以下、2009年度 副査を担当した卒論コメントです。
中村祐司
*執筆者名と卒論タイトルは省略しました。
英国のイラク戦争参戦の理由は何かに焦点を絞った問題の切り込み方は間違っていなかったと思う。また、全体を通じて邦語文献だけでなく、英国留学の貴重な経験を生かしたのであろう、英語文献を実に積極的に読みこなしていて、課題追求の熱意が貫かれている。
通読して、クック外相が提唱した「善のための力」(11頁)という用語が、その後長年にわたって英国外交の方向性を決定づける強力なインパクトを持ったことが分かる。「第三の道」(12頁)についても、政策学の領域ではブレア政権の代名詞ともいえるこのフレーズが、国内公共サービスをめぐる政権の基本姿勢だけではなく、外交政策領域でも使われていた点が指摘されており、大変興味深かった。
コソボ紛争を契機に米欧間の「防衛能力の格差が明白になった」(17頁)点など、まさになるほどと感心しながら読み進めた。また、ブレアのスピーチ導入(16頁や24頁)により、固い記述に傾きがちな内容において、結果として全体を通じて硬軟のアクセントが与えられ、論述の質が高められたではないだろうか。
ただ、タイトルで「イラク戦争」を掲げたにしては、その登場があまりにも遅すぎるし、記述の質量ともに足りないのではという印象を持った(ふさわしいタイトルとしては、たとえば、『英国外交の歴史的経緯とその特質―国際紛争を素材にして―』といったところであろうか)。
第一章の記述の重厚さと合わせて考えると、とくに後半は時間切れだったのではという感がどうしても否めない。論述の骨格も専門家に頼り過ぎたのではないか。理由説明というよりは「経過説明」に終始してしまったのではないか。
通読してブレア外交の特徴である「積極的な関与」(35頁)がイラク戦争への「積極的」介入に結びついたというのは理解できたが、「道徳的、倫理的価値の重視」(同頁)が英国の対イラク政策とどう結びついたのかがよく分からなかった。
記述そのものも非常に格調が高く、無駄のない表現でまとめられているものの、概論(一般的な見方)、専門家の見解を追うのに精一杯で、執筆者が自分の言葉で表現しつつ、独自の物差しや捉え方を示してほしかった。
そうはいっても未だ共通解のない、テーマ追求に果敢に挑戦し、間延びを全く読み手に感じさせない整理・把握力を十分に発揮したことは読み手に十分に伝わってきた。論文作成という今回の経験を他方面でも生かした今後の活躍を期待し応援したい。
とくに副題が読み手を引きつけるし、本当のところはどれもが複雑に錯綜した結果なのだろうが、敢えて4つの仮説を設定したことが刺激的で興味深い。「なぜ」という視点が論文作成の原動力となっていることがよく分かる。
東京都の「国の取り組みに勝るアグレッシブな環境政策」(5頁)が一次資料にもとづいて、丁寧かつコンパクトにまとめられている。元気な自治体職員こそが優れた政策の担い手なのだろう。同様にテーマを追求する意欲と元気が論文全体に溢れている。
17頁の記述と絡めて仮説5として「環境を前面に出した2016年東京オリンピック招致活動戦略」を挙げてほしかった。また、仮説6として、いわゆる「環境議員」の影響力は設定できないだろうか。行政執行部と対をなす議会機能に注目してもよかったのでは。さらに、皮肉的な言い方となるものの、これほど力を入れるのは、見栄え最重要視の都庁舎で多くの時間を過ごした職員の間で、資源無駄遣いの痛切な反省がわき上がったからかもしれない。
仮説間の比較が難しいのは、首長職は激務であり、環境担当部局が作成した政策表明を首長がそのまま読み上げるといった場合も多々あるではないだろうか。そうなると、仮説1と仮説2は当然のごとく重複してくる。いずれの仮説も当たっていて程度の差に過ぎないという結論が妥当なところだろう。
発言をめぐるディーゼル車発言との比較(18頁)においても、都民に対する見た目の容易さや分かりやすさ、与えるインパクトの点で、「再生可能エネルギー等」よりもディーゼル車への言及の方に軍配が上がるのだろう。
後半、白黒をはっきり付け過ぎるというか、断定してしまう箇所が気になった。
