足尾銅山の公害の歴史

2003116

MK030101 阿部智英

 

足尾銅山の鉱毒被害

足尾銅山周辺の公害については多くの調査・研究が行われているが、近世における公害の起源は定かではない。この点については、盛況時代が約20年と短かったことと、渡良瀬川が比較的大きな川だったため鉱毒水が希釈されて被害が出にくかったためと考えられる。しかし、1740年の「村指出諸色書上帳」のなかに「渡良瀬川ニテ鮭漁仕リ候得共足尾銅山出来候以降鮭取リ方少々ニ相成」とあり、18世紀半ば頃には足尾銅山創業の影響で鮭漁が減少したことが報告されている。

 その後、足尾銅山の鉱毒被害について初めて科学的な調査・報告が行われたのは『渡良瀬川煙害被害原因調査ニ関スル農科大学ノ報告』(栃木県内務部、1892)である。被害農民の依頼を受けて20数か所の土壌を分析した結果、土壌に多少の銅分を含んでいること、さらに渡良瀬川においては足尾銅山を最高として下流に行くにつれて銅濃度が減少していることが報告されている。こうして、この報告書によって初めて、有毒物の流入経路が足尾銅山→渡良瀬川→被害農地であることが解明された。

 1898年、田中正造が『足尾銅山鉱毒事変 請願書并始末略書草稿』において、公害の原因が鉱業主と政府にあることを指摘し、実地研究と公害研究の必要性を強調した。さらに1903年には政府鉱毒調査委員会が『足尾銅山及小坂鉱山に関する調査報告書』を政府に提出した。このなかで「煙突付近の如きは草木悉く枯死し地表全く裸出し地肉漸く剥脱し其の荒廃極る」、「足尾銅山鉱業の発達に伴ひ製錬用の燃料其の他用材の需要著しく増加したる為付近森林の大部分を伐採し跡地の造林上に以ては何等設置せしることなく30年予防命令迄は全く之を自然に放置したるものの如し之れ亦森林荒廃の一因なり」と報告し、足尾銅山周辺の環境悪化の原因について銅山による煙害と森林の乱伐を指摘している。

 

鉱毒防止対策

 拡大する鉱毒問題に対して、政府は1896年に第1回鉱毒予防命令を出し、翌年には第2・第3回鉱毒予防命令を出した。この命令を受けて鉱山側は104万円(現在で約100億円)をかけて集塵処理などの予防工事を行い、渡良瀬川周辺農地の収穫量がほぼ回復したが、防止技術が未発達であったためその効果は一時的なものにとどまった。

 1910年には渡良瀬川改修工事が開始され、1927年に排水貯留のための遊水地が完成した。しかし、この遊水地は完成後わずか7年で堆積量が限界に達し、調節機能を失ってしまった。その後幾度も予防工事や改修工事が行われたが、当時の予防技術が不完全であったことや予防措置が対処療法的であったため、渡良瀬川流域で洪水が起こると鉱毒被害が再発生するという構図は変わることはなかった。さらに1935年には足尾銅山に新規の選鉱工場が設立され、それに伴う排水量の増加と水質悪化のために下流の鉱毒被害は一層激化することとなった。

 

2次世界大戦後の足尾銅山

 1950年、朝鮮戦争が勃発すると、足尾銅山は再び活況を呈することとなった。このブームを背景に、足尾銅山では探鉱に力を注ぐとともに足尾製錬所の拡充を図った。こうして足尾銅山は再び発展し始めたが、同時に低迷期に潜在していた鉱毒問題が顕在化した。

 1958年、足尾銅山の堆積場の一つ源五郎沢堆積場が決壊し、約2000㎥の鉱泥が渡良瀬川に流出し、群馬県毛里田村を最激甚地として6000haの水田に被害を与えた。同年、古河鉱業に対する責任追及、鉱毒の完全防止、損害賠償の獲得を目標として毛里田村鉱毒根絶期成同盟会が結成された。その後、1966年には足尾銅山での90年にわたる鉱毒問題が国会で追及され、1968年には政府が足尾銅山の排水規準を銅1.5ppm、渡良瀬川の水質基準を0.06ppmと設定した。しかし基準設定後も大量の銅や砒素が検出され、1971年には毛里田地区産出米のカドミウム汚染が明らかとなり、翌年に出荷凍結処分となった。この状況を受けて、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会は過去20年間の農作物被害についての損害賠償を求める申請を中央公害審査委員会に提出した。

 一方、古河鉱業は1972年に突如足尾銅山の閉山計画を発表した。閉山理由は埋蔵鉱量の枯渇と採掘条件の悪化であったが、公害紛争調停が行われている最中であり、問題の足尾銅山を閉山することで世論の批判をかわす狙いがあったと考えられる。また、閉山といっても採掘部門の操業を停止しただけで、選鉱部門と製錬部門を操業し続けたため排水は引き続き行われていた。

 1974年、公害紛争調停が決着した。調停内容は@補償金155000万円の支払いA鉱毒防止のための足尾銅山全施設の改善、B土地改善のための古河鉱業・農民側双方が関係機関に協力することなどであった。その後足尾銅山の操業は徐々に縮小し、1989年には古河鉱業は足尾から実質的に撤退したが、古河鉱業の撤退後は荒廃した森林や河川の後始末を国や地方自治体が行っているのが現状である。また、古河鉱業は1996年にオーストラリアの銅製錬所を買収した。つまり、採算の悪い足尾銅山を見限って、採算性の良い海外製錬所に活路を見出しているのである。

 

 

参考文献

 安藤精一著『近世公害史の研究』(吉川弘文館、1992

畑明郎著『金属産業の技術と公害』(アグネ技術センター、1997

 

 

 

 

足尾銅山鉱毒事件略年表

 

1868年 足尾銅山が日光県の管轄になる

1872年 民間に払い下げ、1876年に古河市兵衛が経営開始

1879年 渡良瀬川で魚類数万尾が原因不明の浮上、その後もたびたび発生

1882〜85年 渡良瀬川の鮎・鱒が激減、製錬所付近の山の樹木が枯死、松木村で煙害発生

1886年 日本初の鉱山私設電話施設

1890年 銅山の乱伐や亜硫酸ガスによる禿山化 →渡良瀬川で大洪水が発生

栃木県足利郡吾妻村会が県知事に『製銅所採掘停止の上申書』を提出

1892年 栃木県が『渡良瀬川煙害被害原因調査ニ関スル農科大学ノ報告』を刊行

1897年 被害農民上京請願 →農商務省視察、政府は第1次鉱毒調査会設置

1901年 田中正造が代議士辞任し天皇直訴、松木村と銅山が土地売買契約し廃村に

1905年 古河鉱業株式会社設立

1907年 足尾銅山大暴動発生、その後も労働争議が頻発

1934年 沈殿池が溢れ、渡良瀬川沿岸に鉱毒被害広がる

1947年 林野庁が足尾治山事業に着手(1977年まで約235億円の経費)

1950年 建設省が渡良瀬川上流の砂防ダム建設を開始し、55年に完成

1958年 源五郎沢堆積場が決壊し、6000haで農作物被害

1966年 国会で足尾銅山による90年以上の鉱毒問題が追求される

1968年 政府は足尾鉱山排水規準を銅1.5ppm、渡良瀬川水質基準を0.06ppmに設定

1971年 群馬県毛里田地区の産出米からカドミウムを検出

1973年 足尾銅山閉山

1980年 足尾銅山観光がオープン

1989年 古河鉱業は社名を古河機械金属と改称し、製錬部門を子会社化

1996年 足尾砂防ダムに「銅(あかがね)親水公園」がオープン