1885)、上野―宇都宮間に鉄道開通。宇都宮―日光間は人力車である。以前は丸3日もかかった日光への旅も鉄道によって1日で行けるようになった。この年日光を訪れた外国人の数は3年前の163人に比べ、553人と約3倍に増えている。開通して2年後の1887年には1200人にものぼっている。避暑客が増加するに連れ、ホテル建築も始まったが、日光に滞在しようとする外国人の数はそれ以上に多く、輪王寺の僧侶の家などに寄宿するようになった。東照宮をはじめとする建築物への驚きや奥日光の自然や当時の日本人の習慣など、この頃の様子は明治19年の秋に日光を訪れたアメリカ人ヘンリー・アダムスとジョン・ラファージの紀行文のなどにも紹介される。とくに、画家ジョン・ラファージは東京から日光への道中の様子なども細かにスケッチし、民家や人力車夫の姿など文章でも描写している。
明治23年(1890)、宇都宮―日光間も鉄道開通。金谷ホテルも事業拡大するようになり、日光町は日本人の観光客も徐々に増えるようになった。外国人滞在者数は、明治23年に1358人、24年に1741人、25年に1928人となり、日光は国際的避暑地として繁栄するようになる。しかし、外交官達は喧騒を増してきた日光町を避けてより閑静な奥日光中禅寺湖畔に移るようになり,各国大使館別荘が建てられた。山と湖の美しいこの土地は欧米の外交官達にスコットランドの湖水風景を思い出させ、スコットランド人貿易商トーマス・グラバーは中禅寺湖にフライフィッシングを日本で最初に持ちこみ、鱒釣りを始めた。明治27年(1894)には外国人避暑客用にレークサイド・ホテル開業。湖畔に別荘を構えた外交官達は釣りやヨット・レースを楽しみ、「夏場は外務省が日光に移る」とまで言われる様になった。
大正にはいり、T型フォードを購入した金谷ホテルをはじめ自動車が交通手段として導入されるようになって、大正14年、いろは坂も自動車が通行できるように改修された。翌年には湯元まで乗り入れられるようになり奥日光の観光地化は急激に促進された。その頃、アイルランド人と日本人女性との間に生まれた実業家ハンス・ハンターは鱒釣りを通して中禅寺湖に在日外国人と日本人紳士達の集う避暑地の国際社交クラブを設立する。(東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部)
ハンタ―の西6番別荘を中心とする社交界では、皇室や日本の上層部が諸外国の外交官達と友情を育み、情報交換をし、日本と外国の親善関係に大いに貢献した。ところが、昭和に入り世界恐慌などの影響で不況の影が濃くなると、日本は満州事変をはじめに軍事的に過激になり欧米諸国との関係も徐々に悪化していった。やがて年間4万人を突破した来日外国人観光客の4割が日光に宿泊するようになり、日光の閑静な避暑地も俗化してきた。
第2次世界大戦が始まると日本国内にある外資系企業も次々と閉鎖し、中禅寺湖畔も賑わいをなくしていった。昭和15年、西6番別荘も火災の為焼失し、開戦のため日本政府はイギリス、アメリカの国内資産を没収し、奥日光における国際交流社会は事実上消滅した。
(3)今も生き続ける山内「赤門」における国際交流――アメリカ人外交官ジョン・K・エマーソン
日光市山内の東照宮の裏手に「滝の尾道」という奈良時代からの修験者の道が山上の滝尾神社まで続いている。杉の古木がうっそうと茂る石畳の苔むした参道を小1時間も登ると、左側に崖の上から岩をつたって細い滝が流れている。「白糸の滝」と呼ばれ、文明18年(1486)、京都聖護院門主、道興准后が鎌倉を経て日光滝尾神社に参詣した折うたった「世々をへて結ぶ契りの末なれや、この滝の尾のたきの白糸」という歌が立て札に記されている。そして、そのすぐ傍に石碑があり、そこには「JOHN K. EMMERSON AMERICAN DIPLOMAT FRIEND OF JAPAN 駐日公使 日本の友 1908-1984」と彫られてある。
