行政学演習Aレポート
横田基地問題について 国際学部国際文化学科3年 980534U 辻 裕介
【はじめに】
私は、課題を取り上げる上で最初に考えたのは地元である東京都の問題を取り上げようということでした。地元の問題を取り上げることで今の東京の状態を少しでも知ることができ、また、実際に、東京都にはゴミ問題や、介護福祉施設や託児所、幼稚園の問題、様々な公害、有害物質による環境問題などが存在しています。そういった問題のなかで、行政と深い関わりを持ち、かつ、早急に解決しなければならない問題として私が考えるのは横田基地問題についてでした。横田基地の必要性をあげる国と様々な公害に悩む周辺住民、両者の間で問題にされ続けている横田基地は、私にとって大変興味深いものであったので取り上げました。
【横田基地とは】
横田基地は、新宿副都心から西へ約30キロメートルのところにあるアメリカ軍の軍事基地です。横田基地は、東京都福生、昭島、羽村、立川、武蔵村山市の5つの市と、瑞穂町の6市町にまたがっています。山梨・埼玉ではけっしてありません。ここには米軍の戦争をすすめるための司令部である[第5空軍司令部]、[在日米軍司令部]が置かれ、アラスカから中東という広大な米軍の軍事行動をつかさどっています。また、地球的規模の輸送を行う[航空機動軍(AMC)]の輸送・中継ターミナルとなり世界的・地域的な緊急事態に対応する兵站拠点としていちづけられています。ここに離発着する主な輸送機は、米空軍マニュアルに「核兵器を輸送する」と明記された核輸送部隊も含まれています。化学戦、核戦争をふくむあらゆる戦争の司令基地です。こんな外国軍の基地が首都にあるのは世界に例がありません。
【なぜこんな基地ができたのか】
この広大な横田基地は、第二次世界大戦中の1940年に旧日本軍の「多摩飛行場」としてつくられ、ゼロ戦等当時の陸軍の飛行機をつくっていた中島飛行機のテスト訓練場として使われていました。戦後米軍に接収され武蔵村山町(現武蔵村山市)の字名「横田」という地名から命名されました。米軍の接収当時の面積は、446万3千平方メートル。滑走路も1280メートルで現在の面積の3分の1程度のものでした。横田基地は、接収された翌年から国が農民の土地を強制的に買い上げ、ブルドーザーで麦畑を踏みにじって拡張されていきました。北側では、東京都の上水道用地を接収(1946年)しました。
この用地(面積33775平方メートル)はその後1972年美濃部都知事が都有地の明け渡しを求め訴訟を起こしましたが、79年鈴木都知事になると訴訟は取り下げられました。今でも巨大な導水管が滑走路真下を通っています。滑走路は極東に高性能のジェット機を配備するために拡張され、五日市街道を分断(1956年)し、国道16号線、JR八高線は、ねじまげられ(1962年)たのです。滑走路工事は、多摩川の砂利を採掘して行われました。川底の砂利まで採りすぎて、台風で橋げたが流されたこともありました。
朝鮮戦争・ベトナム戦争を通じて爆撃機や戦闘機の直接の出撃拠点となりました。
朝鮮戦争では、朝鮮半島に落とされた米軍の爆弾の8割が、この横田基地と、埼玉県のジョンソン基地(現在の自衛隊入間基地)から飛び立ったB29爆撃機によるものでした。ベトナム戦争時は、F105サンダーチーフ戦闘機などの出撃拠点となりました。ベトナム戦争後期には、C5Aギャラクシー大型輸送機が飛来し、相模原補給廠で修理された戦車がベトナムに運ばれました。また、傷病兵の輸送、基地に帰還する飛行機は銃弾で燃えているものもあり墜落事故が絶えなかったと記録されています。このように横田基地はアメリカのすすめる戦争への出撃拠点として使われてきたのです。
現在、横田基地は、米軍の戦争行動の司令部と中継・輸送の二つの任務を持っています。
【横田基地の面積】
東京ドームの157倍 東京田無市が全部入る大きさ
