講座社会学12―――環境(まとめ)                  MK040104

総論 環境問題の歴史と環境社会学                   賈 臨宇

飯島伸子

 

1「環境社会学」とは

環境問題への関心は、20世紀の最後の30年間に、日本国内においても、世界的にも、かつてない高まりを示した。この社会現象は、言うまでもなく、公害問題や環境破壊環境異常などが地球規模で問題化し、その影響が人間社会や人間生活に前例のないほどに及んできている事態と関連して生じてきたものである。

環境社会学は、対象領域としては、人間社会が物理的生物的化学的環境(以下、自然環境と略)に与える諸作用と、その結果としてそれらの環境が人間社会に対して放つ反作用が人間社会に及ぼす諸影響などの、自然的環境と人間社会の相互関係を、その社会的側面に注目して、実証的かつ理論的に研究する社会学分野である。(船橋晴俊 飯島伸子1998)。

環境社会学の定義に沿って、専門的に環境と人間社会との関係を社会学的研究止揚とした研究集団の足取りを辿って見ると、それは日本においてもっとも早く現れており、1950年代までさかのぼることができる。アメリカ合衆国においては、1976年にアメリカ社会学会に環境社会学部会が設置され、続いて「環境社会学」が提唱される画期的な動きがあった。その後、イギリス、カナダにおいては1980年代か研究が活発化しているし、韓国では、1990年代半ばに環境社会学が発足している。フランスやドイツ、オーストラリアなども研究成果は発表されている。中では、環境者社会学の成立や展開への貢献という点では、アメリカが突出している。「環境社会学(Environmental Sociology)」という呼称は、1970年代末に、アメリカ合衆国において、農村社会学者キャットン(Catton,W.R.Jr.)とダンラップ(Dunlap,R.E.)らによって「新しいパラダイム」の学として提唱されている(Catton and

Dunlap,1978a;Dunlap and Catton1979). ここで言う「新しいパラダイム」とは、人間特例主義パラダイム(Human Exemptionalism Paradigm)から新エコロジカルパラダイム(New Environmental paradigm ,New Ecological paradigm)への転換を意図するものと説明され、HEPからNEPへとして提唱された。

 

2「環境社会学」成立の背景

満田久義は、アメリカにおいて環境社会学が提唱された背景には、1970年代アメリカの「環境時代」化に伴う全米規模の環境団体の積極的なロビー活動やアース・デー運動の成功、国連人間環境会議の開催、ローマ・クラブの『成長の限界』など、アメリカ国内と世界規模での環境行動や環境意識の影響があったと述べる(満田、1995)。同じくアメリカの環境社会学的研究者寺田良一は、こうした動きの背景に2つの理由を求めている。其の1つは、「60年代末からの対抗文化や参加要求などが産業社会批判へと転換ないし合流したこと」であり、2つ目は、エコロジー(エントロピー)経済学が、無限の進歩や無尽蔵の資源への信奉に有効な反論を提示したことである。寺田は、特に、2つ目の理由が、「それに相当する社会学上のパラダイム転換を試みる動因となっているように思われる」(寺田、1986)と分析する。

日本では、この時期、公害・環境問題がもっとも深刻化するとともに、公害対策もある程度整備されるなどの動きが活発であり、諸学は、続々と発生する重大な健康破壊事件の因果関係の究明や治療法の探求、公害裁判の研究や被害者の実態把握などを追求して多くの研究成果を挙げている。社会学でも、当初は、諸学に混じって、農村社会学や村落社会学、地域社会学などを専門的分野とする研究者たちが中心となって、公害問題の地域生活への影響の実証的研究や地域住民の地域開発に対する対抗行動の研究をグループとして遂行していた。

このように、日本と米国とでは、具体的な研究対象や研究機関は異なっており、研究態勢も極端に異なっていたが、社会学の分野でそれまで研究範囲からはずされてきた環境と社会の相互作用を、重要な研究対象であるとみなす点においては、日米の研究関心は共通するものであったという点は強調すべきである。

 

3 戦後日本の公害・環境問題と社会学研究

3−1戦後復興期の公害問題と社会研究――1950年代

戦後日本の公害問題は、まず戦前に大きな被害を出した地域で再発する形で問題化している。筑豊地帯の炭鉱再開に伴う公害問題や群馬県安中地区の亜鉛精錬工場の操業再開による公害問題、北九州の大製鉄所による地域の大気汚染や水汚染、栃木県足尾銅山鉱毒被害などである。

社会学領域では、1955年にこの中の安中地区における鉱業による公害問題を含む地域開発の社会的影響に関する調査結果が発表されている。日本人文科学会が日本ユネスコ国内委員会の委託を受けて実施した近代技術の社会的影響に関する実態調査の一環としてであった。全体としては、鉱工業が地域社会に与えた影響の解析を目指したものであったが、中心的分析課題の1つが公害問題の地域社会への社会的影響であった。この研究は日本における公害・環境問題の社会学的研究の嚆矢であるとともに、世界的にも最初の実証的研究である(島崎ほか、1955)。

