平成15年11月17日
「スハルト声明に見る権威主義的思想」
MK030106 佐々木哲夫
1945年インドネシア共和国憲法の下、スハルト政権は32年間と長期にわたって続いた。しかも、憲法は行政府である大統領に強大な権限を付与しており、独裁体制でもあった。西洋近代民主主義では考えられないくらいの強大さである。なぜインドネシアではこうした強大な大統領権限が、少なくとも制度上は続けられてきたのだろうか。本報告は、そうした強大な大統領権限を認めてきた1945年憲法の思想的背景を含めつつ、1998年のスハルト声明を読み、スハルトが何を目指していたのか明らかにすることを目的とする。
1、独立後の政治史
1945年8月17日、インドネシア共和国Repubulik Indonesiaは2日前の日本敗戦を受けて、独立を宣言した。翌18日、国の最高法規となる1945年憲法Undang-Undang Dasar Negara Repubulik Indonesia Tahun 1945 を制定した。しかし、それから戦前の宗主国であるオランダが再びインドネシアを蘭領東インドとして植民地化せんと侵攻し、独立戦争が勃発した。1949年、ハーグ円卓協定の下、インドネシアに正式に主権が委譲され、インドネシア連邦共和国Repubulik Serikat Indonesiaとして国家が発足した。その後、1950年にインドネシア共和国へと改組された。1959年、初代大統領スカルノSoekarnoは、1950年暫定憲法Undang-Undang Dasar Sementara Republik Indonesiaの破棄と、1945年憲法への復帰を決定した。これは、1949年連邦共和国憲法及び1950年暫定憲法による政党政治が混乱をきたし、スカルノが政党政治不信を持ったためである。1955年の総選挙では、いずれの政党も過半数を獲得することができなかった(表1参照)。かといって政治イデオロギーの異なる政党同士が連立を組むということは考えられず、内閣は機能不全となり、国政は停滞した。スカルノが、こうした事態に懸念を抱くのは、時間の問題であった。上記のような政治情勢を考慮し、スカルノが「指導される民主主義Demokrasi Terpimpin」を標榜し、大統領に強大な権限を認めている1945年憲法に傾倒するのは自然である。
|
得票数 |
得票率(%) |
議席数 |
国民党 マシュミ党 NU党 共産党 その他 |
8,434,653 7,903,886 6,955,141 6,179,914 8,311,705 |
22.32 20.92 18.41 16.36 22.00 |
57 57 45 39 59 |
合計 |
37,785,299 |
――― |
257 |
表1 1955年総選挙結果
(参考)インドネシア総選挙委員会(Komisi Pemilihan Umum)ホームページ
http://www.kpu.go.id より筆者作成。
ただし、四捨五入の関係上、得票率の合計は100%にならない。
1945年憲法に復帰し、強大な権限を背景に政治を推し進めていったスカルノだが、1965年の「9・30事件[1]」によって、失脚する。この事件で頭角を現したスハルトSoehartoは、1967年に大統領代行、翌1968年に第2代大統領に就任する。スハルトは「開発」と「安定」を中心に座す政治を目指し、権威主義的システムを構築していった。これは、スカルノ期の指導性民主主義や議会制民主主義を「旧秩序orde lama」と呼び、その対象として「新秩序orde baru」と名づけられた。
スハルトは陸軍出身ということもあり、国軍を掌握した。また、1945年憲法の不備である、国民協議会Majelis Permusyawaratan Rakyat議員の公選規定欠落に目をつけ、大統領を任命する国民協議会議員の半数近くを大統領任命議員とした。さらに、ゴルカルGolongan Karya [2]、開発統一党Partai Persatuan Pembangunan、民主党Partai Demokrasi Indonesiaの2政党1団体のみを政治団体と認め、それ以外は総選挙に登録することはもちろん、設立すら認められなかった。加えて、スハルトは野党である開発統一党や民主党の党内人事にも干渉するとともに、総選挙の際に届けられる比例候補者名簿で候補者をスクリーニングし、「危険分子」を政治の世界から排除した。言論の自由やデモなどの大衆政治活動を規制、或いは禁止し、大衆の政治的動員を解除した。かつてスハルトの腹心であったアリ・ムルトポは、こう発言した。「人民はトラである。飢えたトラを解き放ち、これに乗ろうとしてはならない。トラは檻に入れ、飢えることのないよう餌をやるがよい。そうすれば、そのうち芸のひとつもするようになる」[3]。また、政権の正統性を開発と成長に求め、外国援助を積極的に受け入れるとともに、スカルノ期の容共から一転、親米反共路線に転換し、西側諸国と協調体制を築いた。
