副査担当の卒論に対するコメント 中村祐司
小林綾香「迷惑施設から有効施設への転換―渋谷清掃工場を題材として―」を読んで
現在、塩谷広域行政組合が関わるごみ処理施設立地についての調査研究に従事していることもあって、興味深く読ませてもらった。渋谷清掃工場の事例は、ゴミ処理施設立地の取組みを考える上で多くのヒントが散りばめられているとも感じた。
いきなり渋谷清掃工場の問題に入るのではなく、自分なりの視覚の枠組みを設定する章を設けたことにまず感心した。一般的に卒論における事例研究ではこの部分を短く済ませる学生が多い。それとは対照的に、視点を明確にした上で事例に取り組む姿勢を提示したことを評価したい。(例えば、8ページに「いつ・誰が・どのように地域住民に説明するか」が重要なポイントだと指摘しているが、塩谷広域の問題を考えるにあたって身につまされる思いすらする)。
ただし、だからこそ2章の記述は質量の面で、読む者がうんざりするぐらいの内容でもよかったのではないか。確かに町会、区役所、清掃工場の関係者への熱心な聞き取りのみならず、諸方面からの一次資料(「渋谷清掃工場だより」など)を丁寧に読み取り、十分に咀嚼した上で、技術的な説明についても簡潔にまとめ、いわゆる資料の単なる整理や「貼り付け」にはなっていない。
しかし、渋谷清掃工場をめぐっては例えば、地方議員、還元施設の利用者、見学会に参加した人々、建設計画を立案した当時の行政の担当者など、もう少し聞き取りの対象を広げるとか、地方新聞(東京新聞)の報道、関係者の生の発言などをもっと分量を割いて紹介してほしかったという思いがする。そのことにより3章の説得力がより一層増したのではないか。実質的には「4章」とみなされる「補注」(ちなみにここは「補論」としてほしかった)において焼却施設が抱える根本的な議論が展開されている。したがって、通読すると内容の軽重や説得力の点で、1章と4章の展開に2章と3章の事例研究が押されてしまい、どうしても物足りなさを感じてしまう。
そうはいっても反対同盟の内部分裂の様子や還元施設「リフレッシュ氷川」の紹介、さらには温室植物圏の創設計画や環境緑地化計画など、事例研究ならではの醍醐味が伝わってくる。「住民たちの間では、空き地で汚かった土地がきれいになって良かった、と喜ぶ声も上がっている。清掃工場の積極的な敷地内緑化で、殺風景だった地域に緑が増えたことも住民にとって嬉しいことだった」「有事の際には避難所となるよう、計画当時から施設の耐震構造を重視し、防災用の食料を常に備蓄している。また飲料水も100トン用意されていて、住民に安心感を与えている」(20頁)など、まさに有効施設としての実際の萌芽を見る思いがする。
また、3章でも「情報発信の不十分さが住民を不安にさせ、合意形成がなされなかったことは、行政の失敗であったと言ってよい」(25頁)「事業者(メーカー)と行政は一心同体というような関係は改めなければならない。行政は自らメーカーに情報の提示を求め、情報を検証し、不審な点を追求する第三者的立場に立つことが望まれる」(26頁)など、全国至るところで抱えているごみ処理問題に臨む指針ともいえる提示がなされている。
4章の問題意識となった、「迷惑施設を焼却施設に限定しつつ本論を進めていた自分に幾つかの疑問が生じ」(謝辞)という部分だが、読み手にとってみれば、小林さんが焼却施設そのものを循環型社会達成に向けた、将来的には消滅するかもしれない過渡期に存在する施設と割り切ったという受け止め方もできる。焼却施設に絞ったがゆえに卒論全体の論旨が明確になったのである。
なお、RDF絡みのごみ処理問題については、行政学研究室のゼミ生が、今年度初参加した政策フォーラムに提出した論文が、
http://gyosei.mine.utsunomiya-u.ac.jp/isfj/2002/reporttop.htm
に掲載されているのでぜひ参照してもらえれば幸いである。
(2003年1月21日)
久保田和歌子「イスラム世界における相互扶助について」を読んで
そもそも「イスラム世界」とは何を指すのか。
Microsoft
Encarta Encyclopedia 99には以下のように記述されている。