たとえば、東京都だけでなく市町村も含めてその他の自治体でも、グループ制の導入など縦割り機能改善の動きはもはや一般的な傾向であるし、東京都の財源・人員規模の大きさがそのまま政策パフォーマンスの向上につながるとは言い切れないのでは。巨大な地方官僚制組織特有の意思決定の難しさもあるだろうし、トップダウンの発信元が管理職職員に移っただけとう面もあるのではないだろうか。規模の大きな大学や学部が優れた大学や学部とは限らないように、また、東京都には失礼な言い方になるが、他の政策領域でいえば規模の割にはたいしたことはないという言い方もできるかもしれない。
自主協定に収斂される、容リ法改正審議のプロセスなどを簡潔にまとめている。インターネット上の行政資料への目配りも適切である。ローソンなど熱心な事業者も紹介している(8頁。確かローソンは最近、太陽光発電を用いた店内照明の導入を明確に打ち出したと、最近新聞報道で読んだ)。「自主協定によるカバー率」(10頁)の高さに富山県の成功要因を見て取る指摘には説得力がある。実施都道府県(12頁)の表から、事業者数が膨大な広域自治体ではカバー率を挙げるのが難しい要因があると推察できる。
富山県の場合、もともとマイバック推進運動など下地があったところに、温暖化防止に向けた「ライフスタイルの改善」(18)を訴えた点が功を奏したという指摘も大変興味深い。行政・事業者・消費者(団体)の協働が相乗効果を発揮した典型的な事例なのだろう。
レジ袋の価格設定、収益金の使途、実施店舗数の浸透、マイバック持参率の急激な増加(24頁)など、「考察」で指摘しているように富山県民の意識の高さ、知事のリーダーシップといったボトムアップとトップダウンが見事に噛み合ったことが分かる。
国の2つの審議会と富山県の協議会との構成メンバーをめぐる比較考察もユニークだ。意見集約の一体性や共有性といった点で富山県は国の審議会を凌駕するパフォーマンスを発揮したのである。他の政策領域や地域主権をめぐる取り組みについても、この論文の示唆するところは大きい。
注文をつけるとすれば、関係者(スーパーな店長や買い物客なども含)への直接の聞き取り調査件数をもう少し増やせなかったのかということと、スーパーなどでの人々の実際のレジ袋あるいはマイバックの用い方の状況を描写し、テーマをめぐり現場から見て取れたこと、要するに「足でかせいだ」情報の記述があれば論文の迫力がもっと出ただろうし、奥行きがより深まったと思われる。
テーマを絞り込んだことで、また、なかなか見過ごされがちな教育政策領域に焦点を当てたことで、論文における展開や資料作成データの提示におけるオリジナル性が際立ったものとなった。本人によるタイ語担当の実践も明確な問題意識の提示につながったのだろう。
地域社会は「郷に入っては郷に従え」の世界でもある。その隘路を切り開く熱い姿勢が終始一貫しているのが良い。公立高校の入試要項を読み込む作業を通じて自ら資料作成に取り組んでいることも高く評価できる。だからこそ、滞在年数制限にばらつきがある点を鋭く指摘することができたのだ。
ただし、注文もある。たとえば特別措置一つを取っても、問題を作成し、受験者との連絡や受験環境を設定しなければならない受け入れ側にかなりの労力が要求されることも事実であろう。このあたりの事情について、インタビュなど現地調査を行えば、また、受験者本人への聞き取りを行うなどすれば、読了して凹凸感がないというか、やや平面的な印象を受ける本論文に深みと奥行きを与えることができたのではないだろうか。
また、個々の課題の指摘は確かにその通りなのだが、この領域での文科省の対応が機能不全となっているなかで、ばらつきはあるものの、日本の高校教育行政は相当頑張っているのではないかとも思った。競争倍率の点では「恵まれている」外国人生徒やその親が受け身でなく能動的に関わるための工夫は打ち出せないのであろうか。
果たして教員としては、外国人生徒の母語に対応するために力を注げばいいのが、外国人生徒の日本語能力向上に力を注げばいいのか。両者のバランスをどのようにとればいいのであろうか。さらに「代表的官僚制」という言葉があるが、日本人生徒と比べた場合にそもそも本質的な意味での入学をめぐる平等や公正とはどのような状況をいうのであろうか。
