山あげ祭りと氏子組織・自治会活動との関連
1山あげ祭りの由来
烏山八雲神社誌(宮司黒崎寿著)の由緒によると、永禄三年(1560年)牛頭天王を大桶から酒主村(烏山町の旧名)十文字に勧請したと書き出されている。永禄三年の頃は、歴史上戦国時代でしたので世の中の統制と治安が乱れ、野盗、追剥が烏山町の近辺にも出没した。その様な不安の中で突然疫病が大流行した、もちろん医療機関はなく、重病患者は、死を待つしかない。そこで主だった人が集まり、その年の吉凶を占易したところ、大桶村から、疫病除け、厄除けの神様を分霊し奉祀すると良いとの卦によって現在の十文字に牛頭天王を勧請し、氏子達が「病気が治りますように」と祈願し、併せて余興を奉納する事になり、神前に舞台を造り、踊りを奉納いたしましたところ、拭が如く病気が治ったと伝えられた。氏子達は大変喜び且つ安墸の胸をなでおろし、以後毎年お祭りを行う事を定め、いつか現今の「山あげ祭り」に発展して来た。
2山あげの推移
天王様(牛頭天王の特称)信仰は各地に見られますが、八雲神社由緒書によれば、永禄三年(1560年)ときの城主那須資胤(那須余一の子孫)は戦国時代で内乱がうち続き、戦死者多く、且天災のため飢饉に人民は苦しみ、疫病に死ぬものあとを絶えない有様を見て、天下泰平、五穀豊穣、疫病削除を祈願して、大桶村より酒主村(現烏山町)に勧請したと言う。
牛頭天王はもとインドの祇園精舎の守護神であり、京都八坂神社の祭神となり、薬師如来の化身と称し、また素盞鳴命を祭神したといわれている。
(註)烏山町の牛頭天王は明治三年神仏判然令により、八雲神社と改称され祭神を素盞鳴命、大正三年社有地拡張のため現在地に遷座されている。
那須家のご心願普ね、村民に9まで及んで、街の十文字の平地に神殿が建立されましたが、最初は大した祭典も村民の祭礼もなかったように伝えられている。その後、那須の片田舎にも神を敬う思想が流れ、境内も烏山中央に位置することから、薬師さんと同じく病気の神様と考えられ信仰ももり上がってきたと思われる。永禄六年(1563年)に観請祭礼が初めて行われていたが、その祭礼の内容については記録に残っていない。しかし正保元年(1644年)城主堀親昌侯のとき、鍛治町、元町・田町(元田町)、荒町(金井町)赤坂町(泉町)中町、五町相計り、祭礼を中町十文字で操り、或は相撲、神楽、獅子舞などを初めて行われていたが、以前は幣束を神馬に飾り、おわたり(渡御)になる程度のものであったと伝えられている。
正保元年の祭礼は「宝前興行」として、前述の余興が神前に初めて奉納され、天王建として今日に伝えられている。ェ文六年(1666年)信仰心篤く社寺行政にも熱心な名君掘美作守親良は、神殿が平地にあることを、現在地を切盛りし石垣を築き神殿を新築奉納している。人々は烏山特産の和紙を用い「山」をつくり、六人衆や寺の庭に、踊り場を開設して奉納し参拝者に観覧させている。
元文三年〜宝永四年には、「山あげ」の特長とも言うべき踊りが披露され、踊りも最高潮に達すると、化生(神通力を有するもの)が現れ観衆をわかせ、これが「山」に降臨された八雲大神と神を奉迎した氏子等崇敬者が年番に奉納された「山あげ」の芝居を干渉し相共に喜び合う姿であり、これが山あげ祭の本姿であると考えられる。
古代日本人の神観は「神」は天然自然の山岳に天降ると考えられており、のちに人造の依代にも降臨すると考えられるようになった。烏山の和紙張りの山にも「神が留る」と考えられたのも自然である。「山こそ」は「しめ山」であって、七月一日には注連立という神事が八雲神社の鳥居の前に太い真竹に注連縄を張り青空高く立て神の降臨を意味する習いとなって、今日に伝わっている。
