諫早干拓における行政と市民

国際社会学科3年松下容子

 

諫早市によれば、干拓は1986年、関係者全て、すなわち長崎県議会、関係市町、関係市町議会および農業団体、地元住人の方々の力強い推進の決意により、またそれまで反対をしていた漁業者からも推進の要望を受けて着工されたらしい。しかしながら現在、干拓の推進を希望する市民は明らかに激減している。それでも県は事業費の増額を決め、また新たな工事をする計画を立てている。これは公共事業、インフラ整備と呼べるのだろうか。ここでは、どうしてこの干拓事業を推し進める必要があるのかということに照点を置き、行政側と市民側の意見を聞きながら検証しようと思う。

 

T.干拓の歴史とその目的

有明海干拓の歴史は古く,7世紀の推古天皇15年泰河勝による90万代の干拓に始まるといわれていますが、実際は自然陸化地域の干拓であり,真の意味での干潟干拓は中近世から始まったといわれています。

有明海干拓は地域的に大きく分けると4地区に分けることができます。即ち,佐賀平野,筑後平野,玉名・飽託平野,そして後に諫早干拓事業が行われる諫早平野です。

 1952年、有明海沿岸の福岡,熊本,佐賀,長崎,4県によって「有明海総合開発協議会」が設置され,一方,長崎県は諫早湾干拓を目的とした「大長崎干拓構想」を打ち出し,独自の調査をはじめました。

何故,このような大構想が生まれたのでしょうか。それは,過去実施された有明海沿岸のいわば小規模干拓の非効率性を脱却し,同時に沿岸地域に頻発した台風災害を抜本的に防除する方策として発想されたものであるといわれています。この構想の基本は,有明海の湾岸を大堤防で締め切り,湾岸の干満の差をなくすと共に,水位を下げ,第2線堤防を築けば一挙に4万haに近い干拓地が造成され,あわせて高潮などに起因する災害を避けることが可能になるという構想でした。同時に,この計画は推定40億トンの有明海海底の石炭資源,1億トンの砂鉄資源の採取,湾岸の淡水化による水資源開発などの効果もあわせて考えられていました。

1969年,この大開発構想は「有明海総合開発調査報告書」という総まとめをおこなって,事実上中止においこまれ,幻の計画となってしまいました。中止をせざるを得なくなった理由として,第一に米の過剰生産の問題,第2に海苔の養殖業の発展,第三にエネルギー革命による石炭のエネルギー源としての地位の没落で干拓と石炭採掘における効果が評価できなくなったことが理由としてあげられます。

1970年、「大干拓構想」に基づき、「長崎南部地域総合開発」、即ち「南総計画」が打ち出されます。それは諌早湾を全部閉め切り、土地造成と水源開発を目的にするというものでした。しかしそれは漁民の同意を得られず、1982年、打ち切られました。現在の「諫早干拓事業」が始まったのは、1986年のことです。

U.諌早干拓事業について

国営干拓事業・諫早湾

事業主体:農林水産省

予定工期:1986-2000 2000年から6年延期決定

総事業費:2,370億円 事業費120億円増

締切堤防長:7050m 総事業費2490億円

締切面積 3550ha

(農地面積):(1840ha)

(調整池):(1710ha)

配分予定農家:583

 

<計画の概要>

大潮受堤防で諌早湾を締め切り、その中を内部堤防で囲み、干拓地を造成。また、調整池を造り、洪水防止を行なおうというもの。干拓地では、酪農、肉用牛飼育、野菜生産を行なおうという計画。

