行政学演習Aレポート

ボスニア・ヘルツェゴビナ選挙について

国際学部国際社会学科 980159u 大井咲子

目次

  1. 調査の動機
  2. 旧ユーゴスラヴィア地域における紛争と選挙実施までの流れ
  3. ボスニア・ヘルツェゴビナ選挙(969月、979月実施)
  4. この選挙の特徴とそこから見えるもの

  5. 東ティモール選挙
  6. この選挙の特徴とそこから見えるもの

  7. 二つの選挙の比較から見えるユーゴの特徴
  8. まとめ

 

  1. 調査の動機
  2.  つい先日、衆議院選挙が実施された。21世紀の国政を決める重要な選挙というキャッチフレーズの下今回の選挙は大きな社会的関心を産んだと言われている。確かに、言われてみると選挙というのは国民が直接その手で自分達の未来を決める代表者を選出する、民主主義の根幹を成す重要な政治的行動である。では、この重要な行動が異常な国内状況の下で行われるとしたらどうだろう。その例として旧ユーゴスラヴィア地域を取り上げてみたい。ここはご存知の通り91年以来内戦状態が続く、まさに異常な国内状況を持つ地域と言っていいだろう。その中でもボスニア・ヘルツェゴビナは民族の住み分けが困難なほど複雑な民族構成を成す国家である。旧ユーゴ内戦において最も犠牲者が多かった地域である。この地域での和平合意に基づき実施された選挙を見ることによって、多くの紛争地域における自主選挙の難しさがわかると思う。また、旧ユーゴの選挙の特徴を多角的に捉えるため、東ティモールでの選挙との比較も行っていきたい。よって、背景である旧ユーゴ内戦の略史と選挙実施までの流れ、そして実施された選挙の特徴を述べ、次に東ティモールとの比較を行い、最後にこの選挙の意義と問題点、そして将来の展望についてふれていきたい。

     多くの発展途上国や紛争地帯では選挙の結果が直接自分たちの生活や命に関わることがある。軍事政権や腐敗独裁政権が国民を抑圧し、選挙を実施しなかったり、反対勢力を弾圧したり、極端な干渉や買票で自分たちの政権だけが力を持つようにしたりしている国もある。

     選挙を実施するには、行政と司法制度の確立、軍や警察の中立性、言論の自由などが前提となる。そこで軍政が続いた国では、民主選挙が民主化の指標、そして国家再生の条件と考えられ、その成功が国際社会からの資金援助の再開を意味する国もある。そうした国では選挙はまさにその国の生死の境と言えるのだ。

     このように重要な紛争地や破綻国家での選挙であるが、選挙法や選挙の行政手続き、その運営のノウハウ、そして何よりも選挙教育から投票箱までその膨大な費用の点からも、当該国だけでは実行できず、国際社会からの援助が必要となる。そこで現在は国家や国家連合(EUなど)、国際機関やNGOまでその支援を行っている。

  3. 旧ユーゴスラヴィア地域における紛争と選挙実施までの流れ

          916月    スロヴェニア、クロアチア両共和国が独立を宣言

                 →スロヴェニア・クロアチアとユーゴ連邦の武力衝突開始

                   クロアチア内戦

                 12   「クライナ・セルビア人共和国」創設

                 →現クロアチア内セルビア人の独立運動

                 10     ボスニア・ヘルツェゴビナが主権宣言

                 →ボスニア内戦開始

          921    「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国」創設

                 →現ボスニア・ヘルツェゴビナ内セルビア人の独立運動

                   3月    ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国独立を宣言

                   4       ECによる同共和国の承認

                 それに伴いボスニア内戦激化

           943月    ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の成立

                 →クロアチア人とムスリム人国家の誕生

           9514月   停戦

                    5         停戦失効

                   これに対する形でNATO軍による空爆実行

                10     ボスニア・ヘルツェゴビナの全面停戦合意

                    11     デイトン和平合意成立 

         969月    ボスニア・ヘルツェゴビナ国政選挙実施

          979      ボスニア・ヘルツェゴビナ地方選挙実施

3、ボスニア・ヘルツェゴビナ選挙(969月、979月実施)

