(中村祐司作成:10/22の講義メモと同)
―アフガニスタンに関する基礎知識(エンカルタ百科事典99より)―
人口は推計で2088万人(1996年)。560万人が難民としてパキスタンやイランに。
国土の4分の3が山地。
気温:夜明けは氷点下、日中は約38°C。
民族:パシュトゥーン族(38%)、イラン系のタジク族(25%)、ウズベク族(6%)、ハザーラ族(19%)。
31の県。首都カーブル(人口142万4400人、1988年推計)。貿易都市カンダハールや古代のモスク、
宮殿、建造物で有名なヘラート。古都マザーリ・シャリーフは巡礼地。
99%以上がイスラム教徒。うちスンナ派が多数。残りはほとんどがハザーラ族のシーア派。少数な
がらユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、パールシー教徒。公用語は、イラン語派のパシュト語とペルシア語
(ダリ語。日常語)。国境付近ではウズベク語、トルクメン語、キルギス語。
15歳以上の成人の識字率は25%。カーブル大学(1932年創立)は内戦のために1992年に閉鎖。
国民1人当たりの収入が年間約220ドル。
鉄道の全長は25km以下。道路の全長は約2万1000kmだが、ほとんどが舗装されていない。
1973年:国王追放され、君主制にかわり共和制誕生。
77年2月:憲法公布(1党支配で大統領への権力集中、イスラム教を国教とし、立法権は上院と下院か
らなる国会に)。
78年4月:クーデタで憲法廃止され、革命評議会政権。
87年:人民民主党(共産党)政権が新憲法公布。大統領を間接選挙で選出(任期を7年)。国民評議会
(上院と下院)。234議席中の50議席は野党確保。
89年:ソ連軍撤退
92年4月:暫定政権設立。
同年12月:大統領を選出する間接選挙実施。イスラム協会のラバニ。
93年:連合政権成立も同年末にはヘクチャル首相が辞任表明。旧ソ連占領軍とたたかった各派の間で
内戦をふくむ権力闘争継続。
96年9月:イスラム神学生を中心とする新興勢力タリバーンが暫定政権設立。
前6世紀:アケメネス朝ペルシアに占領。
前330年頃:アフガニスタンを支配していたペルシア帝国ごとアレクサンドロス大王に征服される。
前256〜前130年頃:北部にバクトリア王国(ギリシア系)建国。
3〜4世紀:ササン朝ペルシアの西からの攻勢。
7世紀半ば:アラブ人が侵入。
10世紀後半から11世紀:ガズナ朝(トルコ系イスラム)が支配。後にゴール朝(イラン系。1148〜1215)
のもとでイスラム文化が繁栄(=初期のイスラム王朝)。
1220年頃:モンゴルのチンギス・ハーンがゴール朝を滅ぼす。(アフガニスタンのほぼ全域がモンゴルの支配下に)。
14世紀末:モンゴルのティムールがアフガニスタン北部を制圧。
1504年頃:ティムールの後継者のバーブルがインドにムガル帝国を建国し、1504年頃カーブルを征服。
16世紀後半:イランからはサファビー朝が、北からはウズベク族が侵入。
1722年:ギルザイ系のアフガン族が1722年にイランの首都イスファハーンを占領。しかし、ナーディル・シャーひきいる
イランの反撃にあい、38年にはアフガン全土はイランの支配下に。47年、ナーディルが暗殺、アフガン族はアフマド・シ
ャー・ドゥッラーニーをみずからの指導者にえらび、アフガンの国ドゥッラーニー朝を建国。しかし、1818年に崩壊。
1726年:ドースト・ムハンマドがアフガニスタン東部を支配。
1838〜42年:第1次アフガン戦争。イギリスがカーブルからロシアを撤退させるようムハンマドに最後通牒。拒否され
たため、1838年にイギリス・インド軍がアフガニスタンに侵攻)。39年8月にカーブル陥落し、アフガニスタンをイギリス
が占領。シャー・シュージャが王位に。しかし1841年11月に、ムハンマドの息子アクバル・カーンがシャー・シュージャ
とイギリスに対して反乱を成功。42年12月にはイギリスは完全に撤退し、ムハンマドは王位に返り咲き。イギリス占領