 <主な目的>

農林水産省構造改善局

http://www.cityfujisawa.ne.jp/~559-mori/isahaya/index2.html

1 諌早湾干拓事業の目的

諌早湾干拓事業は、長崎県及び地元市町等の要望に基づいて、次の目的により、昭和61年に事業着手しており、現在も事業推進への強い要望が寄せられています。

()生産性の高い農地の創出

 本事業は、山間地が多く平坦な農地に乏しい長崎県において、大規模で生産性の高い農地を新たに創出し、農業の振興を図るものです。

干拓地における営農については、稲作を行うものではなく、野菜や畜産等の生産の振興を行うもので、周辺農家の増反による野菜経営と肉用牛の肥育経営及び入植による酪農経営を想定しており、野菜作では一戸当り3.0ha(干拓地2.0haの増反,既耕地

1.0ha)、肉用牛肥育では一戸当り4.7ha(干拓地3.5haの増反,既耕地1.2ha)、酪農では一戸当り8.0ha(干拓地)の経営規模を予定しています。

 また,現時点の各経営の所得は、長崎県の「新農政プラン(H8作成、平成13年度目標)」における年間所得目標額が得られると見込んでいます。

長崎県は北海道についで全国第2位の「ばれいしょ」の生産量を誇っています。その中でも、諌早湾周辺地域は全県の約90%の作付け面積を占めるなど、県内でも意欲的な農家が多い地域であり、本事業により、新たに創出される干拓地は、そのような農家に活用され、本地域はもとより長崎県の農業振興に寄与するものと考えています。

また、我が国の食料事情を見ると、食料自給率は年々減少しており、現在の総合自給率は42%で、主要先進国の中でも最低となっています。

 農地面積は昭和36年の609万haから、平成8年には499万haに減少しており、最近においても、毎年、農地転用により4〜5万haの農地が減少しています。

 この状況の中、我が国の食糧自給率の維持・向上を図るためには、経営規模が大きく、生産性の高い農業を実現することが重要であり、干拓事業はその意味で重要な事業であると認識しております。

()災害に対する防災機能の強化

 諌早湾地域は、土地が低く、昔から高潮や洪水、排水不良の災害に度々見舞われてきていますが、潮受堤防と調整池を設けることにより、これらの災害に対する防災機能の強化を図るものです。具体的には、ア 既存の海岸堤防の高さ(標高3.25.7m)が低いため、周辺低平地は、これまで幾度となく高潮の被害や危険にさらされてきましたが、潮受堤防(標高7.0m)により、伊勢湾台風級の高潮に対しても安全になります。

イ 伊勢湾台風(昭和34)級の高潮と諌早大水害時(昭和32年)の洪水が同時に発生した場合においても、潮受堤防により、高潮の影響を受けることなく、河川からの洪水を調整池に安全に流下させることができます。ウ 潮受堤防により、潮汐に関係なく調整池へ排水ができるようになり、低平地の排水改良が図られます。

(大正以降の大きな災害>

 大正3年:高潮・洪水:約1〜3mの高潮と150mmの降雨により本明川氾濫。岸堤防1,116ヶ所、河川堤防273ヶ所決壊。家屋流出崩壊浸水2,308戸。橋流失61ヶ所。水田流出埋没4,313町。用水路破損3,625ヶ所。

 昭和2年:高潮・洪水:3mの高潮と88mmの降雨により本明川氾濫。死者57人、行方不明3名、負傷者92人。堤防決壊342件。家屋全壊1,479,半壊1,868,流出314,浸水13,203.田畑崩壊350町。

 昭和32年:洪水(諌早大水害):集中豪雨で湾沿岸の全河川氾濫。死者683、行方不明77人、負傷者3,550人。家屋全壊2,248戸、半壊3,060戸、床上浸水12,020戸。田畑流失埋没1,389町。