ジョン・K・エマーソンとは、第2次世界大戦前後に日本に関係した米国の職業外交官で、その回想録“The Japanese Thread”(日本の糸)「嵐のなかの外交官」(邦題)のタイトルにもこの滝の名を使ったように、日光にも深く関係する人物である。エマーソン氏は1962年にライシャワー大使のもとで駐日公使となり日光をこよなく愛し、また、地元の人々と深い交流をしたことでも知られている。彼は、単なる親日家としてではなく、日米が戦い世界が激動する時代に日本と日本人の精神を深く知るための専門家としての立場から、日本での国際交流の経験を米国の対日政策に反映させようと努めた。
その交流の拠点となったのが山内「赤門」である。日光発祥の地、四本龍寺のある滝の尾道入り口近くに通称「赤門」と呼ばれる朱塗りの門を構える木造の建物があり、今も別荘として使われている。この敷地は江戸時代の二十ヶ院八十坊といわれた輪王寺支院のうち明治政府の命令で廃絶された「佑源坊」「鏡徳坊」の跡地で現在も輪王寺の境内となっているが、当時別荘地として利用されるようになった草分け的な存在である。建物は、明治初期に来日した米国聖公会宣教師で建築家のジェイムズ・マクドナルド・ガーディナー(立教大学初代校長)氏の設計に寄るもので、輪王寺の記録に寄れば、「赤門」別荘は昭和6年からアメリカ人の別荘として代々利用され、今の所有はエマーソン氏の子孫になり、それを現在東京在住の様々な国籍の外国人グループが借り受け、毎週末ごとに日光に滞在し地元住民との交流や、日光を訪れる外国人との交流の架け橋的な活動をしている。また、かえって外国人ゆえに部外者としての利点からか、明治から続く神仏分離以来の神社と寺とのあいだの微妙な距離感をうまく融合させ、両者をも交流させる不思議な場所ともなっている。
数年前、この「赤門」の門が永年の風雪に耐えかねついに倒壊し、平成14年にニュー人ランド人女性デボラ・へイデン女史を中心とする有志により再建されたが、その落慶法要には神社、寺、地元住民を招待し、赤門ゆかりの外国人や持ち主のエマーソン氏の子孫もアメリカから駆けつけ、往年の日光山内を彷彿とさせる国際交流の光景が再現された。
(4)世界文化遺産登録後の日光
平成11年(1999)12月、国連教育科学文化機関ユネスコによって「日光の社寺」は世界遺産に登録された。対象となったのは日光山内地区の日光二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺、およびそれらの境内地の50.8ヘクタールでその中には国宝9棟、国指定重要文化財94棟の合計103棟の建造物群が含まれる。また、周辺には遺産を保護するための緩衝地帯も設けられた。日光の社寺は世界遺産の中でも文化遺産という種別で、特に建造物群と文化的景観を備えた遺跡を主な資産として登録されている。
世界遺産登録後、国内も外国人旅行者も年々増加し、外国人旅行者アンケートによると、京都、富士山、日光は必ず訪れたい日本の名所となっている。日光橋を渡って正面の山内地区の玄関である旧表参道入り口ではユネスコのマークが彫られ「日光の社寺」と刻まれてある大きな岩の前で記念写真を撮る外国人の姿がよく見うけられる。世界遺産という万国共通の観光資源の影響は一過性のものではなく、息の長い集客効果を持っていることがこの5年間であきらかとなった。
しかし、17世紀の日本を代表する天才的な芸術家達の作品である建造物群とこれらを取り巻く宗教的自然環境との調和ということを考える時、日光国立公園の指定、保護を受けながらも安易に開発されていく周辺地域の問題がある。山内の社寺は奥日光の大自然をバックグラウンドとする山岳宗教なしには成立しないが、現代はそれらを切り離した観光資源として扱っている為にむしろ日本人よりも外国人たちのほうがその精神性を忘れた観光地化に危機感を持ち始めている。街並みの貧相で不ぞろいな醜さや妙に山奥まで人工的に整備された道路などの景観に対する無神経さが、せっかくの美しいたたずまいや自然をだいなしにしているとの指摘もある。
