阿部智英 修士論文「日本における『科学技術信仰』の問題―つくばにおける研究学園都市と万博をとおして―」を読んで
中村祐司(副査担当)
2005年2月14日(月)
非常に丹念に多くの文献に当たった上で、終始一貫して科学技術信仰批判を展開している。インタビュの成果も出ている。科学技術は国家機能そのものという見方もでき、とくに1960年代以降の日本の国家戦略史が興味深く描かれている力作である。
焦点は科学技術についての世論調査、筑波研究学園都市、つくば万博、科学技術基本法・基本計画の四つに当てられる(副題には4つのキーワードを並べるべきではないか)。「科学技術は国家の維持や発展にとって必要不可欠」というイデオロギーを問題視する。
「科学技術信仰」を、「政府や産業界が科学技術に直接かかわることのない一般の人々に対して科学技術への信仰を植えつけてきた過程」(2頁) 、「あらゆる問題を科学技術で解決できる、または科学技術でなければ人々の生活は成り立ちえないという思想」(4頁)と定義する。修論全体としては科学技術政策史に焦点を当てた研究となっている。
「民主主義科学者会議」や「日本科学技術連盟」は政治色のない、「独自に民主化を目指していた」(9頁)組織なのか。そもそも「日本の科学技術の民主化」とは何を言うのであろうか。統治のためのツールとして科学技術を捉えた場合、戦前と戦後は断絶していたのではなく連続していたのではないか。戦争に勝利するという目標が戦後は経済成長という目標に置き換わって動員体制がとられたのではないだろうか。
科学技術に絡む関連用語、例えば科学技術と政治、科学技術と産業、科学技術と経済、さらには市場やナショナリズムとの連結性も含め、概念的に整理しておけばより論点が明確になったかもしれない。
「50年代後半からの日本の科学技術からは、科学技術庁と原子力計画の発足を期に民主的なプロセスが排除され、また国民所得倍増計画によっていっそうの体制化が促進された」(13頁)とあるが、ここで言う「民主的なプロセス」と「体制化」(その後もこの語は頻繁に出てくる)は具体的にどのようなことを指すのかがはっきりしない。また、1968年当時、内閣提出法案である科学技術基本法になぜ科学者らは強く反対したのか。
「反科学論」「技術害悪論」の説明を詳しくしてほしい。
そもそも科学技術信仰をターゲットとする場合、これを総体的に見るのではなく対象を医療、福祉、建設、教育、環境、農業などといったように分割・個別化する必要があるのではないか。その際、環境測定機器そのものが科学技術の賜物である点など、科学と環境を相互依存的な関係として捉えなければいけない側面もあるのではないか。
日本科学者会議についての言及がもっとあってもよかった。
「学生運動に関する世論調査」(1968年)を例に挙げ、「日本の世論調査のはじまりには、体制の即応的な問題解決能力を超えた問題が起きてきたことに由来している」(22頁)という指摘は興味深い。
「科学技術が国家にとって不可欠というこうした思想は「科学技術立国論」とまったく同じもの」(23頁)とあるが、そもそも科学技術を不可欠としない国家というのは存在するのであろうか。先進諸国に限らず、地球上において科学技術なるものは既に相当に浸透していると見なせるのではないか。
科学技術を国策として推進していく政策の基本的スタンスは日本に限ったことであるのか。世論調査にしても諸外国の設問状況はどのようになっているのか。また、世論調査に関する操作性は何も科学技術領域に限ったことではないと思われる。
何度も繰り返される「体制」「体制化」についての詳しい用語説明が必要ではないか。
「万国博覧会はその出自から政治的・イデオロギー的な性格を帯びており、とくに国家の産業・工業と深く結びついてきた」(38頁)など、興味深い指摘が続く。しかし、例えば、万博についての批判的評価を特定の論者(吉見氏)に全面的に依存しているように思われるのが気になる。
大阪万博とつくば科学博とは時代における位置付けだけでなく、国家戦略とそのインパクトという点でも前者の比重の方が高いのではないか。また、細かい点だが、72年の沖縄海洋博は一般に成功したと見なされているのか。
修論作成者は、根本的につくば科学万博のような催しもの自体を開催すべきでないとまで考えているのだろうか。修論作成者が理想とするあるべき科学万博というのは何なのであろうか。
「広告代理店の大規模介入は産業が体制化された証左として捉えることができよう。そして、コンピューター、スライド式観覧システム、映像などすべて観客の能動性を排除し、体制あるいは企業側にとってもっとも効率的に観客を動かす手段として機能するだけでなく、そうした『小宇宙』に観客を閉じ込めることでより効果的に『科学技術信仰』を植えつける手段としても機能したと考えられるのである」(50頁)と指摘されている。現象の一断面だけをことさら強調し過ぎていないか。この文章で言われていることは、ショッピングモール、観光地、地方や都市のレジャー施設、エンターテイメント施設、ひいては消費行動など日常の生活環境に多かれ少なかれすべて当てはまることではないだろうか。科学技術と市場との関係が分析されなけれならない。
そもそも「体制側」というのは一枚岩ではない。そこでの意思決定の過程ではメディアを含めた多様なアクターが交錯し合っているし、単純で単一の構造体でもない。「体制側」の構造を分解してその構成要素のいくつかについて各論的に分析しなければ説得力がない。
要するに科学技術領域に限らず、社会科学の研究である限りどの領域を取り扱おうと「体制化」は自明の前提であり、これを出発的に論を展開しなければいけない。また、「体制」という言葉が修論作成者によってあまりにも都合良く用いられ過ぎてはいないか。
果たして科学技術の体制化は「体制側」の意図した方向にうまく進んでいるのか
科学技術は「国家の維持・発展のために必要不可欠なもの」ではないのか。国家の手中に収まらない科学・技術というものがそもそもあるのか。
「『科学技術信仰』をこえるために提唱できるのは、オルタナティブな思想に見られる『科学技術信仰』への批判的なまなざしの形成と、そのまなざしをもった市民による科学技術の政策決定過程への介入」(64頁)とあるが、この点こそ事例も含めて詳細に深く論じるべきではなかったか。