「世界のイスラム教徒の人口は10億人以上と推定されている。イスラム教は、気候、文化、民族のことなる多様な地域で繁栄した。イスラム教徒の共同体を構成する主要な人々は、アラブ人(北アフリカと中東)、アフリカの南サハラの人々(セネガルからソマリアまで)、トルコ人およびトルコ語圏の人々(トルコ、中央アジア)、イラン人(イラン)、アフガニスタン人(アフガニスタン)、インド人(パキスタン、インド、バングラデシュ)、東南アジアの人々(マレーシア、インドネシア、フィリピン)、そして中国人(中華人民共和国)のごく一部である」
要するにイスラム世界といっても実に多様なのである。しかもこうした世界の「相互補助・社会福祉」について見るという。読み進めていくとマスハラ=「公共の利益」「社会福祉」、アドル=「社会的・経済的な公正」、サダカ=「(自発的な)慈善行為」、ザカート=「施しに関する法」(宗教的な義務的行為)、ワクフ=「財産寄進」についての説明記述に終始している。章名は、第1章「マスラハとアドルについて」第2章「サダカ」第3章「ザカート」第4章「ワクフ」といった具合で、相対的に1章と2章が極端に短く、4章が極端に長い。章名から問題意識を窺うことはできない。
概念用語の説明のみで果たして「イスラム世界の相互扶助・社会福祉について見てきた」(おわりに)といえるのであろうか。
しかもどの時代を検討の対象としているかがはっきりしない。「おわりに」でどうやら「前近代」としているらしいことを推察できるが、これを「現代の日本における相互扶助・社会福祉と比較」するとしている。イスラム世界の「前近代」と日本の「現代」とを比較することが無意味だとは言い切れないであろうが、それは、イスラム世界の「前近代」の特質が現代イスラム世界においても引き継がれている事実を読み手に伝えてからの話しであろう。比較の対象となる日本における相互扶助・社会福祉についての記述もない。参考文献に書かれていた内容以外のオリジナリティーを見いだすことができず、大変残念である。
(2003年1月23日)
瀬戸谷佳恵「NPOによる情報発信と若者の関心―国際協力活動への参加促進を考える―」を読んで
NPOをめぐる情報の発信や個人レベルの受容に注目し、国のアンケート調査の結果を中心に、若年層のNPO活動に対する関心の喚起を探った内容となっている。
内容の重厚さを期待させる目次に引き込まれて読み進めたが、残念ながら疑問を抱えたまま読了した。
確かに、アンケート調査の結果から読み取れることを丁寧に整理しているし、文章はもちろん、注釈に至る細かいところまで、出典の明記や誤字回避に最大限目配りしていることが伝わってくる。図表のレイアウト、挿入カ所などにも細心の注意が払われている。
「NPO側による情報発信の内容は、個人側が求める情報内容と大きく異なっている」(21頁)という問題意識もこのテーマを考える上で重要であろう。
しかし、副題に「国際協力活動」とあるのに、3章まではNPO全般を取り扱っており、副題との関連性を見いだすことがほとんどできない。なぜ、最初から国際協力活動に関わるNPOを取り上げなかったのであろうか。しかも1章から3章までは1997年当時の経済企画庁委託調査や2000年度の内閣府委託調査等などを中心にしたアンケート結果の整理である。こうしたアンケート調査を否定するものではないが、やはり「薄く広く」ならざるを得ず、読む側としては、一見スマートな官製用語の羅列ばかりが目についてしまう。
政府系の委託調査をこれだけ多用し量として重要視する必要があるのだろうか。NPOと情報をめぐる全体像を把握するには貴重なデータではあると思うが、せめて1章分程度にして、3章まで引っ張る必要性があったとはとても思われない。実際、包括・網羅的なアンケート調査からだけではNPOの実像は見えてこないのではないか。読んでいて、アンケート調査や参考文献の内容を丁寧になぞっているだけではないかと受け取ってしまう。
解決の方向性にしても、例えば、「一般の新聞やTV・ラジオなどのマスコミに対するアピールや、インターネットを利用した積極的な情報発信など、それぞれの方法・媒体の特徴を生かして活用することが重要となり、それに伴う技術やノウハウの取得も必要となる」(23頁)とあるが、これを具体化するために何を行うべきか、どのような方策を打ち出すべきか、そのための手続きはどうなるべきかといった諸提案を、執筆者独自の考えにもとづき検討・展開してほしかった。