しかし、スハルトは5年毎の大統領選挙で多選を重ねるとともに、当然ではあるが高齢となった。また、家族主義kekeluargaan[4]の名の下、ファミリービジネスを拡大し、インドネシアにおける利権の多くは、スハルトファミリーへと通じるようになった。いわば、「全ての道はローマに通ず」のように、「全ての利権はスハルトに通ず」となってしまった。
1997年、タイを起点にアジア通貨危機が発生した。インドネシアも多大なる影響を受けた。しかし、自力かIMF支援かは別としても経済危機を乗り越えたタイやマレーシアと異なり、インドネシアではそれが政治危機、そして体制崩壊へとつながってしまった。だからといって、スハルト新秩序体制崩壊の要因は経済的側面だけではないので、その他の考えられる要因も含め、以下に箇条書きながら列挙しておく(順番は関係がない)。
・多選(1998年3月の大統領選で7選)
・高齢(1921年6月8日生。7期目を全うする2003年には82歳となる)
・教育水準の向上(識字率や就学率の向上)
・世代交代(「9・30事件」など、スハルトの怖さを知らない世代の台頭)
・ファミリービジネスへの不満(この国はインドネシア人のものか、それともスハルト一族のものかという議論)
・IMF勧告による補助金撤廃(米、灯油、食用油などの生活必需品に対する補助金が撤廃され、月間物価上昇率7%のインフレが起きる)
・経済停滞による開発の遅れ・後退(開発主義国家における政権正当性の消失)
・国内外からの民主化要求(「7・27事件」など)
・スハルト新秩序体制への飽き
・学生運動の復活(デモや集会が開かれ、「檻のトラ」が街を徘徊しそうになる)
・第7次開発内閣(1998年3月15日発表)閣僚人事の失敗(スハルトの政商や娘が主要閣僚として入閣)
・KKN(Kolusi、Korupsi、Nepotism;腐敗、癒着、縁故主義)追求の動き
2、スハルト声明に見る思想
オランダ支配下の20世紀初頭、1人の民族主義者が現れた。スタットモ・スリヨクスモR.M.Soetatmo Soeriokoesoemo,1888〜1924である。彼はマタラム王朝の血を引くパク・アラム家のプリヤイpriyai(ジャワ人貴族)で、植民地時代の民族主義に大きな影響を与えた私立教育団体、タマン・シスワTaman Siswa設立メンバーの1人である。土屋の研究によれば、スタットモは「『知恵』をともなわない民主主義は、われわれのすべてにカタストロフィをもたらす」[5]と述べている。そしてその知恵とは、ジャワにおける指導者が有しているべきものとされる。つまり、1人の知恵を有する指導者によって教導されてこそ民主主義が成立するものとされる。ここにおいて、西洋近代民主主義の、「平等」の観念はない。それは、スタットモがマタラム王朝の末裔プリヤイらしく、理想を古代ジャワのモジョパイト王国においているからである。つまり、スタットモはいわゆる西洋的な民主主義ではなく、かなり王制に近い民主主義を提起しているのである。そして、このスタットモはタマン・シスワを通じて各方面に大きな影響を与えている。すなわち、その1つの政治思想の潮流として、スカルノの指導民主主義論、スハルトのパンチャシラ民主主義論[6]があるのである。そして、このスタットモ理論が的を射ていることを示すかのように、西洋近代民主主義の形態をとった1949年連邦共和国憲法及び1950年共和国暫定憲法下における国政が停滞した。
しかし、1998年において、このスタットモの理論は依然受け入れられるだろうか。答えは否である。現代の「人民」にとって、スタットモの述べるような権威主義・独裁体制はスハルト体制とだぶって見えるのではないだろうか。
1998年5月14日、スハルトはG15サミットに出席するために滞在中のエジプト・カイロで次のように述べた。
