2004年度副査担当の国際学部卒業論文(10本)を読んで
中村祐司(05年2月10日)
西山幸成「タレントCMの歴史的経緯と分析」を読んで
選挙でタレントを候補者にかつぎ上げる戦略が一定の効果を示している政治の状況と類似していて、興味深く読んだ。批判的な立場からテーマをタレントCMに絞ったことで、論旨がぼやけないですんだ。参考資料にも終始意欲的に取り組んでいて、卒論作成者の強烈な問題意識に読み手は引き付けられるように読了した。
「はじめに」の内容が「はしがき」になってしまっているのが残念だ。ここでは論文全体の構成を含めて説明すべきである。「日本のCMの歴史を振り返り、さらに文化的背景にも着目してこれからの日本のCMの展望を示すものとする」だけでは寂しい。
タレントCMについて「製作者側の思考の停止」とあるが、視聴者側の思考停止状態にも言及してほしかった。また、仮に日本における「質の悪いCM」の蔓延状態が「質の高いCM」(タレントが露出しないCM)に転換したとしても、それで広告代理店の独占などCMをめぐる問題状況が一気に解決するとは思われない。
消費者がある商品を購入した理由としてCMの影響を挙げる人がどのくらいいたのかを示すアンケート調査は存在しないのであろうか。
CMは「映像作品」なのか「販売促進用ツール」なのかという視点は興味深い。前者の要素を否定しないとしても、あくまでも軸足は後者に置かれているのではないか。1本のCMがどのような過程で関係者間の調整を経て作られていくのかといったCM製作過程を事例的に描き出す章があってもよかった。
論文構成について、矢継早に小項目が出てくるが、それらが卒論作成者の問題意識とどうリンクしているのかについての説明をポイント毎に盛り込んでほしかった。
「根本的なCMのありかたや、企業と消費者の関係、そしてクリエイティブの製作努力からの逃避と広告業界の構造改革がなされない限り」とあるが、卒論作成者自らその中身について具体的な処方箋を描いてほしかった。
イメージ重視のタレントに追随する集団思考的行動か、「言葉をベースとした表現方法を駆使して意思を相手に伝えようとする」独立思考的行動かに分類し、前者に対する批判を後半はますます強めている。
しかし、一方で、一つの市場領域というか職業領域としてタレント業が成り立っていることも事実である。一人のタレントによって何人が食べているのであろうか。タレントそのものは単純・シンボリックな存在に過ぎないかもしれないが、これを支える背景にはこの領域でたとえ金儲けへの奔走であっても、知恵を絞って生きる多くの人々がいるのであり、業界内格差も凄まじいものがあるに違いない。タレントCM批判を展開するならば、ここに焦点を当ててほしい。例えば、「広告代理店の独占市場」の状況を、下請け的な広告会社の存在、CMに関わる○○連盟や○○組織との相互依存連関も含めて把握しておかなければ、文化論、心理学的側面からのタレントCM批判のみでは「暖簾に腕押し」で終わってしまう感じがする。
岩井俊宗「国際協力NGOの政策提言活動」を読んで
テーマに関わる文献を意欲的に収集し、データを丹念に拾い上げ、緊張の糸を切らすことなく実に根気よく分析している。とくに表2−7の「政策提言型と国際協力NGO全体の比較」などは、オリジナルな労作である。確かに数字から見えてくるものは客観性があるし、独り善がりにならない説得力がある。
それ以外にも「プロジェクトへの助成は多いが、組織の運営費への助成は極めて限られている」といった、なるほどと思わせる指摘がいくつもある。ただし、政策の問題を現実社会へどう働きかけるかについては、学者であろうとシンクタンクの研究者であろうと、結局は本人の考え方次第だとは思うが。
それはともかく、この卒論は本来ならば全5章ぐらいの構成であってほしかった。3章までのデータ検証を踏まえた上で、ぜひ事例研究に入ってほしかった。読了して、丹念な事前準備研究で終わってしまったようで、とても残念な気がした。例えば、貴重なボランティア経験を生かして、国際協力NGOの一つに直接アクセスして、中に入り込んでスタッフにインタビュなり、可能であればインターンシップのような経験はできなかったであろうか。実証研究としての組織の比較考察を加えられなかったであろうか。
2章3節「政策提言型NGOの事業内容」から明らかになったことは何なのか。3章の最初の箇条書きとその後の説明を読んでも、主要形態とサブ形態との関連を追及することで何が見えてきたのか、そのコアとなる部分がどうもはっきりしない。国際協力NGOをめぐる表層的なデータの枠内での政策提言型NGOの位置づけという限界があるからであろうか。結局は、政策のライフサイクルを視野に入れた組織のマネジメント戦略が求められるということであろうか。