 参考資料1、ボスニアの民族分布

民族の共存について

 共存の実績 ボスニアでは紛争以前、 人々は混住し、 都市部にその傾向は強かった。 こうした状況の中、 ひとびとは共存していた(1)。 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の民族構成比率はクロアチア人17%、 セルビア人31%、 ムスリム人44%である(1991年)(2)。 これらの民族はボスニアを3つに分け、 分かれてではなく、 バラバラに分布し、混住していた。 よく見かける民族分布図を見ると3民族が分かれているように見えるが、 実際はそうではない。 表はボスニアの都市の4民族(ユーゴ人を含む)の構成比率である。 人々がボスニアに散在する様々な街に共に暮らしていることが分かる。


ボスニアの民族分布


1991年 

「ボルバ」紙より

 
都市  合計(人) クロアチア人(%) ムスリム人 セルビア人 ユーゴスラビア人
総計 4354911 17.3 43.7 31.3 5.5
サラエボ 525980 6.6 49.3 29.9 10.7
バニャルカ 195139 14.9 14.6 54.8 12.0
モスタル 126067 33.8 34.8 19.0 10.0
スレブレニツァ 37211 0.1 72.9 25.2 1.0
ツズラ 131861 15.6 47.6 15.5 16.6



  参考資料2、ボスニアの和平システム(選挙の部分に注目)

                      *            * 

 ボスニア停戦時に3民族が渋々ながら合意したデイトン協定には停戦後の選挙に関する規定が盛り込まれている。つまり、停戦後9697年に実施された選挙はこのデイトン協定に基づいて計画、実施されたものであるのだ。よってデイトン協定にも若干触れておかねばならない。

 

デイトン協定の要旨

デイトン和平協定は主文書(総合的枠組み)と付属文書(アネックス)13通、合計14文書から成る。これによってボスニアの国家統一、領土の民族別の分割などボスニアの将来像が規定されることになった。

正式名称     ボスニア・ヘルツェゴビナにおける平和のための合意

付属文書(アネックス)三   選挙

[自由選挙] 自由で公平な選挙を、国際監視のもと、六ヶ月ないし九ヶ月以内に実施する。選挙は、ボスニア・ヘルツェゴビナ幹部会および議      会、「連邦」議会、セルビア人共和国国民議会および幹部会、および可能であれば地方議会において実施する。( 幹部会と      議会選挙は969月に、地方選挙は979月に実施された)

[難民の投票権] 紛争による難民および避難民は、投票する権利があり(不在者投票も含む)、もし希望すればもとの居住地域で投票すること        ができる。

[国際監視]  選挙準備および実施は、OSCE(全欧州安全保障協力機構)が監視する。(参考資料2参照)

[有権者]   1991年の国勢調査に登録されている18歳以上のボスニア・ヘルツェゴビナ市民は投票する権利がある。 

                      *             *

OSCE(全欧州安全保障協力機構)による1997年9月13-14日実施の地方選挙の結果についての報告文(自ら訳)

 デイトン合意の付属文書3-2(e)に基づき9月13-14日の市町村議会選挙においてその過程と結果を査定するためにOSCEはのODIHRのための事務所をおいた。この選挙監視任務の参加者には27のOSCE参加国や議会運営の専門家、OSCE議会、欧州委員会や欧州議会の正式代表、加えそれとほぼ同数のNGOの代表支援されたオブザーバーが含まれている。合計363の(NGOを含む)オブザーバーがボスニア中に配置された。加えて、30のオブザーバーが国外投票の監視のためユーゴ連邦内に配置された。同じようにクロアチアには44のオブザーバーがおかれた。予備的な調査は行われたものの、投票総数の総計や検証手続きが完了し、選挙が完全に実施されるまではいかなる結果も予測できなかった。

 ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるOSCE任務の果たした業績は、選挙の実現という目標の下、選挙運営のすべての段階において地元の人(政党や候補者を含むものと推測する)と協力して仕事にあたったことであり、これは賞賛に値する。これらの地方選挙はかなりの成果だ。技術的な欠陥があったにも関わらず、この選挙は紛争解決過程の一つとなった。有権者登録期間と投票日の間、100%監視を実行できた事実は昨年の選挙(96年実施の国政選挙のこと)の意義をもっと深める結果となった。

