平成15年11月6日

移民と言語教育政策

 

                            MK020109 篠崎 博行

 

1.       【少子化の現状】

日本社会の将来を考えた時、高齢者の増加とともに大きな問題となるのが、子供人口の減少である。98年の日本の出生数は120万3、149人であり、一人の女性が一生の間に何人の子供を産むかを示した合計特殊出生率は、1.38と、史上最低の数になっている。もし、将来も同じ人口水準を保つには2.08以上の合計特殊出生率が必要になる。先進国でも合計特殊出生率が下がっており、特にヨーロッパでその傾向が顕著である。中でもスペインが1.15(96年調査)、イタリアが1.22(94年調査)、ドイツが1.29(96年調査)と、軒並み低い数字が出ている。アメリカは2.03(96年調査)という高い数字を示しており、他の先進国と比べて、まだまだ発展する要素のある若い国であり、将来が明るいということを示している。

一方、日本は、現在の出生率のままで進むと、人口が2007年頃に1億2800万人くらいでピークに達した後、2050年には1億人、2100年には7000万人弱まで減ると推計されている。

 

2.       【少子化の影響】

   少子化が、日本経済に与える影響としては、労働力人口や生産年齢人口すなわち労働力の減少が最も大きい。働いて金を稼ぐ国民が少なくなり、福祉に頼る国民が多くなれば、国の生産力が低下し、経済の活力が必然的に失われる。特に日本は、天然資源に乏しく、国民の勤勉な労働によって富を蓄え、エネルギーや食料を得てきた。このような国にとって「国民」のパワーがなくなることは、まさに死活問題である。

   1995年の時点で生産年齢人口は約8700万人であるが、2020年には7500万人ほどになってしまうと予測されている。図を見てわかるとおり、生産年齢人口(15歳から64歳)は1995年あたりから減り始めている。一方で老年人口(65歳以上)は増え続け、年少人口(0歳から14歳)は減り続けている。

   こうした人口構成の変化は、産業構造、消費市場などにも大きな影響を与えることは確実である。総務庁の発表によれば、1996101日現在の生産年齢人口は前年より10万人少ない8716万人で、減少は戦後初めてということだった。少子化の影響が、ついにわが国の労働力の面に出始めたわけである。この傾向は、大量の外国人労働者を移入させない限り、今後も絶対に改善されることはない。最近の出生率の低下が21世紀初頭以降の生産年齢人口の減少を加速させ、労働力はますます不足することになる。結果として、労働力不足が日本経済を衰退へと向かわせることは必至になってきたと考えられる。

 

3.       【外国人移民の受け入れ】

   先進国が軒並み合計特殊出生率の低下を憂えているなかにあって、アメリカは唯一、

  2.03の数字を保っている。アメリカの出生率がなぜ高いかは移民を受け入れているからである。そもそも移民によって建国されたアメリカは、継続的に移民を受け入れることで新しい文化を創造し、国の活力を生んできた。1820年から1990年までの170年間で、世界中から5700万人もの移民を受け入れている。

   人口の少子高齢化という深刻な事態に陥っている日本でも、その対応策として、児童福祉手当を増やしたり、子供を産むごとに税の負担を軽減するなどといった財政措置が取られている。しかし、現状を打開するまでの社会的インセンティブ(刺激)にはなっていない。こうした状況のなか、従来否定的だった外国人移民の受け入れについて、日本でも考え直すべき時期が来たと言われている。長期的に見て、日本人から生まれる子供の数を増やすことが難しいのであれば、移民を積極的に受け入れ、日本に帰化させることを少子化問題の解決策としたらどうだろうか。

