2016年度副査を担当した卒論8本・修論3本のコメント(20172月)

 

中村祐司

 

<卒論1>

食の国際理解教員という本論にいきなり入るのではなく、歴史も含め「食」に関わる、あるいは「食」から波及する様々な諸課題について、文献研究などを通じて広く捉えようとしている点が評価できる。この作業はかなり労力が掛かるものであるが、それを厭わなかったため、本論の位置づけが明確になっている。

 細かい点だが、たとえば7-8頁あたりでは元号と西暦の記載が混合している。西暦で統一してもよかったのではないか。

 文科省、厚労省、農水省の食育政策について「輸入や食文化など海外との繋がりを示唆する提言は少ない」とした指摘は鋭い。しかし、たとえば観光庁や外務省は食育政策には一切絡んでいないのであろう。内閣府も含めた各省予算をあたってみれば新しい発見があったかもしれない。

 その後、学校での食育に焦点が絞られ、興味深い事例も複数挙げられる。しかし、読んでいてやや冗長さを感じるのは、現場訪問やインタビュがないせいであろう。

 本論の第3章についても、文科省のデータにもとづくグラフ作成や複数の実践例の紹介など工夫して掲載はしているのだが、読み手にはどうしても表面を撫でただけの報告書風の成果として受け止めてしまう。

 序章や第1章の前提論が重厚であっただけに、それ以降の記述が終章も含め残念である。ただし、終章において紹介した事例と結びつけた提案は興味深かった。

 対象とした文献・資料が豊富で丁寧に読み込んでいることが窺える論文だけに、現場に身を置けば別のオリジナルな視点が出てきたのではないだろうか。

 

 

<卒論2>

「避難者一人ひとりにあった専門性の高い支援」(要旨)が必要なのは確かにそのとおりなのだが、この実践がなかなか難しい。自主避難者、さらには教員に焦点を絞り、執筆者の実践経験を素材に論文を作成したことは高く評価される。

 学習支援活動、学童保育プログラム、第三の居場所作りについての活動記載は、文献研究のような間接的な考察ではなく、これだけでも相当な資料的価値があると思う。「母子避難」の指摘など実践者でなければ出て来ない問題意識である。親と子の精神的不調の連鎖や「先の見えない避難生活の不安」といった記述がそれである。

 自ら学習支援団体を立ち上げたからこそ、たとえば保護者からのニーズの変容も言葉だけではなく、皮膚感覚で理解できるのであろう。だからこそ災害救助法の欠陥を指摘できるのであろう。その他にも「避難できる(最低限二重生活ができる)経済力」への言及も鋭い。

 大学生が子どもたちと一緒に過ごすだけでもすごい価値があると思う。「ナナメ」「タテ」「ヨコ」の結節点が若者なのである。

 細かい点だが、行政(山形県)へのインタビュで得られた知見について書いてほしかった。自らの活動を文章として残しておくことの価値は大きい。活動のみで記録を文章の形で残しておかなければ、後世に受け継がれないからである。また、制度の継続を前提に対応策を考えることは決して無駄にはならない。

 一方で支援活動はその中身を変容させつつ継続することが大切だ。何とか可能な範囲で関わり続けてほしい。評者の場合であれば、「書くという行為」を通じてこれからも関わり続ける所存である。

 

 

<卒論3>

 評者自身が地方自治における課題対応の実践の一つとして、多文化共生政策に関わっており興味深く読んだ。

 文献研究も丁寧になされているが、本論は第3章以降であろう。自由記述では「(行政について)すべてが足りない」という厳しい指摘もある。一方で自ら積極的に動いて国籍に関係なく人的ネットワークを築いている人もいるはずである。

 第4章のクロス集計なども重要であろうが、やはり関係者への直接的な聞き取りは関連事業に実際に参加したり、運営したりしたことから見えてきた課題や解決策について記してほしかった。読み手にとってひたすらアンケート結果を追いかけるのはやや辛い。たとえば、多文化コーディネーターが果たす役割を自分なりに実践してみるとか、外国籍市民にとって「働きやすい・住みやすい環境づくり」に向けて、自ら学内でワークショップを開催するとか、実践から見えてることにもっと重きを置いていい。