面積は約713万6千平方メートル。東京都でいえば田無市(689万平方メートル)、狛江市(615万平方メートル)の二つの市と比べても広いのです。5万6千人を収容する「東京ドーム」は4万5千7百平方メートル。横田基地は、東京ドームの約157倍にあたります。ほぼ南北に伸びる滑走路の長さは3350メートル。南北のオーバーランを含めると3955メートル。基地全体は、南北約4キロ、東西約3.5キロにわたり、基地沿いに自動車で一周すると、14キロ以上(約40)になります。
基地内には、軍人約4千人、軍属・家族5千人に加え、通訳や掃除などの仕事を行う日本人従業員2千人あわせて1万1千人がいます。主な常駐機は、輸送機が示め、C130輸送機が12、C9患者輸送機が3機、C21連絡機が4機、ヘリコプター4機です。大型輸送機のC5、C17、C141BなどやKC135、KC10などはアメリカ本土から飛来するものです。駐留期間は、一定せず米軍の作戦、状況によって長期駐留もあります。
【さまざまな基地被害】
1、墜落事故におびえて
横田基地があることにより、周辺住民は多大な被害を受けてきました。飛行機の爆音による被害は代表的なものですが、周辺住民でなければ想像もできないようなさまざまな被害が起きています。旧五日市街道に面した基地南東側にある立川市中里地域は、朝鮮戦争真っ最中の1951年にB29が墜落して爆弾が炸裂し、民家111戸が1瞬のうちに灰になるなど大被害をもたらしてました。52年にも埼玉県金子村に墜落し17人死亡、民家13戸が全焼。1960年代になると飛行機がほとんどジェット化され、爆音被害はますます深刻となっていきました。64年7月には、F105Dサンダーチーフ大型戦蘭爆撃機、KC135空中給油機が住民の強い反対を押し切って配備され、翌65年2月に米軍がベトナム戦争で北爆を開始し、爆音被害は最悪となりました。また、F105Dは墜落事故も多く、東京近辺だけでも、青梅市、相模原市などに墜落しています。
2、町がなくなった
毎年横田平和まつりを行っている昭島市堀向地域内にある「堀向児童遊園」の周りは、1968年まで800戸の住宅や50の商店、5つの病院がある。昭島一の繁華街と呼ばれた街があったところです。今では、公園、広葉樹におおわれた林となって当時を再現する面影は銀杏並木と2軒のお店だけです。ベトナム戦争が激しさを増し、その爆音の大きさから「雷の親玉」とよばれるF105D戦闘機が板付基地、現在の福岡空港から64年に移駐してきました。12月には、この堀向地区で、F105Dの超低空飛行によって発生した衝撃波で14戸の窓ガラスが割れ、銭湯に入浴中の婦人が血だるまになるなど、多数の人が負傷しました。この当時は基地内に排水施設もなかったため、雨が降ると基地から水が流れだし、この地域では64年に28世帯が床上浸水に見舞われました。こうした中で、昭島市議会は、66年10月、「大型輸送機及びF105Dの即時撤去を要求し、騒音激増に抗議する」決議を全会1致で採択、F105DがF4フアントムに交代した後の68年6月には、「米空軍の横田基地より即時撤退を要求する決議」を採択するなど、住民の怒りと要求は高まっていきました。しかし、政府はこれらの要求を拒みつづけ、ついに2つの自治会は、集団移転をせざるをえませんでした。第1次の集団移転は68年10月に行われ、70年代のはじめまで徐々に進められました。移転の補償費103万円で、多くの人は、昭島市の「東の丘団地」に移転しました。また、地方の身寄りを頼って涙をのんで立ち退いていきました。この集団移転によって、堀向地区は、「街ぐるみ」破壊されゴーストタウン化したのです。林の中には防衛施設庁の「国有地につき立入禁止」の看板が点々と立てられ、フェンスに囲まれているのです。
周辺に残った人たちは、この集団移転によって街の中心部を失い、買物をするにも遠くまで出かけなければならず、夜中に子供が熱を出してもつれていく医者もなく、「無医科」「陸の孤島」のような状況に置かれています。
3、ジェット燃料輸送と衝突事故