最初に「NPOは限られた人手や資金、技術やノウハウをその本来の事業に投入し、NPOからの情報発信は二の次とされている現状がある」(1頁)という問題提起をしているのだから、いくつかの事例を対象にして、個別具体的課題を掘り下げた方がよかったのではないか。
そもそも情報発信やその受容をめぐってはNPOも個人も試行錯誤を続け今日に至っているのであり、実際のところケースバイケースで追っていくしかないのではないか。また、多くのNPOは、NPOスタッフ間あるいは同じ活動分野に属するNPO間の情報共有を第一義的に考えているのではないだろうか。
4章でも、そもそも「潜在的関心」段階の層に対しNPOが積極的にアピールする必要があるとしているが、具体論への言及がない。また、NPOの中にはたとえ注目されなくても自らの目的を完遂し、自らが生きる喜び、社会に貢献する喜びを得るといったことを活動の柱にしているところもあるように思われる。
「国際協力NGOセンター」の事例は興味深く、例えば、このセンターについて聞き取り調査を行い、活動が抱える課題などについても言及してほしかった。地域通貨についても同様で、実際どのように国際協力NPOないしは国際協力活動に役立っているかについても記述してほしかった。「パソコン講習会やマネジメント研修などの機会を設けたり、インターミディアリによる情報発信支援やマネジメント支援」(32頁)とあるが、これを現実に進めていく方策の提示こそが求められるのではないだろうか。「若者の意見を積極的に取り入れ、若者を巻き込んだ形で、若年層に対する情報発信の方法を開発していくことも有効的である」(同)といっているが、これについても同様である。
(2003年1月23日)
佐藤理恵「『外国人代表者会議』―地方自治体の新しい取組み―」を読んで
テーマをここまで絞り込んだことが、卒論としての質の高さにつながったと思われる。「日本での『外国人代表者会議』」の実態やその会議の形態を調べ、『外国人代表者会議』の意義と課題を検討した」とあるように、その存在がまだ一般的には知られていない「会議」を対象とし、積極的な一次資料収集と関係者からの聞き取り、さらには「会議」の傍聴にもとづいてオリジナリティ溢れる論文を作成している。
序章で、在日外国人の参政権をめぐる最高裁判決(1995年)や永住資格保有外国人に地方選挙を認める法案(1999年)の取り扱いなどをコンパクトにまとめ、抽象的な権利論は最小限にして、1章からは全都道府県への問い合わせを皮切りに、一貫して自分が作成した資料にもとづいた展開がなされている。
「外国籍県民かながわ会議」「川崎市外国人市民代表者会議」「外国人も暮らしやすい地域づくりアドバイザー会議」(栃木県)を取り扱うが、前2者の活動が既に成果を出していることと、ここから派生する疑問や諸課題が順次紹介されることもあって、興味の尽きない内容構成となっている。
資料で分からなかったところをそのままにしておくのでなく、実際に聞き取りを試みて理解を確実にしようとする姿勢もいい。だからこそ委員応募用紙にまで関心が至ることになる(ちなみにこの応募用紙を資料として掲載してほしかった)。
神奈川県や川崎市において、会議の構成面で国籍をバランスよく反映させるために工夫がなされていることや、委員には「特定の国や民族の利益を代表するものではなく」(14頁)他の外国籍市民を視野に入れた意見を求めていることなど、「外国籍市民」のみならず、今後の「日本籍市民」の政策参加を考える上でのヒントが示されているように思われた。
「会議」から出された意見が実際の行政施策に反映されている点も興味深い。ただ、実際の運営ははあくまでも行政の事務局ベースで進められているのではないかとも推察され、「外国人市民」による自律的な会議運営が果たして可能なのかといった点にも言及してほしかった。
それはともかく、第3章第4節(19頁)での比較の記述も、執筆者が自力で発掘した資料からの考察であるがゆえに 読み手を引き付ける指摘が随所に出てくる。「外国人都民会議」事業が終了した理由についても、執筆者の質問が明確であるがゆえに、担当の行政職員も真正面目から回答せざるを得ない。要するに論文の展開が最初から最後まで間延びしていないのである。