下のインドとアフガニスタンの間に緊張がつづいたが、55年にムハンマドはインド政府と和平協定。
1878〜79年:第2次アフガン戦争。1863年にムハンマドが死ぬと、後継者争いで国内は10年ほど混乱に。彼の3男の
シェール・アリが後継者となったが、78年に親ロシア政策をとったためにイギリスの反感を買い、戦争が勃発。79年10月
にカーブル陥落。同年3月にシェール・アリの跡をついでいたヤクブ・カーンは失脚。80年にムハンマドの孫のアブドゥル
・ラフマーンが王位継承。
ラフマーンはハイバル峠やそのほかのアフガン領土をイギリスに割譲。ラフマーンの跡をついだ息子のハビブラ・カーン
の在位中、1907年にイギリスとロシアはアフガニスタン領土の相互保全を約束する協定締結。
1919年:ハビブラ・カーンの息子のアマーヌッラーがイギリスに宣戦布告しインドに侵攻。イギリスは、同年8月にアフガ
ニスタンと和平協定をむすび、外交権を回復するなどアフガニスタンを独立国家として承認。
1929年:保守派が反乱。アマーヌッラーの叔父のナーディル・シャーが、反乱軍をおさえ、同年王位に。
1933年:ナーディル・シャー暗殺。前王の息子のザーヒル・シャーは、まだ19歳だったため、その後30年間にわたり、「親族
の操り人形に」。ドイツ、イタリア、日本と親密な通商関係をむすぶ。
1939年:第2次世界大戦でザーヒル・シャーは中立宣言。41年にイギリスとソ連の要望で、200人以上におよぶドイツとイタリ
アの政府関係者を国外へ追放。42年にアメリカと国交を樹立し、46年11月にアフガニスタンは国連に加盟。
1947年:インドとパキスタンが独立。アフガン政府はパキスタンとの国境で、パシュトゥーン族が多くすむ北西辺境州がパキス
タンに編入されることに不満表明。1947年にパキスタンが国連に加盟するとき、アフガニスタンは反対票。49年以降、アフガ
ン政府に支援されて、独立国を建国しようとするパシュトゥーン族とパキスタンの間でしばしば衝突。
1954年:アメリカ・パキスタン軍事援助協定。アフガン政府は、ソ連寄りの姿勢を。
1963年:ザーヒル国王による独裁政権成立。翌年新憲法公布。
1973年7月:ダーウドがザーヒル国王を追放して政権を掌握。アフガニスタンを共和国と宣言。77年初めに新憲法公布。
1978年:クーデタでダーウド殺害。その後、ハフィーズッラー・アミーンが革命評議会を組織して政権をにぎり、憲法を破
棄して社会主義化を開始した。しかし、山岳部に多いイスラム教徒の反乱。
79年12月:アミーンはクーデタによって殺害。アフガニスタンはソ連軍に占領。以後、ゲリラ戦により300万人以上の難民
が隣国のパキスタン。
1980年代半ば:政府軍と約11万8000人のソ連軍がおもな都市と道路を掌握。国外から支援をうけるゲリラ軍を駆逐する
ことできず。
86年:ムハンマド・ナジブラが大統領に。88年5月から89年2月にかけてソ連軍は撤退。内戦は継続。
92年4月:ナジブラ政権は崩壊。ゲリラ軍がカーブルを占拠。ブルハヌッディン・ラバニを大統領とする暫定政権が成立。
しかし、92年12月、ラバニを2年間の任期で大統領にする投票後、ゲリラ組織の統一がみだれて内戦状態に。
1993年6月:シーア派の戦闘的原理主義グループであるヘズブ・イ・イスラーミーのリーダー、グルブッディン・ヘクマティア
ルが首相に。
94年1月:カーブルでラバニ大統領派とヘクマティアル首相派の衝突。アフガニスタン各地で2500人以上殺害。
94年半ば:イスラムの神学生を中心とする原理主義派の新興勢力タリバーンが蜂起。3カ月間で9県を制圧。彼らはカ
ーブルにも侵攻したが失敗し、撤退。
1994年11月:テヘランで20をこえる各派代表の和平会議開催も不成功。
95年9月:タリバーンがふたたび勢いをもりかえし、他の反大統領派とともに首都を包囲するなど内戦状態に。96
年9月、タリバーンが首都カーブルを制圧し、暫定政権の樹立を宣言。10月、反タリバーンのラバニ派とドスタム将
軍派らは軍事同盟締結、反攻を開始し、内戦は泥沼化。