国道16号線から五日市街道に入りボーリング場の手前に踏み切りがあります。この踏み切りをよくみると基地内施設に付き立入禁止の看板が目につきます。これが飛行機の燃料タンクが通る引込線です。
横田基地で使う飛行機の燃料は、神奈川県鶴見区浜安善からJR南武線、立川駅で青梅線、拝島駅構内から引込線で運ばれています。現在は、週2〜3回程度で14〜16車両編成です。ベトナム戦争時は、1日120車両という多さで、1965年立川駅構内での車両衝突事故から引火し、付近の14の商店が焼失するという大事故も起きています。基地内南側サウスゲートを越し松林の切れ目に台形の形をした丘がみえる。これが地下燃料貯蔵庫です。燃料貯蔵庫は、鋼鉄製で作られています。
88年には「非常時期間中ここに配置される航空機に適切十分な燃料貯蔵が必要」という米軍の要求で1万6千キロリットルの貯蔵庫を日本政府による「思いやり予算」10億円で新設されました。さらに90年代に増強されて貯油量25万バーレルの大規模地下貯蔵庫となっています。横田基地に飛来する航空機のおよそ3年間分と推定されています。これに加え、「老朽化したタンクの代替」を理由に、795キロリットル (5千バーレル)燃料貯蔵施設を「思いやり予算」2億4千万円を浪費し16号線沿いに、建設しています。
ジェット燃料は貯蔵庫から地下内にはりめぐらされた燃料パイプによって給油されます。
93年には、基地東側の地下内の燃料パイプが亀裂しドラム缶340本分の燃料が地下内に漏れる事故が発生しました。事故当時基地内では、「即応体制演習」の真っ最中で、周辺自治体に通告されたのは事故後2週間たってからでした。現在でも、基地内で汚染された土壌を除去する作業が行われていますが、いまだ事故の原因や影響など明らかにされません。この基地の真下には周辺住民が利用している地下水の水脈もあり、汚染されれば「燃える井戸」どころか飲み水さえも奪われます。1967年には、昭島市の民家の井戸や水道が、基地内の地下から流出したジェット燃料に汚染されていることが明らかになり、「燃える井戸」として大きな怒りを呼びました。当時の住民の中には、油の臭いのする水道の蛇口に「火気厳禁」の札をぶら下げた人もいるということです。東京都内でこの5年間米軍犯罪は、凶悪犯罪を含め、28件、31人が警察に検挙されています。1995年10月には、府中市内で横田基地所属の米兵が交通事故を起し、相手の日本人学生を死亡させています。この米兵も任意保険に加入してなくて遺族への補償もありません。
基地の周りでは、けんか、駐車違反、タクシー料金の踏み倒し、など起きています。
1983年には基地内から流れ弾が飛んできて窓ガラスを貫通しショーウィンドーをめちゃめちゃに壊す事件や、1988年には米兵の子供による自転車窃盗事件も起きています。また事件にはなりませんが、「ベランダでバーベキューセットでゴミを焼く」、「戦闘服で市役所に出入りする」など基地郊外にすむ米兵(およそ2千人)とのトラブルも苦情として自治体に寄せられています。
【横田基地 広報部 解答】
航空機事故に関しては日米共同で対応策を毎年協議しています。
【防衛施設庁 解答】
在日米軍の事故については、防衛施設庁としても重く受け止めています。事故の再発防止や原因究明について、機会あるごとに在日米軍に申し入れており、外務省日米地位協定室とも連携しながら、住民の不安解消に努めてまいりたいと、思っています。
4、電波障害
飛行によりテレビの画面が揺れて見えないことがあります。これを電波障害と呼んでいます。電波障害がひどいと受信アンテナも特別のものをたてなければならない場合もあります。また、NHK受信料は、飛行場の外辺から1キロメートル、長辺延長5キロの範囲内で電波障害が起きている地域には半額の減免措置がとられています。
しかし、訓練飛行は縦横無尽におこなわれ、電波障害地域は拡大しており、周辺自治体、東京都は、電波障害指定区域の拡大や衛星放送受信料までをぶくむ全額の国負担を求めています。
