修士論文 副査によるコメント  中村祐司

 

降旗幹子「1935年社会保障法制定において医療保険導入を却下したアメリカ医療体制への一考察―アメリカ全国民に公的医療保障がないのはなぜか;1906年から1935年の医療保険導入論議の検証―」を読んで

 

 この論文における問題意識は終始一貫している。題目からも窺われるように、アメリカにおいて現在に至るまで公的医療保険が導入されていない理由の源泉が、1906年から1935年の一連の議論にあるとして、とくにアメリカ医師会の導入反対の動きに焦点を当てている。

「アメリカ医師会の主張の裏づけにある医療の諸問題、医療供給体制や医療専門職の置かれている状況、国民の医療費負担などアメリカ医療体制の特徴をあきらかにする」(3頁)とあり、具体的には、1915年からのアメリカ労働立法協会での医療保険運動、医療検討委員会の最終勧告、1935年社会保障法制定時の医療保険論議を追う内容となっている。

アメリカ医師会に焦点を絞るなら、その設立経過やどのような組織なのかをもう少し詳しく紹介してほしかったという思いは残ったものの、読み進めていくと医療をめぐる政府と医師会との綱引きのみならず、個人レベルも含め、商業保険会社などの関連の諸アクターが登場し、当時の時代状況のなかで各々の利害を追求することによる相互摩擦、すなわち、アメリカの医療体制の原型形成をめぐる政治過程を描写する結果となっている。

1935年社会保障法の医療保険導入の失敗した理由は、アメリカ医師会が、医療保険導入による医師診療報酬の決定が、大恐慌による経営不振に陥っている診療所・病院経営に、更に打撃を与えると、反対したためであった。また、アメリカ医師会にとって、医療への政府介入はヨーロッパのように医療が政府管理下におかれる恐れがあったためである」(4頁)。こうした記述に終わらず、英文の一次資料からさらに掘り下げた追求を行っている点は高く評価できる。英文資料に果敢に取り組んだ様子が読み手にも伝わってくる。論点についても「医療保険のあり方、医療報酬体系、医療への政府介入の是非」と明確である。

 19275月に医療費検討委員会が設置され、この勧告が、委員会勧告、少数派勧告、個人提案に分裂したことと、各々の見解の相違を指摘した箇所(24頁)なども興味深い。

また、第1章の図表についても、邦訳した基礎資料の提示という意味での資料的価値は十分あるように思われる。ただし、第3章では図3「国民所得の推移」、図4「失業率の推移」、図5「個人消費と医療保健支出の推移」の連関について記述してほしかった。

32頁以降では、社会保障法案を検討した医療諮問委員会における医療保険(「医療の社会化」)をめぐる議論を追っているが、その追求は委員会の人物構成にまで及んでいる。(アメリカ医師会の反対を受けて)「ルーズベルト大統領は、議会審議中は医療保険を公表しないと決意した。それは、医療保険議論が混迷したことで、社会保障法の要である老齢年金や失業保険の法案化が危機に瀕することを大統領が恐れたためである」(37頁)などの引用に至ると、医療保険の問題が年金政策や失業保険政策とリンクしていたことが分かる。

要するにこの論文では、自発的医療保険(医師会)と強制的医療保険(連邦政府)との摩擦、公的医療保険をめぐる賛成(連邦政府)と反対(医師会)とのせめぎ合い、管理責任の主体をめぐる対立の構図と動態を、一次資料の裏づけのもとで明らかしているのである。

 以上のように、この論文には資料的価値があると認めつつも、一方で、最初に一定の無難な結論があって、それを資料で確認した程度のものであって、資料から従来の文献では指摘されていなかったような新たな知見は出せなかったのではないかという疑問も湧く。要するに「医療保険導入論議の挫折要因」(3頁)について、政府資料や文献上で指摘された枠内に執筆者の指摘もとどまってしまったのではないだろうか。せっかく医師会に焦点を絞ったのであるから、たとえば、インタビュは無理としても電子メール等で、たとえ間接的であるにせよ当時の状況に詳しい医師会のスタッフないしは政策担当者にアプローチする方法もあったのではないか。英文資料の意欲的な読み込みが行われているだけにこの点が惜しい。たとえ歴史上の出来事であっても政府資料や文献に頼るだけでは、そこから見出されることには限界があるように思われるからである。

 


 

金仁錫「郵便貯金における金融商品の開発と資金運用」を読んで

 

論文の目的は「日本の郵便貯金事業の発展過程とその商品内容を把握して、韓国の郵便貯金事業に応用できるかどうかの可能性を明らかにすること」とある。しかし、この目的は達成されたのであろうか。また、財政投融資計画の財源としての資金運用部資金と公社化後の一般金融機関との競争能力を問題視している。しかし、何らかの解決策を提示し得たのであろうか。

 あまりにも広範な領域を取扱い過ぎた結果、「薄く広く」参考文献から郵貯事業を紹介し羅列するにとどまってしまったようである。多岐に及ぶ目次項目の記載に執筆者独自の問題意識を感じることができない。