「情報提供」「NGO間ネットワーク」「地球市民教育」「調査研究」など、各々の中身は各団体によって千差万別であろうし、論文でも述べているように明確に分けること自体が難しい。「分類学」に向き合う際には、分類する際の判断基準をもっと疑ってかかることも必要であろう。
和賀奈穂子「観光振興によるまちづくりの可能性―秋田県横手市を事例として―」を読んで
「地域が主体となった観光振興」を追及しようとする真摯な思いが論文全体を貫いている。「生活のための所得が得られてこそ、その地域に人が住み続けることができる」し、「生活者満足度」が大切だという考えを前提としつつ、「官・民協働」による「内発的発展の具体策」を提示しようとしている。
得てして多くの卒論は、総論については数行程度で、いきなり対象とした地域の記述から始まる場合が多いのであるが、この論文では全国総合開発計画の流れと横手市の全体像についてしっかりとまとめられている。ただし、2章は量的に多過ぎた。丁寧かつ精緻に行政資料を整理・把握してはいるものの、あくまでも3章がコアとなるのだから、例えば、若手行政職員の生の声を掲載するなど、この部分をもう少ししつこくというか、ふくらませてもよかったのではないか。また、編入合併がテーマとどのように関わり、今後のどうような影響が予想されるかについて、詳しく言及してほしかった。
TMO構想事業については既に考えられる方策は出し尽くしされたかのようでもある。
読んでいて観光政策というのはとてつもなく広い枠組みを持っているのではないかと思った。やはり、観光のどの側面を研究の対象とするかが大切なのであろう。例えば、「未来型観光研究会」の活動に焦点を絞ればさらに興味深い記述ができたのではないか。
「通年観光」を具体的に行っていくとなると、財源や住民、商業セクターとの協力面でも多くの課題がある。果たしてホスピタリティやPRの拡充ですべて解決できるのであろうか。
「秋田ふるさと村」等、地元の観光資源に精力的に足を運んだことの意義は大きい。現場に問題解決の素材が多く提供されているからである。6つの評価項目も敢えてシンプルに設定したことで記述の説得力が増した。
「各観光施設とは対照的な、無形なもの、つまり横手市独自の文化や地域性」に注目し、これを掘り下げてもっと検討してほしかった。ある意味で「横手学」なるものを追求・発掘することが地域特有の資源を再認識し、住民と共有することにつながるのであろう。「資源の集中型」、宿泊観光客の減少、「時期の集中型」は多くの観光地が抱える課題でもあろう。敢えて車による利便性を抑制して、自転車や徒歩で回るコースに観光スポットの軸足を移す手もあるのではないか。
やはりまずは自分たちの住む地域に誇りと愛着を住民自らが持てるかどうかが大切なのであろう。しゃにむに観光客の呼び込みに突き進むのではなく、産業や市場、雇用の地域内循環に支えられた社会を構築できれば、敢えて観光客には期待しないという選択肢が出てくるのではと考えるのは机上の空論であろうか。
高橋健太「仙台市におけるヒートアイランド現象と同市の対応」を読んで
「都市大気の熱汚染現象」であるヒートアイランド現象の原因や地球温暖化現象との相違など、丁寧に説明されている。文献や行政資料を丁寧に根気よく読み解き、間延びしない形で要領よくまとめているし、インタビュ先での関係者との出会いも貴重な経験となったであろう。未開拓な政策領域に関する資料提示がなされたという点でも意味がある。
しかし、どの学問領域に属する論文なのであろうか。敢えていえば「都市生態学」とでもいえようか。
ヒートアイランド対策には「複数の省庁が関係する」のであれば、これについて(後で少し言及はあるものの)、関係省庁各々の政策スタンスも含め全体の見取り図を提示してほしかった。また、国の対策が自治体のそれとどのように関係しているのかなどについても記述してほしかった。保水性舗装や屋上緑化を卒論作成者が実際に見てくることも必要ではなかったか。
読んでいて、仙台市を取り扱ったことを否定するつもりはないが、深刻な状況にある東京にぜひ注目してほしかった。環境省や都庁、区役所に出向けばインタビュ先の反応も仙台とは違ったものが得られたのではないだろうか。そうすればもっと多くのボランタリーセクターの活動に直に触れることができたかもしれない。
仙台市の施策が「結果としてヒートアイランド対策となっているという」点が卒論作成者のアプローチを難しくしている最大の要因であろう。その結果、技術論分野オンリーと思わせるほど、社会科学的な視点が抜け落ちてしまった。