ぜひ本テーマの追求で示した課題探求力を今後とも維持し発展させてほしい。
最初から最後まで大変興味深く読んだ。というのは、私事で恐縮だが、県内基礎自治体での行政審議会等の活動に携わっている者として、これまでこの種の研究に積極的にアプローチしたことが一度もなかったからである。市町村合併協議の際など、当該地域のいわば「縦」の「歴史軸」に関する知識や理解が本来は不可欠であるにもかかわらず、やり切れなかったのである。その意味でもこの卒論は、私にとっての地域理解のスタンスに貴重な一石を投じてくれるものであった。
終始一貫、抑制を効かせながらたんたんと戦後開拓の経緯が綴られている。だからいって、概説書を読むような退屈さは微塵もない。それは、論文の内容そのものの資料的価値が高いからであるし、開拓をめぐる国策との実施の間の歪み、さらには生き証人ともいえる貴重な人材に丁寧な聞き取りを行っているからである。何よりも今日に至るまでまさに「未開拓」であった本テーマを自ら「開拓」・解明しようとする情熱・意欲に溢れているからであろう。
「新規入植者」「地元造反者」「国有地の譲渡払下げ」「民有地の買収(未墾地買収)」(いずれも4頁)などの内容を理解するための基本キーワードを提示してくれているのが読み手には大変ありがたかった。終戦前後の食糧事情の急激な悪化(6頁)、さらには旧軍用地との関わり(10頁)についても同様である。読み進めていくうちに当時の混乱状況が目に浮かぶようであった。
図表を要所で盛り込んでいて理解の手助けとなる。栃木県の一次資料を丁寧に読み込んでいることが分かる。那須地域における乳牛導入など栃木県の特徴をめぐる背景が国策との絡みで良く分かる。聞き取りも貴重である。詩の紹介(24頁)にしても読み手に対して違和感を全く抱かせない。軍用地特有の土地の固さ(「軍靴に踏み固められた不毛の地」29頁という表現が印象的)などに苦闘する開拓者の姿が目に浮かぶかのようである。宝木開拓之碑の写真掲載(28-29頁)にしても、これによって読み手に戦後開拓が現在とつながっていることを喚起する効果を生み出している。
ただ、残念な点もある。終章がこれまで書いてきたことの整理で終わったことである。これだけ丁寧に一次資料や人材に当たり、内容のオリジナル性は折り紙つきなのであるから、もっと執筆者が考えるところの「その時代を象徴しているかのような変化」の中身について、もう1-2ページ分を書き下ろしてほしかった。
県の北部・中部・南部地域によって、基地の受け止め方が異なるという指摘(「温度差」3頁と表現)には、「県民」といった際の県民とは何なのかを改めて考えさせられた。日米地位協定をめぐる議論の変遷など丁寧にまとめられており、読み手にとってはありがたい。
引用であるものの、「二重構造的仕組み」(5頁)といった表現もなるほどと思わされた。また、たとえば騒音実態をめぐり「想像だけでは共感しずらい問題」(11頁)、「燃える井戸」(14頁)、「沈黙したら終わり」(15頁)など、本テーマをめぐる波及課題の複雑さと深刻さが伝わってくる。一方で、基地従業員をめぐる基本的な数字データ(14頁)や国策としてのアメ政策の母体である「懇談会」への言及など、通読によって基本論点については漏らさず把握できる。
しかし、残念ながら経過説明に重点を置いた「入門編」に過ぎないのではないかという思いもした。たとえば「ロードマップ」(7頁)についてなど、中身や実施に移行する上での日米双方の課題など、英文にも当たって、もっと深く言及してもよかったのではないだろうか。「協議会」(19頁)についても同様である。聞き取り調査や現地調査はできなかったのか。ハコモノは「住民の基地被害の犠牲があってこそ」「住民の生活が守られる基地行政」「基地経済からの脱却の道」(いずれも24頁)というからには、これらの指摘の具体的な解決策を自分なりに何とか提示してほしかった。
(あと総ページの3分の2以上がページをめくるたびにぱらぱらとはずれてしまい、読みにくかった。「たかが形式、されど形式」であり、本テーマに「きっちりと」向き合うためにも今後は「きっちりと」紙を綴じてほしい。)