   99年、小渕元首相のもとに、「二十一世紀日本の構想」懇談会が設けられ、翌年に最終提言『日本のフロンティアは日本の中にある』が公表され、その中で「移民政策に踏み出す」ことが提唱された。外国人の多くが普通に、快適に日本で暮らせる総合的な環境を作り、日本に住み、働いてみたいと思わせる移民政策であり、海外の人々が憧れるような国に日本を作り変え、目的意識的に外国人の日本移住に道を開く政策である。なし崩し的に門戸を開放して混乱を招く前に、日本にも国全体としての総合政策が必要となってきているのではないだろうか。

 

(今後の進め方)

  移民政策に成功していると言われているオーストラリアの移民政策と言語教育政策に

 注目しその現状と問題点について調べたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【参考文献】

     舛添要一著 「少子高齢化ニッポン」PHP研究所 1999

     山本 肇著 「少子亡国論 低出生率社会をどう乗り切るか」かんき出版 1998

     和田 純著 「週間東洋経済 2001年6月16日号 視点 日本への外国人移住に総

       合的な移民政策の確立を」東洋経済新報社 2001

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    平成15年12月1日

移民と言語教育政策

 

                            MK020109 篠崎 博行

 

1.【オーストラリアの移民政策「白豪主義」】

   オーストラリアはもともと移民によって成り立ってきた国である。17世紀にヨーロッパの探検家たちがこの地に到達した当時には、約35万人のアボリジニ(オーストラリア先住民)が狩猟生活を行っていた。さらに1世紀ほど経過した1770年に、イギリス人のジェームズ・クック船長が東海岸に到り、1829年に全大陸は英国領となった。1851年には金鉱の発見によりゴールドラッシュが起こり、そのことが多くの資本と移民を呼び寄せることとなった。イギリスからのみではなく中国からの移民数も増加し、オーストラリアの人口はこの時に飛躍的に増大した。非西洋人の大量の流入に危機感を持った白人たちが「白豪主義」を導入したのもこの頃である。

   まず各州で中国人を締め出す法律が制定され、日本人などその他の有色人種にも拡大適用されていった。1901年の連邦結成に伴い、連邦移住制限法が制定され、白豪主義は法的に確立された。第二次世界大戦終結までは、主としてイギリスからの白人移民によって成り立っていたと言える。歴史的にもイギリスとは極めて密接な関係があり、必然的にイギリスの社会・文化の影響を大きく受けていることになる。

   第二次世界大戦直後の1947年から、政府は大量移民政策を実施した。この政策は、当初、日本軍の本土攻撃に触発された大陸防衛強化と戦後の経済復興・経済成長のために必要な大量の労働力増を目的として開始された。イギリス系移民の他に非英語系ヨーロッパ移民や難民を受け入れ、19501960年代にはギリシャ、イタリア、旧ユーゴスラヴィアから大量移住を求めた。

 

2. 【オーストラリアの移民政策「多文化主義」】

   1960年代になるまではアジア人を受け入れなかった。アジア人など有色人種排除の手段として使われたのが、ヨーロッパ言語の書き取りテストであった。移民審査官が課すこのテストは、アジア人締め出しの有効な武器となった。しかし、国際的に白豪主義に対する批判が高まる中で、書き取りテストは1958年に廃止された。また、第二次世界大戦後、日本をはじめとする極東アジアや東南アジアとの経済関係の必要性が叫ばれるようになり、白豪主義政策は関係強化への大きな障壁であると意識されはじめた。

1966年には移民法が緩和、ベトナム、中国、韓国、シンガポールなどのアジア系移民が急増した。1973年にはウィットラム労働党政権が移民の人種差別条項を撤廃し、法的に白豪主義は廃棄された。オーストラリアは人口構成の多様化と伝統文化・言語への深い愛着から文化・言語の維持を望む非英語系移住者の拡大、そして自国のアジア太平洋国家化の促進によって白豪主義を廃止したのである。このウィットラム政権下において多文化主義(multiculturalism)が先駆的に唱えられ、以後80年代になると普及しはじめ、名実ともに多文化社会オーストラリアとなった。

 