また、自営業者、一般市民、行政も国際観光地としての意識は低く観光客を迎える態度も旧態依然としているため、次々にイベントや広報などを行うわりには根本的な改革にはならず、ホスピタリティ推進協議会などに寄せられる苦情もあとを絶たない。特にマイカーで通りすぎる日本人観光客よりも徒歩で移動する外国人観光客の方が日光滞在時間は長いので、日光のホスピタリティに対する不満や不便に対してもっと積極的に取り組むべきだという意見も寄せられている。
第二章 現在の日光市が抱える国際化の問題点
こうした国際的な背景があって今日に至っている日光だが、では、現在の状況はどうだろうか。3年前、個人的に交換留学生を預かって(2000年―2001年ロータリークラブ)目と鼻の先の日光高校に受け入れてもらえずに隣市の今市高校まで通わなければならなかった経験がある。この時に日光市の国際化の対応について個人的に調べた結果は以下のとおりであった。
(1)日光市の国際化の現状 参考資料1(平成14年度調査分)より
(2)日光市の国際化に対する施策と問題点 参考資料2(〃) より
これは日光の国際化を考える上で動機となった現状であるが、その後日光国際交流協会を設立したことにより、2年前とは幾分状況も変化してきてはいる。また、市町村合併を控えて今後も大きく改善される面もあると思うが、とりあえず参考資料として紹介したい。
(1)日光市の国際化の現状
参考資料1
日光市の国際交流に関する質問(Q)と答え(A) (平成14年度調査と16年度追加分)
Q.1日光市としての国際交流の実績について、過去を含めて教えて下さい
(ニュージーランド派遣、国際交流員、ALT, 姉妹都市、その他)
A.1 日光市少年海外体験研修ニュージーランド派遣
(平成8年度〜中学生2名、高校生4名)
(平成12年度〜中学生2名、高校生5名)
(平成16年度 中止)
A.2 国際交流員(平成元年〜6年)
A.3 ALT(外国語指導助手)
(平成10年度〜1名。市内7小学校、4中学校。財団法人と折半の補助事業)
A.4 姉妹都市
(昭和44年 アメリカ、パームスプリング市)
友好都市
(平成5年 ドイツ、フッセン市)
(平成16年 中国、敦煌市)
A.5 「青年の船」
(平成11年、中国11日間。5名)
(平成13年、〃 4名)
A.6 アジア太平洋文化協力会議出席(市長)
(平成13年、13カ国 44都市参加)
(平成14年、29カ国 43都市参加)
A.7 その他各国より毎年(大使、議員団、視察団など)訪問あり
A.8 Japan-Korea市民交流フェスティバル2002in Nikko
(朝鮮通信使パレード)
A.9 Nikko International Summer Camp 2004
(日光国際交流協会協力)
Q.2 その効果、又は研修後の活動、貢献について教えて下さい 上記の記号参照
A.1 研修後リポート提出のみ
A.2 交流員の紹介により12年前10数名来日。市職員宅にてホームステイ受け入れ
A.3 ALTは1名で全校をカバーする為、あまり交流はない。教育効果はまだわからない
A.4 パームスプリング市……昭和56年頃(1981)まで交流。現在休止中
フッセン市……平成5,7,11年(1993−1999)日光訪問
A.5 研修後リポート提出のみ
Q.3 今後の展望と目標について教えて下さい
A1 国際化に関する庁内連絡会議を通しての事業展開
Q.4 今までにホームステイ受け入れの要望はありましたか?