1章はもっと短くして、文章として概要のポイントを示す程度でよかった。第2章についても同様である。また、「各金融機関がそれぞれ経営戦略に応じた商品・サービスの提供や金利付定を行うことにより、自由で公正な競争を促進し、個々の預金者の多様化したライフスタイルや家計ニーズに対応するとともに、経営の効率化を図り預金者以外の経済主体が享受していた超過利潤を預金者に移転することが可能となる」(21-22頁)とあるが、こうした表現に執筆者のオリジナリティがあるとはとても思われない。

例えば、定額郵貯か普通郵便貯金、あるいは財政投融資資金に検討の対象を絞った方がよかったのではないか。制度を羅列し概説書で既に言われている内容を単に提示するだけでいいのであろうか。全体的に参考文献の内容の一部をピックアップし、それを集積したに過ぎないという印象を持たざるを得ない。

3章においても、「郵便貯金には、普通郵便貯金、定額貯金、定期郵便貯金、積立郵便貯金、住宅積立郵便貯金及び教育積立郵便貯金の6種類の貯金がある」(27頁)から始まって、あとは事業内容の羅列に終始している。

論文題目に「事例研究」が含まれているからには、論文内容の大部分は前座として、自分の足で稼いだインタビュ内容や資料にもとづく分析がなければならないし、そのためには検討対象を絞り込まなければいけなかったように思われる。

例えば、「毎年雪だるまのように増える財政赤字を国民の個人財産である郵便貯金資金で埋めている」(51)との問題意識から出発すれば、こうしたことがなせ生じたのか、それをもたらした制度的課題や経済環境の変容は何なのか、状況が是正できない政治的理由は何かといったように、探求すべき関心は広がっていくはずである。

「郵政公社は、徹底したリスク管理体制の整備、構造改革を通じた経営システムの効率化、情報通信技術や金融工学の発達を利用した新しい金融商品の開発、先端金融技法の果敢な導入、世界市場を舞台とするグローバル経営、間接金融と直接金融との調和を導く最適なポートフォリオの構成などの総合的な経営政策を緻密に樹立し、実行すべきである」(59頁)。この中身を具体的に詰めていくのが研究論文というものではないだろうか。全体を通じて、文献収集の労はとったと窺われるものの、執筆者によるオリジナルな文章を見出すことがほとんどできず大変残念であった。

 


 

関海栄「日本における国鉄の分割・民営化の方法と課題―JR東日本を事例として―」を読んで

 

「経営指標を手掛かりに、国鉄の分割・民営化改革は成功したのか」(2頁)を明らかにするとしている。

文献の引用から第1章が構成されているが、執筆者自身による考察がない。知見そのものが文献からの受け売りとなってしまっている。やはりテーマが広過ぎたのではないか。例えば、労使関係に絞っても国鉄の民営化には示唆するところのものが多々あったのではないかと思われる。

2章の終わりに、「ここでは、国鉄の分割・民営化が経済面から見ると成功したことについて分析してみた」(30頁)とあるが、執筆者自身による分析は何もないようである。それはともかく、第3章「JR東日本の経営戦略と業績」で、当初ここを読み進めた段階ではオリジナルな見解が出ていると思ったものの、文献からの一部内容紹介の羅列が続く(確かに「国鉄標準規格(JRS)」廃止への言及(32頁)などは興味深いものがあるが)。

 さらに、オリジナルな記述と受け止めることができると思いかけたのが、第3章第2節「JR東日本の経営状況―民営化効果の検証―」であった。すなわち、JR東日本の財務状況に関わる「JR東日本の単体決算データ」からの読み取り(34-35頁)以降である。多くの図表が基礎データをもとに作成した労力が確かに伝わってくる。「JR東日本の鉄道事業のサービスはこの15年間に確実に向上したと考えられる」(44頁)という結論を裏づける図表の提示が続く。しかし、ここでも結論自体を文献から持ってきていることにどうしても引っ掛かってしまう。

JR東日本は発足してから、首都圏輸送、長距離の都市間輸送を軸にしながら、その周囲に駅ビル、ホテルから飲食、物販、不動産、レジャーまでを多角的に展開してきた。私鉄が何十年もかけて構築した事業経営のパターンとよく似ている」(47頁)など、なるほどと思わせる記述は確かに多い。例えば、こうした諸事業の一つでもピックアップして聞き取り調査を行い、事例研究として取り上げて欲しかった。

SOHOが鉄道利用人員に及ぼす影響などの指摘(49頁)も興味深い。しかし、こうした内容もほとんどが「JR東日本の現状と課題」といった文献に依存している。やはり執筆者自身が足を運び、その目で確認している訳ではないのである。「分析」を行ったのは文献の著者であり、この論文の執筆者ではないことは明白である。最終章でもこうした姿勢は同じで、「長期債務の処理」「JR各会社間の格差と抱える問題」「労使関係」といった「残された問題」(69)までも文献に依存しているのである。なぜ自分で足を運び現場を見ないのか。なぜテーマを絞り自分自身の目で確かめようとしないのか。

 


 

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