また、高層米軍住宅や、放送施設、高架水槽などのある地域でも電波障害が起きています。これは共同アンテナを設立するなど対策がとられています。
5、つづく爆音被害
C130輸送機をはじめC9患者輸送機など日常的にタッチアンドゴーという訓練を行っています。 タッチアンドゴーとは、あらゆる飛行機が離着陸の訓練としておこなうもので、その飛行機の任務によって少しずつ違ったやり方があります。
横田のC130の場合には、最前線の短い滑走路に、地上からの砲火を避けるために一定の高度をとりながら近づき、滑走路のすぐ近くまできてから、迅速に急降下、着陸するための訓練です。そして、着陸して滑走路上でいったん停止した後、再び動き出し、今度は発進の訓練として急加速、急上昇を行います。この後五分間で基地の周囲を回り、これを繰り返します。周回コースの下では、5分に1回、80ホン前後(電車のガード下なみ)の爆音にさらされることになります。また、2機、3機がこれを交替でやることもあり、この場合には、2分30秒、1分40秒に1回となります。
現在の横田基地の1日当りの飛行回数は、基地南側の騒音計の測定によると年間平均で約50回前後です。しかし、この数値には、基地の北側に向って発進したり北側から着陸してくる場合は含まれていません。また、米軍は週休二日制のため、土曜・日曜にはタッチアンドゴー訓練をやらないこと、ウィークデーでもやらない日もあることを考えると、むしろ日によって飛行回数に大きなバラツキがあり、多い日の爆音被害の深刻さを見えにくいものにしています。
【横田基地 広報部 解答】
基地によって騒音のレベルは異なります。横田基地の周辺での騒音は確かにあり、C−5、C−147、C−17などの大型輸送機も飛んできますので騒音も相当なものだと思います。ただし、そうした大型機の一日当たりの便数はその時のミッションにもよりますが数機と少ないです。戦闘機も時折飛んで来ますが、その回数は非常に少ないです。横田所属の航空機については苦情はほとんどありませんが、先週珍しく夕方からの訓練で苦情、問い合わせが福生市などにありました。
6、深刻な夜間騒音
民間空港の場合には、夜10時から朝7時までは発着しない、というように、夜間・早朝の飛行が制限されています。93年11月の日米合同委員会合意で「夜10時から午前6時までの地上活動を含む一切の飛行活動を禁止する。但し緊急やむを得ない場合は除く」という取り決めがされましたが、米軍は緊急やむを得ない場合を除くということを逆手にとって深夜、早朝の離着陸を合法化しています。
夜間発着するのはC141BやC5Aなどの大型の輸送機やC9患者輸送機など爆音直下の騒音レベルが90、120ホンに達する航空機が多いのです。深夜は周りの騒音も消え、飛行機の爆音だけが異常に大きく感じられます。人間の耳は120ホン以上の騒音にさらされると聴力に障害を起こすとされていますから、まさに限界を越えた生活をしているのです。
回数自体は日中よりは大幅に減りますが、夜中に数回の爆音で目がさめてしまったら、その晩は、ほとんど眠れない、あるいは疲れが十分にとれないのです。さらに戦争や軍事演習の際には夜間の発着が増え、眠れぬ夜が続くことになります。
また、深夜・早朝にもエンジンの調整が頻繁に行なわれています。これは車でいう暖気運転でエンジンを数十分もいっぱいにふかし、断続的に2〜3時間続けて行なわれます。早朝5時前から行われ、約10キロも離れた秋川や国立・小平まで聞こえる轟音で、周辺では家の中にいても、耳がおかしくなるようなすさまじさです。このほかにも、早朝発進する輸送機やチャーター便のエンジンのコンプレッサーの音が朝4時頃から始まり、騒音計には40〜60ホンしか記録されなくとも、周辺が静かなために気になって起こされてしまうといった被害もあります。
この爆音による健康への影響は、特に病人やお年寄り、子どもなど、弱いものに強い被害を与えます。また、目に見えるような健康被害がなくても、日常会話が妨害される、電話ができない、テレビやラジオの視聴が中断されるなど、日常生活への影響は深刻です。