A.1 市としてはわからない
A.2 日光高校ホッケー部家庭が韓国学生受け入れ
A.3 国際交流員紹介生徒(カナダ)市職員宅受け入れ
A.4 個人として(ロータリークラブなど)受け入れ
(2)日光市の国際化に対する施策と問題点
参考資料2
以下の施策は日光市の回答によるものである。市では国際化に対応する総合的なセクションはなく、5つの課によって個別に対応しているとの事である。
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日光市役所における国際化推進の施策
<国際性豊かな人づくり>
@国際理解を図るための各種講座の開催(外国語・外国文化講座)−市民課・総務課
A国際交流関連情報の提供(地域の国際交流情報の収集・提供)−総務課
B青少年・女性リーダーの養成(海外派遣事業・養成事業)−社会教育課
C外国語教育の充実(外国語指導助手の雇用・教員の海外研修)―学校教育課
D海外生活体験者の活用(異文化理解講座等の講師)―社会教育課
<国際化に対応した地域づくり>
@国際交流活動のための施設整備(国際交流拠点の整備・交流)−観光課
A国際観光の振興(外客向けパンフレット・案内板の整備・善意通訳者
ボランティアガイドの確保・観光案内所の整備充実
接遇講習会の開催)−観光課
B在住外国人に対する情報の提供(外国語による情報提供)−市民課
<相互交流・国際協力の展開>
@民間団体による交流活動への支援(各種団体による交流支援・
文化・スポーツ交流支援)−総務課
Aホームステイ・ホームビジット活動の整備
(ホストファミリー登録制度の整備)−観光課
B国際交流事業への啓蒙・啓発(県国際交流協会・自治体国際化協会との連携)−総務課
C友好都市との交流、文化スポーツを通しての活動(フッセン市、その他)−総務課
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問題点
日光市では以上の施策を掲げているが、いずれも名目だけで活発化、実現化が見られないのが現状である。ただし、(2)のAにおいては,徐々に改善が見られる。国際観光都市日光をうたいながら、栃木県を代表する知名度のわりに国際化が進んでいないのは、自治体としての取り組みが意欲的ではないことに加え、市民性として閉鎖的な土地柄(排他的、恥ずかしがりや)、努力をしなくても外国人観光客が訪れてくれることへの依存によるものとみられる。
少なくとも、自治体として、今日の急速な国際化の波に乗り遅れているのは確かである。また、友好という精神に照らしても自分の利益だけでなく、対外的にも貢献する意欲が欲しい。特に、青少年の国際化教育に関してはあまりにも消極的で、このままでは人材を育成するどころか、優秀な人材は外部に流れていくのは必須である。ホームステイに関しては、1人を派遣する効果より、1人を受け入れる教育、異文化交流の効果の意義は大きいのに行われていない。
在住外国人の少ないことから、市民レベルでの国際交流活動は難しい点もあるかもしれないが、ホームステイ受け入れや、県内留学生との交流、来訪外国人への親切な応対を心がけることは出来る。また、市としても国際観光都市日光ということを宣伝文句にしている以上は、事業計画だけでなく実現に向けて積極的に内外との連携を図って欲しい。企業研修、接待などの誘致、留学生の多数受け入れ(財団法人に働きかける)と教育機関の設定、外国語情報、案内の整備などすぐ出来ることはたくさんあるのではないか。
姉妹都市の交流はほとんど消滅しており、それ以外でも特定の視察団、派遣団のみの交流では一般市民に関わることはとんどない。市全体に対する国際交流のメリットは少ない。このような各課別々の事業計画は非常に非能率的であると同時に、責任の所在をうやむやにし、この施策の停滞の原因の一つとなっている。統一された国際化対応の窓口を早急に設置すべきである。
今後は次のような流れによって検証していきたい。
第三章 国際化とは――「世界の日光」に期待されるもの
(1) 外国人から見たニーズ・日光像
(2) 取り組み
ケース1:赤門復活・日光国際交流協会の設立と活動―日本文化紹介と外国人受入れ
ケース2:日光インターナショナルサマーキャンプ2004―国際交流を観光資源に
(3) これからの可能性
世界遺産をどう活かすか
合併後の日光から発信できるものはなにか
考察
政府はグローバル化時代を迎えて「観光立国」をうたいはじめた。そこでまず行われるのは視察だろうか、懇談会だろうか。役人は誰かが手配してくれたチケットで決められたコースを視察し、都会の机の上で町並みを整備し、データや数字だけで受入態勢だの広報活動だのを論議するのだろうか。
官庁や企業だけでなく、私たち市民も考えたい。いちど、自分でチケットを買い、外国の町を歩き、土地の人や生活を見聞きし、スーツケースをぶら下げて帰って来てみてほしい。いかに日本では、空港が遠くて不便か、外国語表示が少ないか、町並みが美しくないか、古いものや自国の伝統文化に無頓着か、又、異国で言葉が通じないと言うのはどんなに心ぼそいか自分が外国人の立場になればよくわかることである。