技術政策論の枠外に注目し、例えば、対策の財源調達をめぐる課題や議会の理解不足、住民の反応の鈍さ、さらには商業セクター参入の余地などについて考察してほしかった。「温暖化対策の一本化」がなぜ進まないのか。仙台市の環境政策に内在するであろう組織的な課題に触れることもできたはずである。
ちなみにプロ野球界もJリーグに引っ張られる形で今後は球場から排出される廃棄物の分別収集やリサイクルといった環境問題に配慮せざるを得なくなるものと思われる。ヒートアイランド現象をめぐる市民の関心の喚起を、プロ野球の本拠地となったことを逆手にとって周知させるような具体策を提示すれば興味深かったであろう。
齋藤慎一「2002年ワールドカップで使用されたスタジアムの現状と今後」を読んで
全体的に非常に読みやすいし、当たった資料をよく咀嚼した上で自分の文章を積み上げている点がいい。ポイントはスタジアムの管理・運営上の工夫を取り扱った4章か。
「日本と韓国の招致合戦は、FIFA内部の権力争いの代理戦争」と位置づけ、その後、国内の開催地自治体の決定に至るまでの経緯をうまくまとめている。大会終了後、開催地自治体の首長が「成果は上げられた」とするのは、答えに他の選択肢がないからだと思われるが、それはともかく、「一校一国運動」などの地元の取り組み事例が示される。驚くべきことにスタジアムによっては年間の光熱水費、芝生管理費などを非公開にしている。指摘されているように天然芝では年間70日前後の使用が限度というのも運営を苦しくする主要因である。
残念なのはスタジアムを拠点とするイベントを総覧的にまとめているだけで、興味深い事例を深く掘り下げて検討していない点である。「施設の命名権」販売なども興味深い。ただし、開催獲得合戦の熱狂の中で大会終了後のスタジアム運営の構想に韓国と日本との間で優劣があったかどうかについては、もっと慎重な検証が必要であろう。
「自治体が主体となって運営しているスタジアムよりも民間が主体となっているほうがフットワークが軽い」「ワールドカップ後はそれぞれのスタジアムがあらゆるイベントを取り合うライバルとなる」といった運営問題の本質を突く指摘が散見されている。スタジアムの「ユニークさ」を具体的に提言できればよかった。FIFAの規定を取り払って人口芝の利用はできないのか。赤字のたれ流しは許されるものではないものの、採算性だけでなく、公共財としてのスタジアムの価値を追求していく別の理念や価値観、方策もあるように思われる。
全体的に記述がスマート・表層的過ぎて「現状と課題、将来へ向けた必要性の整理」に終わってしまった。次のステップに進むには、実際の運営に何らかの形で関わり、組織や関係者、住民との交錯の中で苦悩しながら具体策を模索する以外にないのかもしれない。
森三奈「ドイツの都市計画と建設法典―首都ベルリンを中心に―」を読んで
「先端的」であるドイツの都市計画は「連邦、州、市町村それぞれが行政レベルの政策分担を行ない、体系的な都市計画を実現している」という点に、とくに興味を持って読み始めた。まず、都市計画の基本法ともいえる「連邦建設法」と「建設法典」に注目している。市町村主導の開発を促す「都市建設促進法」やその後の「保全的都市更新」の考え方が紹介される。「建設法典」の登場が、都市計画をめぐる分権化をもたらした事情についても説明される。90年代初頭の東西ドイツ統一が旧東ドイツの都市計画に大転換をもたらした点など大変興味深い。
読み進めると、ドイツでは計画策定の調整役としての連邦政府のもとで、市町村(郡と特別市)が主導していることが分かる。「地区詳細計画」や「早期の市民参加」、さらにはルール工業地帯の再開発に見られる「地域の土地利用の混合化」のしくみなど、中央政府主導(であった?)日本の都市計画の現状との違いに目が覚まされる思いがする。しかし例えば、都市計画をめぐり活発に行動している市民団体を一つでも取り上げ、その活動内容や政策スタンスについてもやや詳しく言及してほしかった。
全体的に関係法令の内容の説明に力点が置かれている。ドイツ語の原文を精力的に日本語に訳していくという勢いが感じられる。卒論作成者自身が、「建設法典のみでは都市計画上の再開発に関して全てを行なうことは不可能」と認めているように、法令が実際の都市計画策定過程で、法令だけでは対応し切れない事態に直面した場合、関係機関の裁量の範囲でどのような対応がなされているのか知りたかった。
「グローバル化とローカル化へのバランスある対応」のもとでなされているドイツの都市計画を他国の大都市は模範とすべきであるかもしれない。