一、「山」を立てれば、不景気直しになる
一、「山」の「はりか」を裏板に使えば落雷除けになる。
一、
古い「はりか」の灰を肥料に使えば豊作になる。
一、
屋台の造花を家に挿しておけば火伏せになる。
一、
屋台に使った反物を着れば子供が生れ、子供は健康に育つ。
一、
屋台のお礼は安産の神
と言われております。
当初、奉納余興として相撲や神楽獅子などが行われていましたが、寛文年間(1661〜1672年)には踊りを上演するようになり、さらに元禄年間(1688〜1703年)には狂言が行われ、やがて享保から宝暦年間(1716〜1763年)にかけて歌舞伎舞踊がとり入れられ、同時に舞台装置や舞台背景も大規模になり、江戸時代末期頃に現在の野外歌舞伎の形態となりました。
全国でも類例のない山あげ祭は、烏山町八雲神社例大祭の奉納行事として、450年の歴史を誇り、昭和34年栃木県重要文化財民俗資料第1号に指定され、昭和38年国選択の民俗資料、昭和54年2月には国重要無形民俗文化財に指定されていた。
祭りの宮座組織は、八雲委員(八雲講)−中老−若衆世話人−木頭(きがしら)−若衆、というタテの関係で結ばれている。八雲講は宮座の上部組織である。八雲講の講長は宮司が担当し、町内の三役と中老経験者又は同等以上と認められて者によって組織され、各町は七人以内と制限されている。中老の座は若衆世話人の経験者でないと中老になる事ができない。若衆の相談役であり、八雲委員と若衆との橋渡しの役割でもある。若衆世話人は、若衆出身のベテランで、祭り開始までの全責任を負う。祭りの場では、若衆のかしら=木頭が総指揮をとる。若衆は「大山」「屋台」というように、それぞれ持ち場に分かれ、部署ごとに主任がつく。山あげを行うには、総勢約150人の若衆を必要とする。つまり150人の人手を当番の町で揃えなくてはならず、原則として一世帯につき一人(長男)を出すことになっている。
しかし、烏山町に少子老齢化問題が深刻している中、千戸以上の金井町や、五百戸以上の日野町では明らかに人数がオ−バーフローしてしまうので、希望者が若衆になる。それに対して泉町など人手の足りない町では、他町から応援を受けるなど、アルバイトを雇って、人手を集めるケースも出ている。まだ、老人ばかりの世代では自治会から脱離し、町内会費の徴収が困難になるのは現状である。
山あげの装置と宮座組織――特に祭りの場では若衆の関係は実に緊密である。若衆が一致団結した群れとなり、ハレという異次元空間へ跳ぶことがなければ、山あげは成り立たない。若衆あっての山あげ祭りである。若衆は祭りの一ケ月前から、町の自治会館などに集い、山づくりの仕込みにとりかかる。仕込みは昼間の仕事を終えてから、夜行われる。「山」をはじめとする装置を新たに作ったり、繰作の練習を行ったりする。ハレの空間を敏速なる集団行動によって短時間で作り出す、他に例を見ない技術は、圧倒的な迫力である。ここは、年長者から若い者へ、長年つちかわれた伝統の知恵、歴史、芸を伝承する社会教育の場でもある。若衆はここで心の波長を合わせ、連帯感をもち、そして祭りの場で、一糸乱れぬ集団の技を展開する。
まず、山あげは、城下の元田町、金井町、仲町、泉町、鍛冶町、日野町の計六町が毎年、先の順序で交代して行う。つまり、一つの町には六年に一度当番がまわってくるわけである。もとは経済的な理由から交替制になったが、山あげ当番となると、一年をかけ準備し、三日間の祭りに当番町一致団結し、心意気を示し、町内毎の若衆の対抗意識も強まり、各町の若衆が競い合うことによって、祭り全体が活性化している。各町の山あげは、それぞれが個性にあふれており、山上げ祭り発展の原動力と思われる。