 これらの選挙は後々、デイトン合意には無理があるという認識の中で再評価される必要がある。特にこの地域での難民移動の自由とメディアの自由については考察される余地がある。この選挙はこの社会において依然幅を利かせる多くの起訴済みの犯罪者の影におびえながら行われた。その上デイトン合意の主文書と付属文書は、誘導する政治勢力によって選挙の過程を通じてその意味を大きく変えられた。政党など各政治勢力は、これらの選挙はボスニア・ヘルツェゴビナの和平への道における重要なステップであるということ、そして他の手段を通じ戦争を継続するチャンスではないということを改めて考慮に入れるべきである。

 OSCEのボスニア・ヘルツェゴビナでの任務はデイトン合意の履行をするため、これらの和平プロセスにおいて全ての政党が約束を守るという責任を証明した。OSCEの任務は全ての政党を平等に扱うこと、そして彼らの要求に可能な限り対処することに果敢に取り組んだと認識されている。全ての政党が約束を守るという試みの中、暫定選挙管理副委員会は二人の候補者の復職を行った。それは深刻な選挙規制と規定に対する違反行為として選挙委員会によって候補者リストから外された。この情報はこの規則と規定がこの選挙のプロセスを左右するということに必ずしも当てはまらない。

投票前の期間

 有権者登録期間

 一般に有権者登録のプロセスは完全に、そして効果的に管理される。新しい有権者登録名簿の作成に参加したという巨大な努力に対し、OSCEの任務は特に賞賛されるべきだ。昨年(96年)の地方選挙は登録を悪用し、新しい市町村で投票できるようにするための工作の結果だ。改訂された規則や規定は登録名簿のための大きな市町村の出現の可能性を極端に少なくした。しかしながら、戦略上の目的のために有権者を脅す活動が組織されていたということが選挙前に明らかにされ、ペナルティーを受けるということもあった。

 登録の規則を厳密に適応するかどうかについては論争となった。ブレコのケースは最も有名だろう。3200人の有権者が現住の市町村では受け入れられなかったため、暫定選挙監視副委員会により徹底的に細部まで検討が行われた。この出来事は不幸だったがしかしながら、選挙管理委員会は選挙の直前や有権者登録の最終段階といった相当遅くの段階になるまで約2600人もの追加の有権者のデータ入力を見逃していたことに気が付かなかった。これはこの選挙の信憑性に関わる重大なことだった。

 公示期間

 有権者登録期間とは異なり、公示期間は全てを管理することはできなかった。オブザーバーらは、委任にもとづく主張や正確な文書調べに基づかない新しい市町村への再登録などいくつかの問題について報告した。これらの問題は後に中心的に扱われる。しかしながら、地方の選挙活動と中央の管理の間での認識の違いが緊張と間違った予測をたてる原因となった。

 選挙運動

 選挙運動は概して穏やかな方法で管理され、そして選挙運動のイベントは政治上重要な問題ぬきで開かれた。

 投票日

 投票日には90%以上の投票所にオブザーバーは配置された。国の多くの地域で投票は概して静かな、そして平和裏な方法で行われた。これらの選挙の本質を考慮すると暴力がなかったことは強調されなければならない。選挙監視は行われたものの、投票期間中のそれぞれ管理上の困難さが報告されている。いくつかの投票所では開場が遅れたりいくつかのケースでは投票用紙が時間までに用意されないということもあった。多くの技術的な問題は、不在者投票所で明らかになった。投票所は小さすぎたため一つの投票所には多すぎる投票者がいて、そしてそれらの投票者は票を投じるために不快な状況の中長時間待たなくてはいけなかったという例も多く報告されている。多くのオブザーバーらは記名された封筒に入れて提出という形式をとる不在者投票の秘密性の保持に対し疑問を感じていたようだ。選挙の監視団がとてもよく訓練されていること、またプロセスの100%に彼らが関与することは選挙の信頼性を大きく高めるという事実は認識されるべきである。しかし、資金の不足による監視をするものが十分に訓練を受けられなかったことも報告されている。票の集計作業、特に不在者投票においてのそれは困難で全ての段階に対し影響を及ぼすと考えられていた。代議士選出制度は96年のような混乱を再びおこさないようにその構造について再評価されるべきである。