かりに(国民が)私を信頼しないというのであれば、どうぞ(好きなようにしてもらえばよい)。わたしとしては、かりに信頼されないなら、実力でも権力でも維持するなどということはしない。それは、もうずいぶんまえからいっているとおりである。かりに人民から信頼されないというのであれば、わたしは賢者になる。(賢者になって)神に仕え、子供たちが道を誤らないように導いていきたい。人々から求められれば、助言をする。国政については、トゥット・ウリ・ハンダヤニということで(よちよち歩きの小さい子供をおじいさんが後からついていって転びそうになるとそっと手を出して助けてやる。子供がいってはいけない方向にいきそうになれば、いかないようにしてやる、そういうやり方で)やっていきたい。[7]
同じような内容を、5月19日にも述べた。とくに、ここで出てきた「トゥット・ウリ・ハンダヤニtut wuri handayani」は、後からついて行くことは子供に自由な道を選択させるという点において民主主義であるが、必要に応じてこれを指導するのは、「おじいさん」の知恵に拠るところが大きい。土屋はこれについて、「師と弟子とのこのような関係の仕方において『民主主義と指導性』の理念は定式化しうるのである」と述べている。[8]
また、1998年5月19日の声明では、何点か特筆すべき発言をしている。その中から数点抜き出す。
「わたしは聖職者になる決意をしている。つまり、私は自分自身を神に近づけ、そして子供たちを良い国民になるようできるだけうまく養育する」
「今、退任要求に合憲的に応えるとすれば、私は副大統領に譲らなければならない。これが問題解決の道になるのか、新たな問題がまた起こらないのか、という疑問がわく。やがて副大統領も退任しなければならない。」
「私が大統領であることに固執することは、まったくない」
「(新総選挙法を早期に制定し、総選挙を実施した後に行われる大統領選挙において)私は、再び大統領候補となる用意がないことをここに言明する」[9]
さて今思うに、スハルトの5月19日声明は、観測気球ではなかったのかと思う。つまり、辞任を示唆することによって国軍やゴルカルなどの動きを牽制する意味合いがあったのではないか。しかし、その後はハビビを中心とするゴルカルもスハルトから離反し、ハルモコ総裁がスハルトに退陣を促したり、ハビビは次期政権への意欲を示したりということが起きる。そして5月21日、スハルトは辞任する。辞任声明の直後、国軍はスハルト及びそのファミリーの安全を保障する旨発表した。
国軍やゴルカルなどの政治勢力、そして「人民」は、スハルトが「賢者」たることを拒否したのである。それは、「われわれインドネシア国民はもはや子供ではない、トゥット・ウリ・ハンダヤニは不要である」と言っているかのようである。それは、国民の教育水準の向上も要因の一つではないだろうか(表2、及び表3参照)。
Urban |
7〜12 |
1961年 |
1971年 |
1980年 |
1990年 |
2000年 |
74.5 |
73 |
91.7 |
95.1 |
97.3 |
||
13〜15 |
1961年 |
1971年 |
1980年 |
1990年 |
2000年 |
|
67.9 |
63.2 |
78.1 |
79.4 |
88.3 |
||
16〜18 |
1961年 |
1971年 |
1980年 |
1990年 |
2000年 |
|
38.6 |
41.4 |
53.2 |
59.3 |
66.7 |
Rural |
7〜12 |
1961年 |
1971年 |
1980年 |
1990年 |
2000年 |
51.5 |
57.4 |
81.5 |
90 |
94.4 |
||
13〜15 |
1961年 |
1971年 |
1980年 |
1990年 |
2000年 |
|
33.4 |
40 |
54.9 |
58.2 |
73.8 |
||
16〜18 |
1961年 |
1971年 |
1980年 |
1990年 |
2000年 |
|
10.9 |
16.1 |
23 |
30.1 |
38.4 |
表2 都市部と農村部における10年毎の就学率
出所;BPS統計各年版より筆者作成
1961年 |
1970年 |
1980年 |
1990年 |
2000年 |
42.9 |
60.9 |
71.2 |
84.1 |
88.6 |
表3 インドネシア全体の識字率
出所;同上