横田基地公害訴訟
1996年4月10日、横田基地周辺住民と飛行直下住民3138名がアメリカと日本政府を相手に「夜間飛行差し止め」と損害賠償を求めて八王子地裁に提訴しました。はじめてアメリカ政府を相手とした訴訟はマスコミを含め、内外から注目されています。横田基地公害訴訟は、1976年から94年3月まで約18年間、横田基地周辺住民700余名が原告となり、「爆音のない静かな夜を返せ」と夜間飛行差止めと損害賠償を求めて国を被告としてたたかわれました。提訴当初の原告数は、148名でした。1981年1・2次訴訟判決では夜間差し止めは却下されましたが損害賠償を国に求める住民勝訴の判決が言い渡されました。1982年には、家族約600人が第3次訴訟を提訴しました。1987年の1・2次訴訟東京高裁の判決では、「国防や米軍基地だからといって他の行政より公共性が優越しているとはいえない」と安保を優先し、米軍基地を特別扱いしてきた国の主張が否定されました。1993年最高裁は、「国は横田基地における米軍機の飛行の違法状態を放置することは許されない。違法状態を解消する義務がある」「横田基地の米軍の飛行状態は住民に被害を与える違法なものである」として国の被害放置の姿勢を厳しく問いました。そして「国は被害住民に損害賠償を払う義務がある」とし被害住民は等しく損害賠償を受ける権利があることを明らかにしました。
1993年11月東京高裁は、国に騒音被害の軽減努力を要求する「和解案」を原告と被告双方に提示しました。かし、国側の抵抗により「和解」は決裂しました。こうしたなかで、国は日米合同委員会を30年ぶりに開催し、「午後10時から翌日午前6時まで地上活動を含む一切の飛行活動を禁止する」など盛り込んだ合意事項を確認しました。1994年第3次訴訟の東京高裁判決は、八王子地裁、1・2次訴訟東京高裁の判決を踏襲したものでした。この判決を双方が受け入れ、18年間の長きにわたる裁判闘争に幕がおろされたのです。
18年間の訴訟のなかで原告住民は、爆音によって実際に耳が聞こえにくくなってしまったことや高血圧などの健康障害、睡眠不足や子育てなど日常生活に大きな支障が出ていることや常に墜落の危険におびえて暮らさなければならないことなど訴えました。しかし、国は最後まで安保条約をたてにし、「耐えられるはずだ。がまんしなさい」と被害を認めようとしなかったのです。
判決後
この訴訟は、夜間飛行の差し止め請求を却下し、補償の範囲・金額を狭めるなどの点ではたいへん不十分なものでしたが、被害の実態についての原告の主張を認め、国側の「安保の公益性を考えれば被害は我慢すべき範囲」との主張を退け、日本裁判史上初めて、基地被害に対する国の責任を認めたのです。これは同時に、米軍の基地活動に違法性があることがはっきり認められたという意味で、画期的なものでした。また、横田基地の基地祭での曲技飛行も違法であるとの判断を示し、自衛隊もこれを断念せざるを得なくなったのです。
【横田基地 広報部 解答】
横田基地での場合、午後10時から朝6時までは飛行は行わないことになっていますが、病院関係のC−9航空機があり、夜間でも緊急治療を要する場合に人を運ぶ目的で飛ぶことがあります。また米政府高官が来た時も例外的にヘリや小型輸送機C−21などを飛ばすことがあると思います。しかし、原則的に午後10時から朝6時までは静かな時間帯として守っています。また週末の運用は少なくしています。この規則の例外は基地司令官の責任下にあり、運用上必要な場合に限られています。エンジン稼働の数及び時間の長さは限られており、アフターバーナーに関する規則もあります。横田から離陸する航空機は静止の位置でエンジンの回転速度を上げて、スロットルを全開にすることは許されておらず、また着陸の際には逆噴射は最小限に押さえて行なわれています。これらの手段は離発着をより静かにするものです。タッチアンドゴーを含む航空機の飛行パターンにもまた制限があります。横田基地ではその使命を果たしつつも地域への騒音の影響を制限するようあらゆる努力をしています。