 国外投票

 クロアチアや新ユーゴでは難民の人々の投票用の用具の不足があったと報告されている。

 結論

 ボスニア・ヘルツェゴビナでの事前の長い準備(組織の構築)は、世界の基準とOSCEの確約に従って定例の行為となった。これらの地方選挙の実施というのは和平プロセスにおいて非常に重要な功績だ。選挙は最終的な投票総数、政党同士の尊重、結果がいかに実際的に政治へと反映するかなどの諸要因が全てそろって成功と言うことができる。国際社会はボスニア・ヘルツェゴビナにおいて平和の維持や民主性の発展という分野において貢献しつづけなければならないと考えられる。

                      *             *

 

 この選挙の特徴は、純粋な政治的行動ではなく形を変えた戦争の継続だったということである。特に地方選挙においては形を変えた領土争いそのものであったからである。武力による領土争いに無反省な各勢力指導者達は、どんな手段を使ってでも自分達が主導権を握る市町村を維持し、増やしたいと思っている。デイトン和平協定は、軍事境界線で分割された領土の49%をセルビア人勢力の「セルビア人共和国」が、残りの51%を「ボスニア連邦」(ムスリム人とクロアチア人両勢力で構成)が支配すると定めている。これらの二つの国家の上に、統一国家の中央機関(幹部会や内閣、議会など)が置かれている。ところが、各市町村の行政権の帰属は軍事境界線によらず、「自由で公正な選挙」で決定することになっている。つまり地方選挙の結果次第では、4951の分割で決着したはずの分割線の引き直しにつながりかねないというわけだ。

 このため969月に予定された投票を前に、各級選挙の中でも地方選が突出して過熱した。新規の登録によって有権者が選挙区を自由に選べることになったことで、選挙戦そのものより選挙前の有権者登録(966月〜7月)が異様に過熱した。特に戦略的に重要な地域ではそれが激しく、人口が急増するという現象が起こった。流入された人々の多くは他地域出身の難民だった。このような「選挙戦争」の過熱が原因となって、地方選挙は1年間延期となった。96年に予定通り選挙が実施されていたら、越境投票者と地元民の大規模な衝突が起こっていたと多くの専門家は指摘している(実際97年の地方選挙の際、小規模ではあるが衝突が各地でおこった)。和平協定は原則として、通行の自由や難民帰還の権利を認めている。この協定をたてにとった難民帰還作戦が事態をより複雑にした。

 

 以上、選挙の実態を見てきたが、これはあくまで選挙監視を行ったOSCE自身が綴ったものであるため、いったいどこまで真実が書かれているかは疑わしい。また、この報告は全文英文であるため、自身の訳に頼らねばならず意味を十分捉えることができなかった。こういった条件の下だがここから言えることを述べたい。

 この選挙の問題点

 1、難民や移民の投票も認められているため、人口の移動が選挙の前後に集中して起こり混乱を招いた。特に地方選挙においては現在の居   住区と以前の居住区のどちらに行くのかが不明確であったため、混乱がさらに助長されたと考えられる。

 2、OSCEなど国外の機関に頼らざるを得なかったこと。紛争状況においては仕方がないことではあるが、行政の機関は全く麻痺していた。

 3、本当に住民が脅しや恐怖なしに、自分の意思表示ができたかどうか疑わしい。

 4、欧米、特にヨーロッパの選挙方法をそのまま用いたこと。西ヨーロッパの国々と東ヨーロッパの国々では文化的背景も、社会的背景も   全く異なる。よってその方法をそのまま用いればいつかは破綻するかもしれない。これは仲裁や調停活動全般に言えることではある   が、今先進国と呼ばれている国々は自分の国の方法を過信している。

 以後求められる改善のポイント

 1、ヨーロッパに導入された選挙制度をそのまま用いる形式を再考し、独自の選挙形式を考える必要性がある。特に住民の意見をもっと反   映できる制度を作り出す必要がある。

 2、特に選挙区と有権者の区分をもっと明確化するべきである。

 3、政党の党首や政治家たちが、民主的な手段で自らの意思を達成すると発想の転換を行うこと。本来では一回目のこの選挙で、絶対的な   民主制を確立するべきだったのだが、圧倒的な民族主義のイデオロギーのもとではそれがうまく機能しなかった。「はじめに平和あり   き」か「はじめに選挙ありき」なのか、それは紛争地域における永遠のテーマである。

 4、起訴済みの戦争犯罪者や民族主義者の拘留をもっと確実に行うこと。しかしこの問題は国連の国際裁判所(オランダ・ハーグ)の管轄   事項であること、またその戦犯が依然として政治権力を掌握していることなどからこの問題の解決は困難であると考えられる。しかし   PKO・PKFの派遣など治安に関する策はもっと講じれるのではないだろうか。