3. 【オーストラリアの人口構成】

   現在のオーストラリアの人口構成はどうなっているのか。移民の出身国は非常に多岐に渡り、

  オーストラリアは現在、様々な人種によって成り立っている。最近では非英語圏からの移民の増加が顕著である。1998年の人口推定によれば、総人口の22.8%が海外の出生者であり、オーストラリア生まれのうち、少なくとも片親が海外出生者である者は27%を占める。

  総人口の約2%(約40万人)はアボリジニである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   このように、多様な人種・民族によって人口が構成されているために、住民の中には、自分の母語のみしか話すことができず、英語が使えないことにより日常生活あるいは就業において支障を者が出て来た。オーストラリアの住民として生活していく上での言語に関する様々な問題が浮上してきたのである。

 

4.       【オーストラリアの言語教育政策の模索】

   移民を推し進めてきたオーストラリアにとって、移民の子どもたちは問題となった。日常生   活、学校生活を送っていく上での英語能力不足が顕著であった。1978年にガルバリー

  報告書が出され、初めて多言語・多文化に関わる問題をめぐって英語以外の言語教育の必要性が示され、政府はこの勧告を受諾した。また、この当時、学者による移民に

  関する研究が急速に進められ、さらには当事者である多くの移民たちからも問題改善に対する発言が多く出されていた。これらを背景にして、子どもをめぐる言語の問題は、教育の分野において「多文化教育」として再構成され、その中身として英語教育、

  英語以外の言語教育、バイリンガル教育などが決定された。

   行政は、成人の非英語系移民とその子どもたちに対し、この先オーストラリア国民の一員として不自由なく生活していけるように、現在第二言語としての英語(English as a

    Second Language)教育を積極的に行っている。

   しかし、マイノリティである移民の英語能力向上という対策を講じるだけでは、多文化社会で生じる多くの問題の解決にはならず、さらに求められるのは多数派である英語系国民が異文化を持つ人々に対し理解しようとする意識・態度を持つことが重要であると叫ばれた。

  

5.       【英語以外の言語、LOTE教育】

   1978年のガルバリー報告書では英語以外の言語教育の必要性が取り上げられてい    る。英語以外の言語をオーストラリアではLOTE:ロト(Language Other Than English

    と呼んでいる。1987年には「言語に関する国家の政策」が、また、1991年には「オーストラリアの言語:オーストラリアの言語と識字政策」が出された。前者の政策においてはNine Key

    Language9つの重要な言語)が挙げられ、初等、中等教育段階の言語教育プログラムに組み込まれている。(9つのうち、どの言語を優先するかは各州で決定)

 

   1. アラビア語  2. 中国語  3. フランス語  4. ドイツ語

   5. ギリシャ語  6. インドネシア/マレー語   7. イタリア語

   8. 日本語    9. スペイン語

 

   グローバル化の進展に伴い、近年ますます英語の共通言語としての地位が高まっているのにもかかわらず、オーストラリア政府はなぜLOTE教育を推進しているのか、大きな理由は2つ挙げられる。

  第一に、様々な人種によって成り立つ国内社会での円滑なコミュニケーションであり、

  異文化理解の促進である。第二に、対外的な経済の発展である。オーストラリアは近年、対アメリカ・ヨーロッパ以上に対アジアの貿易量を顕著に伸ばしている。オーストラリアの国自体が、自らをアジア圏の一員とする認識を高めてきていることが考えられる。

 

  (今後の進め方)

    少子高齢化を迎えた日本が国力を維持するためにどのような移民政策や言語教育政策が考えられるのかについて調べたいと思う。

 

 【参考文献】

     河原俊昭著 「世界の言語政策」くろしお出版 2002

     竹田いさみ、森 健著 「オーストラリア入門」東京大学出版会 1998

     岡戸浩子著 「「グローカル化」時代の言語教育政策」 くろしお出版 2003

     大津彬裕著 「オーストラリア 変わりゆく素顔」大修館書店 1995