私たちはながいこと日本が世界の真ん中に位置する地図で学習してきた。気軽に海外へ出かけて行くが、それは私たちを迎えてくれる国々があるからだろう。多くの外国人にとって世界地図の一番端っこ(極東)の国日本は、外国人を心からウエルカムしていると言えるだろうか。金儲けの皮算用の前に、ホスピタリティの原点なくして「観光立国」はありえない。
また、世界遺産に登録された土地に住む市民としてその価値を理解して、次世代に伝えていくことはどういうことかもういちど考え直したい。現代の国際化に対応する為にはとりもなおさずそのオリジナルな風土の歴史と文化を知ることである。なぜなら、世界中の旅人が欲しているのは本物の異文化に触れることであり、また同時に普遍的な人間の営みや自然の力なのではないだろうか。
栃木県というと地方としての存在感はあまり印象的ではないが、「日光」というと、多くのひとはそのイメージをすぐに思い浮かべることが出来る。今回の平成の大合併で日光市は栃木県の約4分の1の面積をもつ広大な市となる。本州でも異例の広範囲にわたる自治体となることは確かで、鬼怒川温泉や栗山、足尾の山々をひかえてますますその奥深い懐をもつ歴史的な観光地となる可能性は大きい。この機会にどのように町づくりをし、どのように日本をここから発信することが出来るかが今後の栃木県の、さらには日本の観光の大きな課題となることは間違いないと思う。
徳川家康を祀る日光東照宮の陽明門の真上に北極星は位置し、世界はその星を中心に回っているという説もあるが、江戸幕府300年の安泰を保ち最後に無血で江戸城を明け渡した徳川家が選んだこの地が、宗教の習合する聖地だった歴史も決して無関係ではないだろう。今日でも、神道、天台宗、天理教、カソリック、プロテスタント、幸福の科学などの宗教関連施設があり信仰の人々が日光を訪れる。現代の国際的な対立や紛争が宗教や異文化に根ざすことを考えれば、また違った角度でこの日光の地を検証することも可能である。
日光は美しい自然に恵まれ、世界遺産にも指定された社寺などの歴史的建造物や文化財も豊富で、日本の首都東京からも近い。水もうまい。このように観光資源に恵まれた贅沢な環境のなかで、日光国際交流協会としての外国人向けの初仕事が、「日光ではカードもATMも使えないことが多いので、東京で現金をおろしてきてください。」とホームページに載せることになろうとは、まことに情けない話である。
参考文献・映像
“A Diplomat in Japan” Sir Ernest Satow 1921
“The Japanese Thread” John K. Emmerson 1978
“The Tea Ceremony” Seno Tanaka /Sendo Tanaka 1973 Kodansha International
「嵐のなかの外交官 ジョン・エマーソン回想録」 宮地健次郎訳 1979 朝日新聞社
「異文化を生きた人々」 平川祐弘著 1993 中央公論社
「洛山晃」 小島喜美男著 1998 随想舎
「ジョン・ラファージ 画家東遊録」 久富貢・桑原住雄訳 1981 中央公論美術社
「ギメ 東京日光散策・レガメ 日本素描紀行」 青木啓輔訳 1983 雄松堂
「図説 アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官」 横浜開港資料館 2001 有隣堂
「日光山輪王寺 宝ものがたり」中里昌念・柴田立史著 1992 東京美術
「日光山輪王寺 昭和31年 第六号」 輪王寺
「日光山輪王寺 平成16年 第69・70合併号」 輪王寺
「日光の故実と伝説」 星野理一郎著 1961 栃木県連合教育会
「日光市史」「日光史」 星野理一郎著
「日光縦横談」 須賀進著 1961 三興社
「森と湖の館 日光金谷ホテルの百二十年」 常磐新平著 1998 潮出版
「日本人の神と仏」 菅原信海著 2001 法蔵館
「日本人と神たち仏たち」 菅原信海著 2003 春秋社
「日光東照宮の謎」 高藤晴俊著 1996 講談社
「知られざる日光」 読売新聞社宇都宮支局編 1994 随想舎
「日光 社寺と歴史」 沼尾正彦著 1975 金園社
「日光避暑地物語」 福田和美著 1996 平凡社
「日光鱒釣紳士物語」 福田和美著 1999 山と渓谷社
「聖地 日光の至宝」 NHK 2000
「茶道の美学」 田中仙翁著 1996 講談社学術文庫
「茶の本」 岡倉天心著 桶谷秀昭訳
「国際シンポジウム 世界遺産と国際学術交流」宇都宮大学国際学部10周年記念事業
――報告4「日光の社寺の世界遺産登録における現実と課題」 原澤健太 2004
「海を渡った600体の神仏 明治9年エミール・ギメが見た日本」NHKハイビジョン・スペシャル
「テレメンタリ―‘99裏切りの記憶 南米日系人の強制連行と親日外交官」 1999 琉球朝日放送