                       *             *

 以上旧ユーゴ地域における選挙の不備な点などについて述べてきたが、この状況を打開すべくOSCEを中心とした取り組みが行われている。その例としてボスニア・ヘルツェゴビナの選挙制度改革について触れたい。

 2000年6月2日付け OSCEのHPより(自ら訳)

 「ボスニア・ヘルツェゴビナの選挙制度に新条項が盛り込まれる」

 それらの条項はマルチメンバー選挙区、政治政党の資金調達の変革、投票の優位性、そして名簿公開制度などが含まれている。「これらの選挙制度改革の採択は、より民主的なボスニア・ヘルツェゴビナの実現へ向けての非常に重要なステップだ。国内外の専門家はこれらの改革は政府の責任や透明度、そして能力の向上を必ず助長すると指摘する。これらの変化はこの地域における変化を推し進めるだろう。」とOSCEのボスニア・ヘルツェゴビナでの任務責任者で、暫定的選挙監視団の代表でもあるロバート・バリー大使は話した。

 新しく採択された条項は全てヨーロッパや国際的基準にならったものだ。マルチメンバー選挙区は下院や連邦下院などの選挙の際に地理的に地域を限定するためにつくられた。このシステムは市民が直接的に自分たちの選挙区を代表する候補者に関わりをもつことを可能にし、そして有権者と候補者間に生じる責務を増やした。またこれは、選出された代表者が有権者の民意により敏感になる誘因にもなる。この制度はセルビア・クロアチア・アルバニア・モンテネグロ・ルーマニア・など多くの東南ヨーロッパの国々に導入されている。

 選挙資金の調達の改革の規定もある。選挙戦で各々が選挙運動に費やす上限も定められている。全ての政治政党は、連立や独立といった形態に関わらず選挙前と後に詳細な財政上の記録の提出を求められる。これは全政党を同じ条件にする働きをするだろう。

 優位権は大統領選などにおいて、候補者の格付けが可能になる。有権者は投票用紙に1,2といった番号を加えるだけで、自分の意志の分だけ候補者を格付けできる。この制度が決戦投票に組み込まれれば50%の候補者は勝てる。この制度は一回ポッキリで選挙を切り上げることで運営資金を節約でき、そしてヨーロッパ標準の選挙制度をボスニア・ヘルツェゴビナにもたらすことができる。

 名簿公開制度は2000年4月の地方選挙ですでに用いられており、政党や連立のリスト上の見えない候補者の中から有権者が選べるようにと確立された。この制度は政策判断権限をより有権者に委ね、そして選ばれた役人が自分をおしてくれた人々により大きな責任を負うことを確保する。

 このようにこの地域でも手をこまねいているわけでもなく、民主的な選挙実現のための取り組みが決まりこれからの選挙に若干の期待はできる。

 

4、東ティモール選挙

 ボスニアとの比較として988月実施の東ティモールの選挙を例に挙げてみたい。この選挙はボスニアと異なり、東ティモール地域が独立するか併合維持かを問う、いわば国民投票といった意味合いが強い。

 東ティモールでの抗争の歴史は1975年にまでさかのぼる。東ティモールは、旧宗主国ポルトガルの政変に伴い、1975年にいったん独立を宣言した。しかし、翌年インドネシアが軍事侵攻し併合を宣言するに至る。981月、ハビビ大統領が独立を容認したのを受け、4月に住民投票の実施が決まった。東ティモールではインドネシア国軍による弾圧などにより四半世紀で計20万人が死亡したと言われ、住民の間にはインドネシア国軍への嫌悪感が強い。このため、選挙の前は独立支持派が優位にあると伝えられた。しかし、併合派民兵による妨害行為も予想されており、投票の平和的実施が可能かどうかが焦点とも言われた。選挙監視は国連東ティモール派遣団(UNAMET)が担当した。