7、防音工事
飛行直下には、約百万人を越える人々が住んでいます。
政府は、人の健康の保護に資する上で維持することが望ましい航空機の爆音にかかわる基準として基準値を70W(WECPNL)と定めています。そしてこの基準を越えるところを「線引」とよばれる騒音地域として指定を行い、その区域のみを対象に防音工事を行っています。この防音工事には、指定された期日に区域内に居住していることが条件となり、新しく越してきた住宅は対象とならないなどさまざまな制約があります。また、トイレ、浴室、玄関は防音工事の対象から外されています。防音工事では、外音を防ぐために空調機と冷暖房機が取り付けられますが、この電気料はすべて個人負担です。また、防音サッシなどの修理費も個人負担で防衛庁が指定した業者しか修理工事は依頼できません。
飛行直下には20を越える学校や大学、保育園があります。これらでは、飛行機が飛ぶと先生の声が聞こえなくなり、授業や保育がストップすることすらあります。落ち看いて試験勉強もできません。葬儀をしていてもお坊さんの読経が聞こえないこともありました。
基地北側の瑞穂町では、飛行機の騒音がひどくて火災を報せる防災無線すら聞こえないため、「戸別受信機」が取り付けられています。
【横田基地 広報部 解答】
防音対策として日本政府が防音工事、エアコンの取り付け他などの分野で騒音被害のひどい場所での対応を行なっています。
8、4か月に1回のNLP
横田基地では、米海軍空母「インディペンデンス」艦載機によるNLP(夜間離発着訓練)が4カ月に1回の割合で行われています。1994年には、ついに戦闘機によるNLPも行われました。防衛施設庁は、「硫黄島でのNLPによって横田などでのNLPは減少する」と豪語してきましたが結果は、減少するどころか逆に訓練日数がふえるなど強化の一途をたどっています。 訓練は、自治体に無通告のまま行われることもあります。また、戦闘機が飛来する時は「曲技飛行」まがいの旋回を繰り返しています。
戦闘機による訓練には「恐くて体が震える」など792件の苦情が周辺自治体に寄せられました。また、1995年のNLPには「うるさい。なんとかしてもらいたい。みんなで手を取り合ってでもなんとかしたい」「アメリカの大統領を連れて来い。冗談じゃない」「なにをやっているんですか。いつまで続くのか」「9時すぎたのにいつまでやるのか」「あまりにひどいじやないですか。役所はなにをやっているのか」「妊娠中、この音は異常だ。このまま放置して置くのか」という抗議の声が福生市に寄せられています。
【横田基地 広報部 解答】
横田基地でのNLPは実際には年1回ないし2回位です。横田基地の場合、NLPの時には戦闘機は通常来ません。E−2C,S3Bなどがメインです。これらはすべて米海軍空母の艦載機です。日本政府により硫黄島に訓練施設が作られ、そこでNLPが行なわれるようになって以来、本土での回数はかなり減っていると思います。ただ、そこでの悪天候により今でも本土での訓練がしばしば実行されています。およそ1000km離れている硫黄島は米軍の訓練には遠すぎるようです。
横田基地周辺住民の声(2000年の出来事)
周辺住民Hさんより
『横田基地、爆音直下に住んでいる者として、ぜひ、みなさんに知っていただきたいことがあります。