注文を付けたい点もある。「会議」の成果に至るまでよくフォローはしているのだが、例えば、「かながわ外国人すまいサポートセンター」(22頁)の活動内容や当センターが抱える課題などについて生の声をぜひ聞いてほしかった。川崎市の「日本語教室ネットワーク会議」などについても同様である。
また、「『外国人代表者会議』では様々な委員・代表者から構成されるので、様々な意見が出たり、多くの問題や現状が明らかになる」(25頁)とあり、印鑑登録制度の県内市町村での統一の請求(27頁)など、その具体的内容についても言及はしているものの、「会議」の改善点と対案について、自分なりに具体的に提案してもよかったのではないか。
さらに、第4章第4節で「各市町村は独立している」から、県と市町村との縦の連携が必要だとしているが、県→市町村の上位下達式の側面のみではなく、市町村間や市町村から県の方向への連携、さらには例えば、中小規模の市における「会議」の在り方などにも対案を提示してほしかった。
(2003年1月24日)
吉野倫子「外国人研修生の女性化」を読んで
外国人研修生・技能実習生を見据える問題意識の軸がしっかりしている。そのために関連のデータや諸事例に振り回されることなく、筋の通った説得力ある展開が続く。
国際研修協力機構(JITCO)のデータから、女性(その多くは中国から)の場合、日本において若年労働力が不足している衣服・繊維、食品製造業分野で「中小企業の団体管理型により低賃金労働力として活用されている傾向が強い」(15頁)ことを指摘する。
受入れ機関2団体(宮城県石巻市における商工会議所と東京中小企業海外業務開発促進協同組合宮城県支部)と受入れ企業1社(水産加工会社)にインタビュを行っている。来日(中国山東省から中海協)までのルート(とくに選考の過程)を追った記述など、大変興味深い。欲を言えば、学科研修や実務研修、レクリエーションや行事のどれか一つでも実際の活動現場に足を踏み入れることができれば新たな発見があったかもしれない。
それはともかく、研修生・技能実習生(とくに後者)の失踪の増加や、「目に見える費用」(研修手当てや受入れ機関への委託金など)と「目に見えない費用」(宿舎設置や備品の費用など)の存在などの指摘に読む側は引き付けられる。
研修生へのインタビュも貴重である。ここで中国における派遣会社を通じた厳しい選考試験や重い経済的負担が具体的に明らかになる。「本来の技術移転という目的が達成していない」(33頁)という指摘もこうした丁寧な取材から見出される。中国の弟や妹を高校に進学させるための資金確保を目的にやってきた研修生の実像も浮かび上がる。同時に、帰国後は日本への留学を目指すようになった事例も紹介される。
そして、研修生事業が技術移転という本来の目的を達成していはいないものの、「再び留学という形で来日することを決意させているという事実」(36頁)にも注目し、「中国と日本の相互理解や異文化理解に繋がる」(同)という期待を提示している。その他、「外国人研修制度の目的や理念との大きなずれ」(39頁)を見抜き、「研修生事業が一種の派遣事業のようなビジネスになっている」(同)と憂慮する。いずれも執筆者が現場に足を運んだからこそ引き出すことのできた知見である。
執筆者は「意外な副産物」と表現しているが、もしかすると国際交流や異文化理解というのは異国における摩擦の中から生まれるものなのかもしれない。「さあやりましょう」といってできるほど生易しいものではないのかもしれない。異文化理解というのは異国の生活習慣や言葉の壁に直面して挫折や不満を重ねながら、唯一自分の経験を糧に初めて体得できるものなのかもしれない。
通読して、「両親からの仕送りや奨学金をもらい大学に通っている自分の環境と家族のために来日して働いている彼女達との環境とのギャップへの驚き」(あとがき)がまさにこの論文の原動力であることがよく分かった。
題目について、これでは論文の内容が推察できないのが残念であった。また、茂木町の事例をもう少し膨らませることができなかっただろうか。あるいは、劣悪な宿泊施設や労働環境に置かれてしまっている他地域の事例を、可能な範囲で探ってもよかったのではないか。
(2003年1月27日)