残念だったのは、ドイツ語の法令を自力で訳している箇所以外の記述のほとんどは、評価の部分も含め、関連文献の枠組みに依拠しているようにも思われた点である。評価の対象とする素材そのものを自ら発掘し、これにもとづき知見を導き出す時に見られるような迫力には乏しかった。いずれにせよ、ぜひこの卒論をステップに、今後は「総合的都市問題」と「都市の将来のあり方」の研究に取り組んでほしい。
伊藤晴代「『ワーク・ライフ・バランス』を考える~オランダ・モデルを事例に~」を読んで
関連文献を丁寧に読み込んで正確に内容を把握していることが読み手に伝わってくる。その姿勢は最後まで貫かれていて、論文全体を引き締めている。ワークシェアリングの先端を行くオランダを取り上げたことで、若者・中高年の間で雇用問題が深刻化している日本との対照性が浮き彫りなった。日本における大企業の取り組み事例も興味深い。人間を組織の歯車としてではなく、尊厳のある存在として取り扱うワークシェアリングは、理念レベルでは先進諸国におけるグローバルなうねりとなっているようである。
しかし、日本では企業の存続そのものが非常に不安定な時代になっている中で、現実問題として例えば、中小企業において「ワーク・ライフ・バランス」を貫徹することが可能なのであろうか。また、実践しているところはあっても、実際の運用面での課題は山積しているはずであり、そのあたりのところを検討してほしかった。
また、厚生労働省の政策を紹介しているが、この種のものはどうも言葉が踊っている感じを受ける。例えば「『多様就業型ワークシェアリング』に社会全体で取り組む」とあるが、それ以上の言及がない。本来ならばこれを実現するために具体的にどのような施策が実施されているかなど、政策の実施段階まで踏み込んで追う必要があろう。要するに全体的に文献のまとめないしは整理の粋を出ていない。卒論作成者のオリジナルな視点にもとづいた意見がほとんど展開されていない。
オランダで実施された「労働疾病休暇保険制度」の民営化や労働時間差差別禁止を定めた法律についても、もう少し掘り下げた説明がほしかった。
オランダにおける改革がもたらした波及課題は何であったのか。出生率や離婚率、核家族化、仕事の習熟度、就業意識などの変容に影響を及ぼしたのだろうか。また、パートタイム雇用により新たに生じた課題とは何か。男性に対する育児教室の充実など、政府サービスのソフト面での支援はあるのだろうか。
また、オランダ人の仕事の好みというか、労働分野別の仕事の棲み分けないしは分担も問題なくできているのであろうか。ある特定の職業分野をめぐる競合状況や、パートタイム労働を嫌う労働者のやる気を失わせている側面はあるのだろうか。余暇環境の充実度はどうなっているのか、などといった疑問が湧く。職種によって様々であろうが、本来、仕事というのは時間の切り売りだけでは計れない性質もあるのではないだろうか。日本においてワークシェアリングの導入がどうも当初の期待よりはうまくいっていないといわれているが、その原因はどこにあるのだろうか。
オランダ政府が発信する一次情報(報告書など)にインターネット等で直接アプローチする方法もあったのではないか。
松岡真希「在日ブラジル人の子どもたち―その教育環境と課題―」を読んで
目次や序章からも窺われる視点の多様性という点でも、そして自ら現場に足を運び文献のみからは見出されない現実の課題を発見し得たという点でも、価値のある卒論となっている。多くの文献に丁寧に目を通しているし、引用にしても無駄や間延びが全くといっていいほどない。
在日ブラジル人の置かれた教育環境の変容状況がよく分かる。日本語の日常会話には不自由することはないのに授業についていけないのが多数派であるという指摘、さらにはその原因などが「言語習得学」ともいうべき視点からも記されていて興味深い。
日本においてブラジル人学校に通わせるか公立学校に通わせるか、両者の狭間(例えば、母語の喪失は回避したいものの、就業を考えると日本語をぜひ習得してほしいという考えなど)で悩む親の姿も浮き彫りになる。
実際に県内のブラジル人学校に足を運んだことの意義は大きい。その意欲は生徒一人一人にまで及んだ。人間にとって語学の習得は並大抵ではないことが伝わってくる。中学校で日本語教室を担当している教員へのインタビュでは、中学から来日する子どもの場合、「母語において学習思考言語が確立され、それを日本語に変換することができる」という重要な指摘を引き出している。「母語能力の破壊によって認知能力に支障をきたしてしまう」というのは指摘にもドキリとさせられる鋭さがある。高校進学率が50%程度にとどまってしまう進路についても大変な難題である。一連の課題状況の中で、指導助手がキーパーソンであることが分かる。