そして、たとえほんの小さな多文化共生活動であっても、今後も継続して関わり合っていくことが大切だと思う。

 

 

<卒論4>

 大きなテーマから入るのは悪くない。本論に至る道筋を示す必要があるし、そのことで本論の位置づけが明確となるからである。しかし、1章はともかく、2章の段階でもテーマが大き過ぎるため、論点を絞り込むことができない内容となっている。

 たとえば22節最後の幸福論の展開は興味深いものの、印象論あるいはエッセイ的なレベルにとどまってしまっている。

 3章では、たとえば「日本の○○に与える影響」といったように対象を明確にする必要があったのではないか。この章で執筆者のオリジナルな指摘を見出すことができない。

 その点、4章では行政の婚活支援を対象としているが、文献表記の言い換えなので、執筆者の言いたいことが読み手に伝わってこない。この章の最後の文章に註が付いていることに違和感が残る。「おわりに」の記述も果たして個々人の気概を強調すれば、それで済むのであろうか。

 

 

<卒論5>

 評者自身がスポーツと震災復興に関心を持っており、また現地を訪問した経験もあることから興味深く読み進めた。

 執筆者が実際に復興マラソンの現場に行き、関係者からの聞き取りなど現場での経験をもとに論文を作成する姿勢に好感が持てる。マラソン大会が当該地の地域文化と結びついていることがわかる。マラソン種目の変遷からも大会が多様化傾向にあることが窺われる。複数のコースにも足を運びながら、大会運営のあり方を考察していて、たとえば復興マラソンの回数提示や名称が及ぼす影響についての記載など、文献研究のみでは得られない貴重な情報となっている。

「結集の核」は全体を通じての重要なキーワードであろうし、閉会式での役員の言葉は食の魅力や癒やし、さらには復興への思いの共有につながるものであり、大会の成功という枠を超えて心に残る記述となっている。

外部からのボランティア参加を、「震災が与えたコミュニティへの変化」と捉える視点と継続力への疑問の指摘には鋭いものがある。

大会参加者へのインタビュは分量こそ少ないものの、執筆者オリジナルな貴重な資料生成となっている。とくに無形文化財との比較考察の論述に迫力がある。行政主導やその先導という言葉だけで、最初から否定的に捉える論者も多いなかで、執筆者は行政の先導こそが大会の再開の原動力であった見抜く。そして神輿との違いに注目し、それがマラソン大会、すなわちスポーツの持つ特性的な力(外部への開放性など)にある点を指摘するのである。町職員の「これがないと本当に何もなくなってしまう」という発言がそのことの証左となっている。

現場から得られた知見と文献研究とを絡ませながらの論述に引き込まれた。しかし、課題も感じた。それは論文作成の初動が遅かったのではないかという点だ。当該地ほどの深掘りはできなくとも他自治体での同様な大会の現場に足を運んで、当該地との共通性と違い、さらにはポジティブな相乗効果の可能性などに言及できれば、今後についての踏み込んだ提言にまで至ったかもしれない。

評者はスポーツを通じた震災復興はこれからが正念場だと捉えている。執筆者が今回、論文作成を通じて他者の受け売りでなく築いた「絆」を今後も維持してほしい。

 

 

<卒論6>

 明確な問題意識が最初に提示されたせいか、入試も含めた教育制度の変遷についての比較的長い記述を辛抱することなく読み進めることができた。しかし、テーマとの整合性を考えるならば、1章と2章を圧縮して1章として、女子高等教育に焦点を当てた3章は2章とした方がよかったのではないか。

それはともかく「9大スペック」「スペック積み」など、尋常ではない強迫的能力至上主義のような状況や、「男性であることが」が一番のスペックという記載には状況の深刻さにたじろぐ思いがした。

 「賢母良妻」と高学歴がこれほど結びついているとは知らなかった。「若年世代の失業・非正規化」や「性別職業分離現象」さらには「経歴断絶」など、世代が異なる評者から見ても目がくらむような状況が推察できる。こうした状況への政策対応を興味深く読んだが、残念ながら情報源(出典)の記載がないか丁寧ではない。