 最終的な投票率は9816%(UNAMET集計による)にのぼり、そのうち独立支持が785%を占めた(同集計による)。最大の焦点であった選挙の平和的実施の成否であるが、830日の投票日に国連の現地スタッフ3人が負傷したが、大規模な衝突や妨害事件は起きず、全200ヵ所のうち7ヵ所が一時封鎖されただけで平和裏に終わったかに見えた。しかし、9月に入った頃から主に東ティモールの中心都市ディリなどにおいて、独立に反対する併合派の武装民兵による発砲や放火事件が続発し、東ティモールは無政府状態に陥る。死者は100人を超え、避難民は25000人に達した。

 これに対し、国連安全保障理事会はインドネシアに使節団を派遣し、同政府と協議することを決定した。当初国連はインドネシアとポルトガルの合意に基づき治安維持はインドネシア政府の責任と言う立場をとってきた。よって平和維持軍の投入はインドネシアが住民投票結果を承認し、国連の暫定統治が決まってから行う予定だったものを変更し、平和維持軍(PKF)をはやい時点で投入した。この国際部隊はオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、イギリス、タイ、マレーシア、フィリピンの7カ国、4000人から成るものであり、初めは当然のことながらインドネシア政府はその受け入れを拒否した。しかし、国連安保理やアメリカがインドネシア国軍を批判する動きに出てきたためこのままでは国軍の権威が失墜し、国軍への統制が利かなくなることを恐れたと言われている。この多国籍軍はオーストラリア軍が中心となって結成された軍隊だった。というのも東ティモールの国土の下には石油が埋蔵されていることが明らかで、オーストラリアはその利権を手中にしたいとの考えがあったと言われる。

 結局、多国籍軍の投入により事態は終息の方向に向かい現在では抗争が起きたというニュースを耳にすることはほとんどない。よってこの地域での選挙は成功に終わったと言うことができる。

 

5、二つの選挙の比較から見えるユーゴの特徴

 東ティモールはその地域の独立の賛否を問うという、比較的明確な大命題の下実施された。それに比べてボスニア・ヘルツェゴビナの選挙は議会選挙であったことから、自分と民族を同じくする候補者に投票するという構図になったと考えられる。そしてその地域では選挙を監視する国際機関に対する信頼が希薄になっていたという事実も存在していた。その例としてはセルビア人に対する国際的な封じ込め、NATOによる空爆などが挙げられる。セルビア人に対する国際的な封じ込めはセルビア人の結束という結果をもたらし、空爆は自分たちを助けてくれると期待していた西側の国際機関が自分たちの生活空間を壊しているといったような、ある種逆説とでもいうような状況を作り出したのである。調停に入る国際機関には中立の姿勢が常に求められるのに対し、このころのUNやNATOなどの態度は完全に反セルビアで一致していた。この点、東ティモールに派遣された選挙監視団はボスニアのそれに比べると中立だったといえよう。また武力衝突の発生時についても若干の違いがある。東ティモールの場合武力衝突が表面化したが、ボスニア・ヘルツェゴビナではほとんどなかった。これは投票の結果が過激な勢力の意図が通ったか否かの現れではないかと思う。裏をかえせば、ボスニア・ヘルツェゴビナではどんな勢力が多数を占めても、実際の政治や行政活動は変わらないということなのかもしれない。

 多くの紛争地域と旧ユーゴ地域の紛争の違いは、戦闘の意欲の有無であると言われる。まず根本的問題として自分たちの生活の問題や矛盾を民族に集約してしまうことが挙げられ、それをあおる政治家やメディアの体質そのものを改善する必要がある。

 

6、まとめ

  ボスニア・ヘルツェゴビナ地域に将来平和は訪れるのだろうか。NGOなどの地道な活動により下からの民主化は意外だが進んでいる。クロアチアの国内にある女性だけのNGO、CWWVは民族を超えて女性や子供を保護するなど、国境を越えた活動を行っている。このようなところで活動している人々は、民族主義は間違った考えだということが浸透している。だか依然政治家など社会の上層は、民族別の権力分布にこだわっていると言える。もしここの地域に民主化による平和が訪れるとしたら、こういった市民運動などの活動家が力をつけ、それに耳を傾ける市民が出現することしかない。争うこと、暴力からは憎しみしか生まれないということに市民が気が付くのができるだけ早いことを祈るしかない。

 

 

参考文献

『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか』  千田善  頸草書房  1999年

『NGOと国際選挙監視』  岩波ブックレット 2000年

参考HP

http://www.osce.org/

http://www.mainichi.co.jp/

http://www.mofa.go.jp/