関谷恵梨子「核兵器の先制不使用と全面使用禁止への可能性」を読んで
論文の目的は、「核兵器の先制不使用政策」を中心に核兵器の全面使用禁止の可能性を探るというものである。核の抑制・廃絶に関わる条約や共同宣言、勧告、方策などが紹介されている。例えば、「核兵器取得の可能性を放棄した非核兵器国に対して、自ら核攻撃の脅威を与えることはしないという核兵器国の誓約」である「消極的安全保障」や、「核兵器国が核軍縮に向けて誠実に交渉を継続することを義務付けている」核不拡散条約(NPT)第6条などが提示され、核問題領域における知識の取得という面では勉強になることは確かである。
しかし、例えば、NPTについて、「2000年の第6回会議では、第6条、および第5回会議で採択された『核不拡散と核軍縮の原則と目標』における『核軍縮に向けた努力』を実施するための制度的および漸進的な努力にかかる実際的措置に同意している」(9頁)とあるが、ここでの「実際的措置」とは何なのか。論文の中で掘り下げた説明がない。
また、非核兵器地帯の設置についても言及しているが、これをめぐる政治的背景や各国間の戦略、不徹底の要因などについての考察がない。戦略兵器制限交渉(SALT)や中距離核戦力(INF)、さらには1998年6月の8カ国による共同宣言についても同様である。
1998年における46カ国117名の政治指導者による声明の関連措置として、「核兵器の臨戦体制の解除、核実験の停止、削減交渉の開始」(21頁)や、「自国以外の核兵器の撤去、そして先制不使用の約束」(同)を挙げているが、こうした措置の実現がなぜ達成できないのか、達成を妨げる要因は何か、どのようにすれば事態を打開できるのかといったことを、たとえ推察ではあっても回答する必要があったのではないか。
要するに全体を通じて、いずれの指摘も参考文献で述べられているであろう枠内にとどまっていて、執筆者自身による独自評価が試みられていないのである。1999年の東京フォーラムはどのように評価されるのであろうか。
「国際社会で核兵器の使用禁止はどのように議論されているか、そしてこれまでにどのような核兵器に対する規制がなされ、軍縮交渉が行われてきたのか」(22頁)という視点からの事実紹介はなされている。しかし、「核兵器の全面使用禁止の可能性を探るべく」(同)悪戦苦闘する執筆者の姿が読み手にはどうしても伝わってこない。例えば、「自衛の極端な場面」(同)とは具体的にどのような場面なのか言及してほしかった。「核兵器国が相互に、二国間で、さらに多国間で法的拘束力のある形で先制不使用を約束する」ための具体的方策や手続きは何なのか。テーマが大き過ぎたこともあって、横断的な整理で終わってしまったことが残念である。
(2003年1月28日)
長田元「社会資本の整備をめぐる競合要因の考察―環日本海構想における北陸4県の連携のあり方―」と読んで
卒論本文は→ここ(PDFファイル228KB)
まず、内容に関するものではないが、紙媒体での論文にCD-ROMが添付されており、そのなかには本文の他に知見のもととなったデータが全て入っている。こうした電子媒体による卒論の提出は、今後、他の学生や教員が本テーマに関心を持った際のアクセスの利便性という点で大変重要なことであると思う。
さて、内容に入るが、最も注目すべき部分は、図1-図4の提示とそこからの分析である(4-5頁)ように思われる。とくに図3と図4は一次資料の基礎データを丹念に追って、これをグラフ化した労作である。北陸4県の港湾・空港部門と貿易の動態を自ら作成した図表から浮き彫りにしたことは高く評価できる。
「北陸4県の港湾・空港別貨物取扱額」に関するデータを財務省関税局が押さえているという点も興味深い。北陸4県の港湾機能に課題があるとする指摘や、企業活動に関し「概ね北陸4県の物流に関する企業活動は増加・就航便の増便であり堅調」(4頁)としているのにも納得できる(ただし、図4の北陸4県の国別輸出入同行で94年の対ロシアの急激な輸出増加と、同年の対ロシア、対米国の急激な輸入増加は何を意味しているのかについて簡単な説明をして欲しかった)。