次に、スタープレイヤーを作っていないことである。集団行動によってもたらされる達成感は大きく、若衆の群れにとってスターは不必要とされている。
そして事故を起こさないことである。これほど大がかりでありながら、病気やケガを一切起こさないそうだ。危険とうらはらにある状態が若衆を活性化させるのであろう。
その反面、祭りにおいて、若衆は私的感情を謹むことになっていて若衆の意見や主張など吸上げてくれなく、保守的な宮座組織の上部に伝わらないと言う不満もでている。まだ若衆がお祭りを参加するのは街の慣行行事として扱う傾向に移り、宗教意識が薄くなりつつある。
烏山町では、山上げ祭りにおいて、アデンティティを持つエリアは旧六町(元田町、金井町、仲町、泉町、鍛冶町、日野町)に止まり、町全体ではなく、一部地域しかすぎない。よその地域は関心が薄く、閉鎖的な性質を持っている。
4山あげ祭りとまちづくり
この山あげ祭は、毎年7月の第4土曜日を含む金・土・日の3日間行われ、役場の話によると、観光客は十万から十二万人にものぼる。
役場は山上げ実行委員会を設立し、町長が委員会会長を担当することになっていて、祭りの際、町の交通規制や祭りの円滑などの役割を果たしている。祭りの費用は役場からの補助金は900万円となっていて、不足の部分は当番町の寄付によって成り立てている。
烏山町が町づくり政策としては、個性的で魅力ある地域づくりをめさしている。「さわやかな緑と山上げ祭り」テーマを設定し、昭和61年度から誇れる町づくり事業の県指定を受け、地域住民、町、県一丸となって、それぞれの地域の特性を生かした個性的で魅力ある町づくりを推進し、各種の事業を実施してきた。山あげ会館は、その事業計画の中で平成3年に完成した。山あげ会館建設の趣旨は山あげ祭りの保存と育成を図り後世に伝えると共に、地域の人々や訪れる観光客に年間を通して紹介し、祭りの雰囲気を味わう新しい観光の拠点としての施設だ。山あげ会館は行政から年間2000万円の補助金をもらい。お任せ経営を行っている。
しかし、経済不況の中、入館者利用状況(図表1)によると、平成5年から利用者及び入館料の収入は減る一方だ。
この山あげ祭が町にとって最大の町づくりエンジンと考え、地域の活性化の原動力となっている。その伝統と本物の力強さが来訪者を招き、観光産業をより一層開発することに力を注いでいる。
それは、観光産業振興としての側面もが、町民の誇り、精神的な支えとして強力に駆動しつづけていることである。烏山のかたがたは、この祭りを保存しているのでなく、生活に欠ない生きた行事として、巧みな技術の伝承とともに開発しつづけていると思われる。誇りを持つ自治意識の高い地区を作り出すことを努力している。
祭りの日以外の烏山のかたがたのライフスタイルがたいへん豊かであろうことが、祭りをとおして推し量られる。たとえば、若衆の顔つきがとても良いこと、街の風情が清楚であること、など現象面でいくつかあげられる。
そのためか、烏山に入ってみるとタイムスリップした感覚が生じる。それは「古い」というのでなく、うらやましさも少し混じった「なつかしい」という感覚である。
そして、地域に住まいの人たちの親睦と結びつきを深めながら豊かで住みよい「まちづくり」を目指す自治組織を強化することが必要である。自治会はこうした人びとの願いをさらに盛り上げて、より住みよい地域を築いていくことを大きな目的として組織され、自治会は一部の人たちによってつくられるものではなく、地域に住む人たちの総意でつくられ、活動し、また成長させていくべきだ。