5月23日の日曜日は、娘の小学校の運動会でした。横田基地はこの日も、朝から大型輸送機が離着陸し、日本の市民生活など関係ないとばかりに爆音をまきちらしていました。特に酷かったのは午後1時過ぎ、騎馬戦の真っ最中に、F18が続けて4機離陸しました。子どもたちは、ちょうど騎馬戦の真っ最中で、子どもも先生も親もすべてが固まったように時間が止まり、競技が中断しました。戦闘機の爆音は、子どもの歓声も、実況放送も、音楽も、すべてかき消していきました。そしてF18が去った後、C9が離陸。なんと、そのまま、タッチアンドゴーを始めたのです。45度以上も急上昇しながら、運動場の真上を飛行機の腹を見せながら、急旋回していき、少しずつコースをずらしながら5回繰り返しました。爆音もさることながら、落ちてきはしないかとの不安で胸がドクドクと鳴ったのは私だけではないはず。強い憤りを感じました。子どもたちにとってみれば、練習をかさねたハレの日、それが、またしても横田の飛行機に台無しにされたという思いが強かったでしょう。フォーリー駐日米大使にお願い。「横田基地周住民は良き隣人」と言うなら、子どもたちのこの悲しみと怒りに心寄せ、今すぐ横田基地を撤去してください。石原知事にお願い。この爆音と墜落の恐怖にどれだけ私達住民が苦しめられているかに耳を傾け、「横田基地返還」の選挙公約を守ってください。』
Gさんの横田基地観察より
5月27日
夜、横田基地へ行ってみました。9時をすぎているというのに2機のC130が旋回、滑走路や誘導路で離着陸をくりかえしていました。静かになったのは門限の10時近くなってからでした。
5月30日
今日は滑走路直下にある拝島第二小学校の運動会。横田基地に昭島から着陸する時、直接プレハブの天井や窓から入る音と、校舎にはね返った音とですごくうるさくなる。運動会は横田の爆音にまきこまれることなく無事に終わったようです。
5月31日
町田のいとこの家(寺です)でお通夜。はじまる前に厚木のP3Cが、終わってからは横田のC130が飛びました。多摩弾薬庫(いまは横田のゴルフ場)と相模原の基地のちょうど中間で、戦車道路(いまは尾根緑道)と尾根続きの山寺です。最近では近くに砂袋が落ちてきました。
6月3日
飛行機が全然すくない。夜9時すぎにC130が2機帰ってくる。
6月6日
F16が2機いる。夜になってから飛びそうだ(夜10時近くに離陸した様子)。
6月10日
ヘリが基地上空を旋回している。夜9時すぎにエバーグリーンのB747が離陸。
夜10時10分前にヘリのローターがとま る。
【防衛施設庁】
防衛施設庁の役割
1.
自衛隊や在日米軍が使用するための土地・建物などの買入れや借上げ、また、それらの管理
2、防衛施設周辺の皆さんのくらしの安定と福祉の向上を図るため、皆さんの住む市町村などが行う公共用施設等の整備事業や飛
行場周辺の住宅の防音工事などに対する助成
(注)助成:市町村などが行う工事などに対して補助金などの交付を行うこと
3、自衛隊や在日米軍が使用するための建物・工作物などの建設工事在日米軍従業員の労務管理
4、在日米軍の駐留を円滑にするため、在日米軍施設の整備や在日米軍従業員の
給与などの負担などの仕事
1、防衛施設周辺における航空機騒音対策
自衛隊等の使用する飛行場周辺の航空機騒音については、自衛隊機等の本来の機能・目的からみて、エンジン音の軽減・低下を図ることは困難であるので、音源対策、運航対策としては、消音装置の使用、飛行方法の規制等についての配慮が中心となっている。この場合の駐留米軍における音源対策、運航対策については、日米合同委員会の場を通じて協力を要請している。自衛隊等の使用する飛行場に係る周辺対策としては、「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」(昭和49年制定)等に基づき,学校、病院、住宅等の防音工事の助成、建物等の移転補償、土地の買入れ、緑地帯の整備等、テレビ受信料に対する助成等の各種施策を実施している。なお、平成9年度末現在、28飛行場周辺について、同法に基づく第1種区域等の指定を行い、住宅防音工事の助成等を実施している。
2、防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律