 昭和57年:洪水:588mmの集中豪雨。死者3人、床上浸水917戸、床下浸水1,545戸。田の流出埋没98戸。農地流出冠水2,700ha等。

昭和60年:高潮:2〜3mの波が津波のように堤防を越えた。桟橋被害2ヶ所。家屋床上浸水18戸、床下浸水40戸。水稲被害1,300ha。ハウス被害73棟。

 <干拓問題におけるキーワード年表>

1952戦後の食糧難を背景に当時の長崎県知事が、米の増産を

目的とした諫早湾全体(約10,000ha)の大干拓計画を表明。

195707 諫早大水害(死者680名)が発生。

1969国が水田開発の抑制に方向転換。大干拓計画打ち切り

1970計画を「長崎南部地域総合開発計画」(南総計画)に変更。

1976年湾内の12漁協との漁業補償が大筋で妥結。

1982年南総計画打ち切り

1983 事業規模を3,900haに縮小。事業目的は畑地造成・防災 策に変更。農林水産省が設置した「諫早湾防災対策検討委員会」の 報告で防災効果が期待できない事が指摘された。

1986年漁民の反対の為、規模を3,550haに縮小。

1986度環境アセスメント実施。現在の事業計画が決定。

1989年起工式。

1992年度本格工事着手

199504-07月総務庁が「大規模な農業基盤整備事業」に関する行政監査を行う。

199702 総務庁が95年の行政監査に基づき、「土地利用・営農計画の確実性」及び「環境への十分な配慮」を求め、事業計画の変更を勧告。

19970414日湾奥部を完全に締め切る「潮止め」工事実施。(ギロチン)

199704月日本湿地ネットワークや日本野鳥の会等が水門の開放を求める要望書を農林水産省等に提出。自然保護団体を中心に干潟の生物の救出作戦が行われる。

 

V.干拓に対する意見

諌早干拓事業には、当初から幾多の疑問点がありました。

  1. 防災として役に立つのか
  2. 環境・またそれに従ずるものへの影響

主にこの2つがあげられます。

  1. 防災として役に立つのか

まず、この事業が考える防災の在り方を見てみようと思う。諫早干拓事業の防災とは、諌早湾の奥の部分を潮受け堤防で閉め切り、海と遮断して中(調整池)の水位を下げることで、人工的に干潮と同じ状態を作り、いつも排水を可能にし、大雨でも浸水がなくなるというものです。満潮と洪水がぶつかり、川が氾濫して起きた「諌早大水害」の惨事を繰り返さないために、河口の水位を下げるという理論でした。さらに潮受け堤防で高潮を防ぐというものです。この理論は一見もっともらしく、多くの人を納得させます。

 

 

 

しかし、「長崎の自然と文化を守る会」事務局長の布袋厚氏により、

が、検証されました。これによれば、干拓は防災に役立っていないということになります。またそれは、1999年7月23日の「諌早市集中豪雨」により、実証されてしまいました。32000世帯(9200人)に避難勧告、全半壊一部破損3、床上床下浸水661、死者1、という被害を受けたのです。昭和58年「諌早湾干拓防災検討委員会」によって、被害は発生しても90戸程度の床上浸水と検討されたものを大きく上回る被害でした。その上、干潟を失ったことで地盤が沈下し、以前からある堤防がひどいところでは1mも沈下しています。

2.環境・またはそれに従ずるものへの影響

農林水産省構造改全局は、事業実施にあたっての環境対策として次のようなことを行っています。

  1. 環境監視(モニタリング)計画の策定、実施、公表
  2. 干潟の再生促進対策
  3. 渡り鳥の広域的な視点からの追跡調査

背後地の排水を貯める等の役割を果たす調整池は、特にその水質が問題視されました。調整池が汚染されることは、湾内を汚染することと一緒なのです。またそれは、湾内漁業を壊滅に追い込むことを意味します。しかし、水質の検査を行って数値を公表しても、具体的な対策を示したことは一度もありません。

1998年7月諌早湾・有明海で赤潮発生(1992年以来。天然魚に被害が出たのは初めて。)

1998年10月諌早湾タイラギ漁6年連続休漁(潮受堤防建設が本格化した翌年の1991年から不漁)

1995年5月北部排水もん付近でまた赤潮が発生(排水を行った調整池北部排水門から佐賀県方向へ幅7−12mで長さ2km)