論文では新潟県、富山県、石川県、福井県の社会資本(港湾、空港、道路)整備をめぐる「競合・連携」に注目し、とくに港湾・空港の整備をめぐる競合状況に焦点を当てる。そして、4県の「競合」が一体的な整備計画を妨げている要因であり、「連携」のためには国家の調整機能が必要であるというのが論旨である。しかし、県が互いに「競合」することで「連携」が生み出されるというケースもあるのではないか。要するに「足による投票」の広域的メリットを頭から否定していいのだろうかという疑問は最後まで解消されなかった。また、港湾、空港、道路は巨大公共事業そのものであり、公共事業の抱える課題や集権化・分権化に絡む議論にも触れて欲しかったという思いがする。
各県は自らの「厚生を高めるために政策を実行する。例えば、企業誘致や減税などの効果は外部効果を除いてはその県にしか波及しない」(7頁)「広域的に政策を実行できるアクターが存在しないこと、そして広域的に政策を実行したとしてもその責任を担うアクターが存在しないこと」(同)と述べている。しかしそれが説得力を持つためには「日本海沿岸地帯振興連盟」「北陸地方総合物流施策推進会議」「物流をテーマとした地域連携に関する研究部会」が機能保全に陥っているという事実が提示されなければならない。
一方で、「足による投票」の競合が「環日本海構想の活力となっている。同時に連携も行われており、多国間で環日本海構想を推進するための社会資本整備に正の作用をもたらしている」(8頁)とし、その具体例として「北東アジア自治体連合」を挙げている。そうだとすると「北東アジア自治体連合」は「競合」関係が「連携」関係を生み出す例証であると執筆者自身が認めていることになる。
もう一つ分かりにくかった点は、国家は「北陸地方以外の大都市の港湾・空港に集中的に投資を行おうとしている」(1頁)と述べ、4頁でも同様な表現が繰り返されているが、その根拠データの提示がないし、投資額の多寡のみを基準にこうした指摘ができるとは思われない(最後の15頁に「国家は予算の大部分は横浜港や成田空港など大都市の港湾・空港に重点的に投下する」といっており、このことを指しているのかと推測できる程度である)。「中核国際港湾及び特定重要港湾」(新潟港)と地域拠点空港(新潟空港)、「特定重要港湾」(伏木富山港)の存在をどのように理解すればいいのであろうか。
その他、FAZ法の課題についても、優遇措置が特定の自治体に限られることと、国家による調整機能の不全や企業連携の制約などを突いているのだが、そのための解決策として挙げている「国家の連携の義務付け規定」(14頁)とは具体的にどのようなものなのか。敢えて解釈すれば、「国家の調整機能」というよりは「国家の統制機能」の強化となるのであろうか。FAZ計画において国がねらいとしているのは指定をめぐる競合の効果なのではないか。
国土交通省の調整機能に期待した上で、「地方公共団体より権限の強いアクターが存在することで地方間の競合の調整が行われ連携の媒体として作用するだろう」(11頁)と述べているが、権限の強いアクター(国)の登場によって問題は解決されるのであろうか。
仮に北陸4県の連携が達成されるとして、他のブロック(北海道、東北、関東、中部、近畿、四国、九州など)間での競合の解決はどのようになされるのか。これも調整機能を国に依存するとすれば、極論だが少なくとも日本における道路、港湾、空港の拠点作りは国の出先機関がすべて行うのが最も有効であるという結論になってしまう。さらにそのことが肯定されるとして、中央省庁間の利害対立が地方にそのまま持ち込まれる構図はどのように解決されるのか。そもそも論文で頻繁に出てくる「国家」とは政府を意味するのか、国土交通省を意味するのか、中央省庁総体を指すのかはっきりしない。北陸4県の社会資本整備をめぐる調整アクターとして考えられるのは本当に「国家」だけなのであろうか。こうした考えを突き詰めていくと最終的には国際機関が「国家より権限の強いアクター」として調整機能を果たすべきだということになるのであろうか。
「多くの港湾・道路・都市が繋がりネットワークを形成できるような整備のあり方を見出す」という課題は大変な難問であり、他の政策諸領域にも通じる枢要な課題であろう。だからこそ、個人―地域―国家―世界といった各々の軸上にある諸アクターが互いに摩擦や交錯を通じて追求していかなければいけないのかもしれない。
(2003年1月29日)