防衛施設周辺地域の生活環境等の整備を図るため「防衛施設周辺の整備等に関する法律」を廃止し昭和49年6月27日に公布、同日付けで施行された法律。第1章総則をはじめ4章19カ条で構成され、自衛隊等の車両のひん繁な使用等による障害を防止するための工事の助成、航空機の離着陸等のひん繁な実施による障害を防止、軽減するための住宅の改善工事の助成、移転の補償、損失の補償などについて定めている。第1条ではこの法律の目的を次の様に規定している。「この法律は、自衛隊等の行為又は防衛施設の設置若しくは運用により生ずる障害の防止等のため防衛施設周辺地域の生活環境等の整備について必要な措置を講ずるとともに、自衛隊の特定の行為により生ずる損失を補償することにより、関係住民の生活の安全及び福祉の向上に寄与することを目的とする。」
【まとめ】
私は、この問題を調べていくうちに、国と周辺住民の間には大きなくい違いがあることを知りました。様々な資料を読み上げていくうちに、周辺住民の悲痛な想いが手に取るように感じられ、もし、私もその近辺に住んでいれば、常に米軍や米兵、様々な公害に苦しめられ、耐えられない日々を送っているのだろうと、思います。確かに、今日の日本において、武器の製造や所持を禁止しているため、自分達を守ってくれる存在が必要なのかもしれません。事実、アメリカ軍が日本に駐留していることは、他国を牽制する上で大きな要因ともなっているのも否定できません。しかし、国側もそういったものの必要性を説くならば、その周辺に住む住民にもっと、目を向けるべきではないでしょうか。周辺住民は、国が思っている以上に、基地に対して迷惑、かつ脅威を抱いています。国は、周辺の環境に配慮し、基地周辺の住民や住宅、様々な公害に対して最善の努力をしていると、言っており、法律においても様々な保護をしています。しかし、それらはあくまでも形のみで実際に実践されているかというと、必ずしも、そうとは限りません。住民がもっとも恐れている飛行機墜落事故は、横田基地が出来てから数回起こっています。また、砂袋などの小さな物に至っては、報道されないだけで度々落下してきています。そういったことが起こる度に国や基地側の解答は、きまって大変、遺憾だの今後、気をつけるだのきまった解答がよせられるばかりなのが現状です。いつも、謝罪するばかりでそれに対する今後の対策などは公式発表されず、一度の謝罪ですべてが解決したかのような対応を取っています。また、飛行機の騒音に関しては、基地側と周辺住民の間で受け止め方が全然違います。基地側は、離着陸に際して騒音は最小限にくい止めており、さほど、影響は出ていないと、言っていますが、周辺住民の間では、授業の妨害や難聴、睡眠不足や建物がゆれるなどと、もっとも身近な問題に掲げています。これに対する防音対策として、防衛施設庁も法律に従い、様々な防音工事を行なったと言っていますが、それも極一部に関してのみで、大部分の住民は、今もなお騒音に苦しめられています。両者の間でこんなにも現状に対する受け止め方が違うのも、国側が基地周辺の環境に関して認識不足だからではないでしょうか。この問題だけに限らず、日本の役所は、自国の問題に対してあまりにも消極的なのも原因の一つだと、考えられます。また、この問題は広く見れば、日米間の問題でありアメリカに対して、いつも下手に出ているため、こういった問題に関わりたくなく、うやむやにしているのではないでしょうか。国は自衛の意味でアメリカ軍を駐留させておきたいのであれば、周辺住民の呼びかけにもっと親身に対応していくべきなのです。国がこの問題に対して、もっと目を向けて取り組めば解決できない問題ではないと、思います。問題というのは、現地を調査、訪問して初めて理解できるものです。イスに座って、送られてくる紙を読み上げて解決できる程度の問題であれば、それは、問題とは言えません。今、真に望まれるのは、国の積極性であり、それが生まれて初めて問題解決の第一歩となるのです。この問題の解決は、国がその重い腰をいつ上げるかにかかっているのです。
【参考文献】
日本の軍事基地 基地対策全国連絡会議 新日本出版社
米軍がなぜ日本に 池田 五律 創史社東京
横田基地 広報部
防衛施設庁 広報部
日本の戦後上・下 NHK編