1999年タイラギ漁7年連続休漁

1999年12月有明海水質調査実施へ(閉め切り直後から、佐賀、福岡、熊本の3県漁連が申し込んでいた調査をやっと実施)

このように実際被害がでているにもかかわらず、「干拓とは関係ない」、「詳細は分からない」という回答ばかりです。

「事業実施に先立ち、環境影響調査を実施し、また工事中においても環境モニタリングを実施しその結果を公表するなど、環境に配慮してきた」(農政省)と言うが、調査をし、それを発表すれば環境が改善されるとでも思っているのでしょうか。

W.それでも行われる干拓事業

洪水を防ぐことはできない。調整池は汚染されている可能性がある。それに伴なう漁業へのダメージ、干潟に生息していた生物の絶滅の危機。など、干拓を行ったばっかりに起きた地元への被害は甚大です。それなのに工事を止めるどころか、農水省は工期を6年延期することと、120億円の事業費増加を決定しました。なぜでしょうか。やはりそれは干拓をすることで恩恵を与かる市民(農民)の存在と、それを利用する行政、という構造があるからだとしか思えません。

X.まとめ

諫早干拓事業を調べるうちに、行政・農民 漁民というかたちが見えてきました。

元々この事業は、目的に「生産性の高い農地の創出」を掲げているくらいですから、農民の支持・期待は着工時から相当のものでした。諫早湾閉め切り後、有明海には赤潮が発生し、タイラギ漁が6年連続休漁になっている最中の、199810月に長崎県内の農業6団体が長崎県知事に事業の早期完成を要望したくらいですから、干拓が完成されれば農民はさぞすばらしい恩恵を受けるのでしょう。事実、調整池が出来たことによって大雨時の浸水が少なくなり、水の引きも早くなったと感謝の陳情が農水省に繰り返されています。その調整池のせいで(はっきり認めてはいませんが)生活苦に追い込まれている漁民がいるということを知っていてです。漁民は補助金をもらっている人がほとんどですから、行政に訴えることが容易ではありません。そんな状況で為された、199912月諫早湾で漁民の北部排水門放水実力阻止、1979年、1980年、2000年と3度に渡る漁民による海上デモという漁民達の必死の行動を、行政はどう受け取ってきたのでしょう。それは「何でも干拓のせいにされる。因果関係は明らかではない。」(九州農政局諫早干拓事務所副所長)という言葉に集約されている気がします。

行政には「防災」という大義名分があり、一部支持してくれる市民もいて、事業を中止する必要はありません。第一、反対しているのは漁民と一部の市民団体と市民ではない反対論者で、ほとんどの漁民でも農民でもない諌早市民はこの問題に興味を示していないのです。それは2000年4月16日に諫早湾閉め切り当時の事業積極推進派市長、吉次邦夫氏が無投票当選で再選されたことにあらわされていると思います。地元の人達が被害にあっても自分達に及ばなければいいのでしょうか。公共事業で地元が潤っているとでも…。この問題は公共事業の今の在り方を問いただす必要があると思います。今レポートではそこまで調べることは出来ませんでしたが、追跡調査を行いたいと思っています。

 

 参考ホームページ

http://www.cityfujisawa.ne.jp/~559-mori/isahaya/

http://www.cityfujisawa.ne.jp/~559-mori/isahaya/suisin/0526koukai-Q.html

http://www.cityfujisawa.ne.jp/~559-mori/isahaya/nousui/514.html

http://www.cityfujisawa.ne.jp/~559-mori/isahaya/hihan/hotei.html

http://www.cityfujisawa.ne.jp/~559-mori/isahaya/shiryou/tairagi.html

http://www1.sphere.ne.jp/access-t/environment/isahayawan.html

http://www.us1.nagasaki-noc.ne.jp/~nagasaki/isakan/

http://w3.dh.nagasaki-u.ac.jp/ken/mutsu/report8.html

http://www.asahi-net.or.jp/%7EIR5H-MRST/apeal/mutugoro.html