卒論の作成過程で作成者の分析力が研ぎ澄まされたがゆえに、「ブラジル人学校の子どもたちも日本の住民として日本に住み続けることが予想される」「日本語をなかなか覚えられない親と、ポルトガル語を忘れてしまった子どもの間でコミュニケーションに支障をきたし、親子関係の変化まで余儀なくされる」「こんな身近なところに国境を越えた問題が在るのかと驚き」といった記述が出てきたのであろう。
やや意識変革の必要性の強調に流れてしまったのが惜しい。仮に制限のない特区制度が認められたとすれば、どのような制度設計を描くことができるのであろうか。教員(スタッフ)や財源、専門知識も含めた諸資源はどれだけ必要なのであろうか。こうした側面において具体的な制度設計に取り組んでもよかったのではないか。
高橋明弓「マイノリティに対する民族教育の保障―在日コリアンの問題を手がかりとして―」を読んで
「民族教育の権利の保障を検証」したいという出だしは良い。高校時代の経験にもとづく、問題意識の強烈さも伝わってくる。しかし、全体的にその意識が理念レベルに昇華し過ぎたのではないか。「第1章では、戦後の日本における在日コリアン社会とその中でも教育の歴史について考察した」とあるが、文献の著者の「考察」はあっても、卒論作成者の「考察」はいったいどこにあるのかと首を傾げてしまう。
2章にしても在日コリアンがマイノリティに属し、教育を受ける権利を保障されるという国際法上の理念を確認するためだけにこれだけの分量をとる意味があるのだろうか。しかもここには「民族教育」が国際的にどのように位置づけられているのかについての言及がなされていない。1章と2章を入れ替えた方がまだしも論の展開がスムーズなものとなったのではないか。
「総括所見」にしても、真正面から民族教育について論じているのは、社会権規約委員会ぐらいではないか。4章「民族教育の課題・展望」で読み手が知りたいのは、「(条約委員会の)勧告内容を一つ一つクリアしていく」その中身・具体的方策なのであって、「日本政府はその人権の国際水準を客観視し向上させるように努力しなければならない」といった抽象的な文言ではない。日本政府の対応が「恥ずべき事実」であることの背景・原因には何があるのか。国際法上の理念が国内・地域社会に貫徹している国があれば挙げてほしい。「新しい一歩を踏み出す」中身は何なのか。法改正案の私案や制度案を自ら提示してはどうか。マジョリティに対する民族教育のあり方はどうあるべきなのであろうか。
佐藤恵美「YOKOSO JAPAN 観光立国への道」を読んで
コンパクトにまとまっている。しかし、「観光立国行動計画」で掲げられる「一地域一観光」が現実にどのような課題に直面しているのかが知りたいところである。論文のコアとなる部分には批判精神が必要で、どうも政府による説明の焼き直しの域を出ていないように思われる。
細かい点だが、「旅行目的地世界上位国」に観光政策に力点を置くオーストラリアが入っていないのはなぜであろうか。
「インバウンド旅行小国」である日本が、「もっと積極的に日本ブランドを世界にPRしていく」ためにはどうすればいいのであろうか。一般論で終わらず、卒論作成者の独自の見解を提示してほしかった。国際観光振興機構(JNTO)による「訪日旅行促進事業」「受入対策事業」「調査研究事業および情報提供事業」は、果たして非の打ち所のないものなのか。歌い文句の範疇を越えた先に見出される課題は何か。
国、地方、JNTOの「事業を一体化させていくこと」がなぜできないのか。「一体化」を阻む要因についての考察が必要ではないか。
「栃木・南東北」という4県(栃木・福島・山形・宮城)の連携構想は魅力的だし、会津若松市の知恵を絞った取組み事例も興味深い。実際に足を運び、現地で得た資料を丹念にまとめた労が伝わってくる。さらに積極的にインタビュ行えば記述にもっと迫力が出たのではないか。
「地域住民の協力を得て、地域全体で観光地を盛り立てていかなければ、観光客はやってこない」というのはその通りであろう。しかしそのことが観光地間の観光客争奪戦をますます激しくしてしまう側面も否定できないであろう。外国人観光客のディズニーランド人気など目の当たりにすると、観光という分野でもやはり東京中心になっているのではとも思わされる。そこには「日本人の心構え」といった精神論では克服できない、やっかいで複雑な問題が横たわっているのではないだろうか。