電源開発は、日本各地に大規模のダムを建設することとなり、日本人文科学会による調査研究は、1950年代におけるダム建設の社会的影響を明らかにしている。(日本人文科学会、1959

水俣病問題を社会学として最初に研究したのは大学院生であり、修士論文の中で、水俣という地域社会の構造が水俣病の被害者に与える影響について検討している。(飯島、19681969)。

3−2石油化学コンビナートの公害問題と社会学研究――1960年代

1950年代後半には、「石油化学の国産化は政府と化学メーカの緊急の課題」(小野英二、1971)との方針のもとに石油化学コンビナートが愛媛県新居浜、山口県岩国、三重県四日市、神奈川県川崎の4ヶ所の建設される。公害問題史の視点からするならば、広範な地域におよぶ大気汚染や水汚染、大規模災害とぜんそく患者多発の時代の始まりであった。

社会学は、日本各地の大規模工業化や地域開発が地域社会に与える影響に関する一連の共同調査を実施する。このシリーズの中には、三重県四日市における石油化学コンビナートの地域影響も含まれている。(福武直編、1965)。1965年に東京大学の「公害」に関する公開講座で、社会学者として、四日市調査ほかにもとづいて、「公害と地域社会」と題して講演している(福武、1966)。

1960年代、全国総合開発の一環としての新産業都市と工業整備特別地域指定に関して、1963年静岡県沼津市、三島市、清水町の住民たちとそれぞれの自治体首長が一致して石油化学コンビナート進出に反対であると宣言をしたことで、1964年、企業側は計画を撤回し、住民たちの石油化学コンビナート進出反対運動は、企画的な勝利を獲得する。

 社会学は、地域開発と住民運動の関係に関する報告書の中(青木和夫、1965)や住民運動のモノグラフ研究(高橋・園田・古城、1965)、地域社会と公害問題の関係に関する代表事例の1つとして飯島(1969)など、複数の調査分析が発表されていく。三島市は、工業化による公害問題をすでに経験していたことを、繊維工場の過剰地下水揚水による三島市の水源枯渇事件の研究で明らかにした研究も発表される(北川隆吉・石川淳志、1965)。九州の水俣問題と二市一町における石油化学コンビナート進出反対運動と比較した研究が発表された(飯島、1970)。1950年代とともに1960年代は、日本における公害問題の社会学的研究の創始期であった。しかし、1970年代初頭に発表した公害と地域社会の関係に関する論文集(松原編、1971)を最後に、グループとしての公害問題の成果は停止している。強力な指導性を発揮していた中核的研究集団の研究停止は、公害・環境問題における社会学的研究のその後の展開を減速させることに、著しく影響を及ぼしたものと考えられる。(飯島伸子1998)。

3−3環境問題激動の時代の社会学研究――1970年代

1970年末の国会で、14の公害関係法が一度成立し、翌年の1971年には公害・環境問題専門担当官庁環境庁が発足した。1960年代にこかした「四大公害裁判」が1970年代に、すべて勝訴したからであった。この時代、全国的な被害者組織も結成し、日本の中で、もっとも力強く反公害運動を展開している。

70年代初頭には、有賀喜左衛門や鈴木栄太郎などの村落社会研究者のグループが、大石油コンビナート地帯の水島コンビナート周辺地域の調査結をもとに、報告書『水島臨海工業地帯に隣接する地区住民の生活に実態と将来に関する総合的調査報告』(中野ほか、1972)を発表した。また、コンビナートに隣接した地区に一人に人物の一生を口述史の形で記述史、其の人物の語りを透かして地域の歴史や社会構的構造、そして公害問題の影響を伝える生活史研究発表されている(中野、1977)。

社会史的視点からの研究としてこの時期になされたのは、被害者運動史および公害問題と労働災害・職業病に関する社会学的な視角を活かした年表の作成である。(飯島19771979b、19741975)。

被害構造研究では、被害者生活構造の悪化や崩壊が生じる因果関係を論じたのもがある(飯島1975,1976a、1976b、1976c,1979c).島崎1955年最初の調査報告書と群馬県安中の公害問題再度取り上げて、安中公害問題と農業者の生活破壊の関係について論じているのである。

このほかにも、福武グループの若手研究者が、地域開発をめぐる漁業運動の分析(若林、19741975)、日本各地の環境住民運動を幅広く調査して分析した住民運動論(松原・似田貝編1976)など、開発と公害問題の社会学的研究を受け継いだ成果を発表している。

しかし、1950年代に始まった公害・環境問題の社会学的研究の流れは、先述したように、中核的研究集団が1970年代初頭に活動停止したこともあって、社会学の独自な領域の形成への動きを示すことはなく、米国における1970年代末の環境社会学の提唱に先を越えされることなる。

 

引用文献

船橋晴俊 飯島伸子編 1998『講座社会学』−12環境 東京大学出版社 

飯島伸子編 1993 『環境社会学』 有斐閣