表に見られるように、就学率、識字率ともに上昇している。ということは、開発の恩恵とともに教育の普及が達成されたことと思われる。しかし、教育の普及とともに国民の「世代交代」も進んでいる。つまり、1965年の「9・30事件」などに代表される、スハルトによる「力の政治」を知っている世代の減少、あるいはスハルトしか知らない世代の増加が、強権・強圧的でKKNのスハルト以外の政治を求めたとしても不自然ではないだろう。
こうしてみると、スハルト自身がチェンダナ(スハルトの私邸がある通りの名称。転じて、スハルトの私邸自体、或いはスハルトファミリーを表す)と官邸だけに閉じこもって政治を行ったことによって、「人民」の声が聞こえなくなったのではないだろうか。加えて、あまりにも強権政治を敷きすぎたために、周りの者たちもスハルトの耳には聞こえの良いものだけを入れ、「臭いものにはフタ」をしたのではないだろうか。これがひいては、32年間にも及ぶ新秩序体制の中心、スハルトが最後はあのような辞任を余儀なくされた要因の1つであると思われる。
<参考文献>
・佐藤百合編『インドネシア資料データ集 スハルト政権崩壊からメガワティ政権誕生まで』アジア経済研究所 2001年
・白石隆著『崩壊インドネシアはどこへ行く』NTT出版 1999年
・土屋健治著『インドネシア民族主義研究』創文社 1982年
・Biro Pusat Statistik “Indikator Kesejahteraan Rakyat ; Welfare Indicators” Jakarta 1989, 1990, 1992, 1994, 1995, 1998, 2000
[1] 左派将校によるクーデター未遂事件。当時、陸軍戦略予備軍Komando Cadangan Strategis Angkatan Darat司令官だったスハルトはこれを鎮圧し、政治の中心人物となる。軍と共産党双方に力点を置いていたスカルノは、この事件で政治的影響力を次第に低下させ、翌1966年にスハルトは実験を掌握した。また、スハルトはこの事件処理として、共産党を首謀者とみなし、全国の共産主義者及び共産党と関わりのあるとされた者を粛清・虐殺した。
[2] ゴルカルとは、軍(ABRI)、公務員団体(Korpri)、協同組合連合(Kosgoro)、官製労働者の組織連合(SOKSI)などの連合体である。いわば、官製の翼賛政治組織である。
[3] 白石隆著『崩壊 インドネシアはどこへ行く』NTT出版 1999年 p.15
[4] そもそもはスカルノが提唱したものである。スカルノは1945年6月1日の演説で「相互扶助Gotong Royong」と言う言葉を用いて、相互扶助国家の建設を目指した。もともとはこうした助け合いの精神から生まれた言葉であるが、スハルトは拡大解釈し、助け合いは親父がおいしいものを1人占めすることなく、子供たちにも分け与えるべきであることに通じているとした。1970、1980年代、家族主義という言葉の意味は、親父=上司が財団を設立し、子供=部下のウラ給与などの面倒も見ることとされてきたが、1990年代にはファミリービジネスと同義語として使われるようになった。それは、スハルトの子供たちが成長するにつれ、スハルトは彼らのビジネス参加を後押しし、かつ優遇したからである。代表的な例として、国民車構想がある。
[5] 土屋健治著『インドネシア民族主義研究』創文社 1982年 p.77
[6] 新秩序体制の正統性イデオロギー。「調和と均衡」、すなわち国家共同体の安定を最高の価値とし、個人に対し自己抑制を義務づけ、個人は自己抑制によって道徳的に高次のレベルに達することができるとする。国家の利害が個人の利害よりも常に優先されるべきことを強調し、個人の自由はむしろ抑制されるものであると説く。ただし、パンチャシラ民主主義論の原理主義的立場に立てば、スハルトの「家族国家論」及びそれに付随するファミリービジネスは、国家の利害と言えるのか、むしろスハルト個人の利害ではないのか。つまり、スハルトは自らパンチャシラ民主主義論を説いて国民に「調和と均衡」を目的に忍耐を強いながらも、自らはインドネシアにおける利権を一手に負い、パンチャシラ民主主義論に反する行動をとっているのではないだろうか。
[7] 白石、前掲書 p.82-p.83
[8] 土屋、前掲書 p.492
[9] 以上、佐藤百合編『インドネシア資料データ集 スハルト政権崩壊からメガワティ政権誕生まで』アジア経済研究所 2001年 p.4-p.6