2017年度 卒論・修論コメント 中村祐司

 

 

卒論コメント1

 たとえば新学習指導要領にある「社会に開かれた学校」とは言っても、事はそう単純でないことが、書き出しの文面から窺える。論文の考察対象を「長期的な政策を含む学校教育を通した地域振興策」(4頁)に置き、まず栃木県から入り、コミュニティ・スクール、ふるさと学習(県版学習指導要領など)、地域連携教員、学校支援ボランティアについて記載される。着眼点は良いものの、残念ながら深掘りされているというよりは、いずれもさらっとした説明に終わっている。評者も個人的には「開く」と「閉じる」は矛盾しないのではと思いつつ、次章に進んだ。

 ここでは群馬県(コミュニティ・ハイスクール、放課後子ども教室、地域未来塾)と三重県(コミュニティ・スクール、学校支援地域本部、「地域とともにある学校づくり」サポーター)について取り扱っている。栃木県と群馬県、栃木県と三重県の比較考察(栃木県に対して厳しい目が注がれる)を経て、3県の比較考察に入る。

 「県は国から提示された方針と、市町村の抱える現状(過疎化、予算不足など)との間で板挟みなっている」(17頁)などの指摘や「地域特性」(18頁)といったキーワードは興味深い。さらに政策実施の構図を自ら作成するなど、丁寧な記述や考察が展開されている。

しかし、いかんせん食い足りないというのか、どの項目も深堀りがなされていないので、読み手にはどうしても物足りなさが残ってしまう。「もう終章なの」と思ってしまう。たとえば、それ以前の章で群馬県のコミュニティ・ハイスクールの活動事例が生き生きと描かれているとはいえないため、栃木県に対する提言の説得力の強さにつながっていかない。丁寧かつ真摯な考察の一貫性は認めるものの、ふるさと学習やサポーター導入をめぐる提言についても物足りない。

インタビュの成果について本文に存分に盛り込まれている印象を受けない。少ない分量をカバーするためにも、26頁以下の「インタビュ調査概要」は補足資料とせずに、本文に挿入してほしかった。オリジナルで資料的価値があるものは、本文の柱に位置づけてもよいのではないか。

また、行政担当者に加えて学校現場での声をぜひ拾ってほしかった。それができれば考察内容も異なったものとなっていたであろう。

 

 

卒論コメント2

 評者も2011年以降、震災研究に取り組んできた(『スポーツと震災復興』および『危機と地方自治』2016年)こともあり、非常に興味深く読み進めることができた。

書き出し(序章)から、 震災遺構、ダークツーリズム(後にDisaster tourismに焦点を絞る)に注目する理由が読み手によく伝わってくる。ちなみにダークツーリズムの類型表(13頁)の”Doomsday tourism”(後に無くなってしまう場所)は、50万人を超えると言われるロヒンギャ族の難民キャンプ、ISによる破壊にさらされたアレッポなどが該当するのでは、などと勝手に思ってしまった。

それはともかく、ダークツーリズムでは、「当該地域を訪問することで、いかに学習効果の高い経験となりうるかという点」(16頁)が重要だという指摘に、これ以降の記載をめぐり、書き手の理解と読み手のそれとが一致した安心感を抱くことができた。

25頁以降で展開されるアクターの三分類について、外部アクターはともかく、「小さな」と「大きな」アクターを分けた点が興味深い。ただ行政が大きなアクターだとはいっても、国(中央政府)と自治体(地方政府)とでは財源や専門知識など保有する行政資源には差があるし、後者においても広域自治体(都道府県)と基礎自治体(市町村)、さらには市町村間での差異ないしは格差(たとえば宮城県における仙台市と山元町)は著しい。

また、復興に取り組むNPO、任意団体、ボランタリー組織、地元企業などは、果たしてどのアクターに属するのであろうか。あるいはこれらを個々に見ていけば、実際には大きなアクターもあれば小さなアクター、さらには外部アクターもあるのではないだろうか。

塩釜市や石巻市への訪問で、「観光というものを通してみる被災地というのは、あくまでも一過性に過ぎない」(34頁)と痛感したことの意味は重い。そのことがダークツーリズムを手放しで持ち上げないスタンスの維持につながっている。

論文の「核」(36頁)とされる第3章では、主にネット情報から三つの学校施設を震災遺構と捉え、記述している。丁寧に書かれてはいるのだが、読み手の感覚では、先行研究が1,2,3章と続くよりも、ここに第4章の現地訪問を入れてほしかった。現地に身を置いた上での知見をめぐる記載は、オリジナルかつ「心に刺さった」(53頁)という意味で、さらには「建物が現存することによってしか得られない想像」(55頁)という言葉に接することができたという意味で、文献研究よりも読み手に与える迫力が全く違う。

57-58頁の「訪問調査総括」は、これまでの先行研究で養った鋭敏な視覚と現地での知見とがミックスされた秀逸な記述だ。そのことは終章における「震災遺構」=「希望」(61頁)といった指摘や、今後の遺構の維持管理に向けるまなざしについてもいえる。

卒論作成者は最初に「五感」で対象を捉える大切さに言及していたが、評者も同感である。震災後に生じた未曾有の被害の現場(卒論作成者と同じ場所を含む)を歩き続けた経験が、本論文を読んで昨日のことのように蘇ってきた。その意味で、現場での経験は、卒論作成者が卒業後の仕事における「希望」ともなるはずである。

 

 

修論コメント1

本研究は、微商の特徴をまとめたうえで、微商を実際にやっている複数のひとにインタビュしながら、微商の実態と問題点を把握し、電子商取引の可能性と問題点を分析する」(序)とあるものの、評者が時代に趨勢に付いていけないのか、最後までよくわからずじまいであった。

頻繁に出てくる図について文章中で言及されていない箇所が散見される。

「微信のモーメンツが自分の友達、親戚もしくはリアルの知り合いだけに見せる、個人間の信頼関係をもとにした取引」(12頁)とあるが、たとえばタオバオとの広告量の違いについて、「微商が友人関係を利用して、商品の広告量がタオバオよりも多い」(14頁)とある。

ところが、そのタオバオについて、「ネット通販で最大のシェアを占めている」(16頁)や「日本の楽天市場よりも規模的には10倍以上ある」(同)を読むと、広告量は圧倒的にタオバオの方が多いのではないかと受け止めてしまう。

 このように微商を日常的に利用している人ならともかく、全体を通じて、飛び飛びの説明というか、丁寧さに欠けるのは否めない。インタビュの知見も一般論に止まっているのではないか。「制度の明確化」(45頁)や「形の転換」(46頁(についても同様で、もっと踏み込んだ考察が必要ではないか。