 「経歴断絶女性の特性ごとに特化した政策や法律が必要である」としているが、施策や事業あるいはプログラムレベルでの対応もなされていないのであろうか。

 インタビュでは統計やアンケート資料では期待できない、深掘りがなされている。このようなオリジナルな作成資料こそ価値があると思う。いずれも建前ではなく本音を引き出しているのが良い。執筆者のコミュニケーション能力は相当なものだと感心した。このインタビュを論文のコアにして、多様な大学に属する多くの対象から聞き取りができれば、また違った知見が得られたかもしれない。また、男子学生がこのテーマをどう捉えているのかまでインタビュで踏み込むことができれば、より多角的な考察が展開されたかもしれない。

 男性と比べてあまりにも制限された学歴効果が浮き彫りになった。しかし、僅かかもしれないが、「性別による差別」のない企業も存在するのではないか。グローバル化やその反動の中で、国内外の市場で生き残っていくためには性別などと言ってはいられない状況に企業は置かれているのではないか。

このテーマでの日韓比較など興味は尽きない。ぜひ今後は執筆者が実践を通じてこの重いテーマを追求し続けてほしい。

 

 

<卒論7>

 多様な○○ツーリズムの出現は、それだけ観光・旅行者が求める多様化傾向に対応したものなのであろう。地方自治体も「おもてなし力」を問われる時代となった。

 執筆者は関連の文献や行政資料にあたるだけではなく、実際に現地の施設を訪れる。聞き取りから得られた情報は貴重である。二地域居住もツーリズムに直結することに気づかされた。ということは人々の生き方そのものにツーリズムが関わってくることになる。

 自治体が打ち出すお試し居住など種々の移住支援にはやり尽くした感すらある。

 執筆者は対象とした11町のツーリズム政策を丁寧に把握している。しかし、読み進めてもツーリズムの現場の息づかいというのか、関係者が担うダイナミズムが見えてこない。行政資料や文献の趣旨をなぞるような論の進め方になっているからであろう。

たとえば思い切ってブルーツーリズム実施の現場に入って、非常にユニークな名称の各学部が実際にどのようなサービスを提供し、それに対して参加者がどのような反応を示しているのか描写できれば、分析の視点そのものが変わったかもしれない。

 地域密着型ツーリズムは地域における協働実践そのものかもしれない。加えて地域資源を包括的かつ最大限に活用するのが地域ツーリズムの醍醐味なのであろう。今後ともこの点に留意してぜひ問題関心を持ち続けてほしい。

 

 

<卒論8>

 かなり絞り込まれたテーマとなっている。これがたとえば「韓流を支えるファン」だとしたら論点が拡散してしまったであろう。おそらく日本人女性ファンはSNSを通じて情報や価値を共有しているであろうし、韓国人女性ファンとの比較も含めて、考察やアプローチの対象を点としてではなく、塊(かたまり)として捉えられるのではないかとその後の論文展開に期待を持った。

 読み進めると、韓流の中核としてのK-POPが日本に浸透した経緯が理解できた。同様に 韓国におけるアイドルグループの変遷についてもわかったものの、出典(ネット情報?)がところどころ明確でないのと、女性ファンについての記述がないためにどうもしっくりこない。たとえばファンカフェの入会者は女性に限定されているのだろうか。

韓国においては寄付文化が国外の貧困地域への医療支援サービスや国内の図書館など公共施設の設置につながっていることに感心した。これが光の部分だとすれば影の部分は「サセンファン」による暴走行為であろうか。一方で日本人(女性?)ファンの「サポート」行為は韓国ファンとの協力も生み出しているという。

 ファンの行為がこれほど多様であるとは、読むまで想像すらできなかった。その意味でK-POPファンの行動様式を知ることができた。しかし通読して、全体的に上滑り感というのか、残念ながらアプローチの深みを感じることができなかった。研究におけるネット情報の活用やそれを使ったアンケートの意義は認めるものの、それだけではどうしても論の展開に迫力が出てこない。ファンとの距離の近さに違いが生じることなどから、執筆者が考える両国の比較文化論まで説き広げほしかった。 

 

 

 

<修論1>

 日本と中国のこれまでの都市ゴミ対応政策を時系列で丁寧に把握している。さらに政策展開の比較を法政策だけでなく処理方式についても行っている点が興味深い。

 「受苦圏」「受益圏」「社会的ジレンマ」、これを補うかのような「重なり型」「分離型」「格差型」は確かに一連の優れた分析概念なのだろう。しかし、この分析枠組みは、東日本大震災直後の原発事故による放射廃棄物である未曾有の「ごみ」排出(外部不経済の最大化)に適用可能な概念なのであろうか。

少なくとも日本のゴミ処理技術機能の向上により環境施設としてのポジティブな側面(受苦圏から受益圏への機能的シフト)が出現しつつあることも事実であろう。分類・類型化だけで終わらず、分類間のシフト・動きにも主眼を置くべきではなかったか。

 東京の基礎自治体の事例は興味深いものの、インタビュ等からの知見は提示されていない。続く宇都宮市と上海市の比較に入るが、最初に都市規模の違いに触れてほしかった。そうはいっても、執筆者は両国の現場に入っており、期を分けるほど厚みのある記載となっている。建設の経緯をまとめた表も重要である。細かい点だが、図7はともかく、図6は不要ではないか。せっかくの詳細・精緻な記述が相殺されてしまう。また、写真掲載には訪問日や撮影者を記してほしかった。結論として受苦圏域が「完全」に受益圏に移ったと言い切っていいのだろうか。

 上海市の事例では必ずしもトップダウンではなく、住民参加のルートが形成されていた点が興味深かった。図13と図14は不要ではないか(写真についても同様)。

 5章は終章の考察の奮闘ぶりが伝わってくる。しかし、通読してやはり分析枠組みに拘泥し過ぎたのではとの思いが残った。これだけ丁寧に事例に当たったのだから、事例と枠組みの順番を逆転させて自らの枠組みモデル構築にチャレンジしてもよかったのではないか。それが無理ならば既存のモデルに修正を加える手もあったはずだ。その証左として執筆者は「受苦圏は残っているか、もしくは他の地域に新たな見えにくい受苦圏が拡大した」ことを喝破している。

 

 

<修論2>

 ラテンアメリカの「ポスト新地域主義」とはどのようなものなのか。読み進めると、分析枠組みの設定に相当なエネルギーを費やしていることがわかる。多くの邦文・欧文文献にあたっている。論文目的は、@地域主義の体系化、A太平洋同盟の形成過程、B重層的地域統合分析の三つである。しかも政治学的アプローチと法学的アプローチを用いるという。

 ただ、読み進めても各々の経緯や特徴はまとめられているのだが、小結論がなかなか理解できない。ストーリーは整っているのだが、よくわからない(これは評者のこの地域について知識不足や視点の欠如といった力量不足に起因しているのであろう。しかし、話の展開に枝葉がないというのか、記述をそぎ落とし過ぎている印象を受けてしまう)。あるいは読み手からすれば、結論が図式化・単純化し過ぎているからであろうか。

 敢えて評者の理解を示すならば、@が「ポストリベラル地域主義」の出現、Aが結論なし(あるいは形成過程の提示そのものが結論か)、Bが「意識的統合」と「制度的統合」の欠如がもたらした重層化、といったところであろうか。

 

 

<修論3>

 異文化理解のW字曲線が興味深い。ただ、このような周期がSNSとどのように結びつくのかの説明がほしかった。読み進めると国境の壁をなくすかのようなSNSの発達・浸透が留学の意義を薄れさせてしまうのではないかとさえ思えてきた。しかし、留学生30万人計画など、最初に話しを広げ過ぎているのではないだろうか。

 第3章から本論に入るが、「言語能力」と「心的側面」を中心とするアンケート調査が紹介される。Line使用の有無からくる「断絶状態」の指摘など興味深いし、第4章では改善策が提示される。SNSにより「国境や留学環境が曖昧になってしまった」状況において、自助・共助・公助が持ち出される。しかし、「指導方式の多様化」などの改善策は一般論のレベルにとどまっている。もっと具体的な制度設計を提示しなければいけない。

 交流の場をソーシャルメディアに依存し過ぎる危うさについても触れてほしかった。たとえば日本語文章の添削の場がないことが、本人の日本語文章作成能力を高めることにつながるケースも多いのではないだろうか。全体的に看板倒れの印象が残ってしまった。