―副査を担当した卒論(2001年度)へのコメント 中村祐司―(順不同)

 

---

 

九法恵子「宇都宮市のまちづくり―中心市街地空洞化問題を事例として―」を読んで

 

「中心市街地活性化とはどういったことなのか」という問いを発し、「行政・TMO・商業の連携や協力体制における課題を明らかに」していこうという視点が最初に示される。しかし、テーマを考えると、果たして市の総合計画を羅列的に説明する必要があったのか理解に苦しむ。例えば、p.10からp.11に基本計画における8つの重点課題が提示されているが、典型的な行政用語の羅列であり、(誤解をおそれずにいえば)総合計画を策定したシンクタンクの金太郎飴的な「決まり文句」の羅列に過ぎないのではないだろうか。2章以降の本題に入る前置きがあまりにも長いように感じた。

 

 その第2章だが、市の中心市街地活性化基本計画でいっていることの整理・提示なのか、九法さん自身の中心市街地をめぐる課題の指摘なのかが判然としない。後者に該当するのはp.18の記述ぐらいであろうか。P.19の意向調査にしても他の機関が行ったのか本人が行ったのか読む者には分からない。だからなのであろうか。中心市街地活性化に向けた九法さん独自の新味のある提案は何も出てきていないように思われる。まるでシンクタンクの定型的な作文を読んでいるような感じだ。2章を作成するにあたって検討した文献は実質的に活性化基本計画だけではないのか。これではどうかと思う。

 

 3章のTMO事業にしても、例えば、「駐車場有効利用促進事業」を取り上げているが、p.31の表など、「宇都宮市駐車場整備計画調査」のデータをそのままもってきたのか、九法さんが元データに手を加えて作成したものなのか、が分からない。本文を読むとあたかも駐車需要バランスなるものを自分で設定したようにもとれるのだが。ようやく、p.33になって書き手のTMO評価が出てくるものの、「効率的なまちづくりを進めていく必要がある」では解決策の糸口にすらなっていないのではないか。

 

これとは対照的に4章での聞き取り調査にもとづく記述は良い。「ハードは死ぬ、ソフトは生きる」という発想の紹介や、バーチャルモールなどは大変興味深い。個人商店や大型店への聞き取りに臨む積極性は高く評価できる。「バンバ新生計画協議会」への聞き取りについても同様である。市役所担当職員の異動を問題視する指摘などはその通りである。中心市街地活性化も鍵となるのはやはり人か。例えば、担当行政職員への聞き取り調査、異なる業種の個人商店や店舗への聞き取りがあれば、論文の幅が拡がったのに大変惜しい。

 

.42以下の指摘をもう少し膨らませることはできなかったか。後継者育成への投資、売り上げと固定資産税額との差などの指摘はいい論点である。個人的には正解は「行政が動かないなら自らで実行していくほうが早い」という考えにあるように思われる。そのことが反転、行政を動かすことにつながっていくのではないかと思う。「行政参加」という発想も大変面白い。個人商店同士のコミュニケーション作りは簡単にはいかないと思うが、これは住民自治の実験そのものでもあるように感じた。

 

総じて3章までの間延びというのか前置きがあまりに長いのが惜しい。最初から聞き取りで得た内容を中心に論文を構成し、3章までの内容は付録程度に記載した方がよかったのではないか。いずれにしても今回の経験をぜひ今後の勉強・仕事などに生かしていってもらいたい。

 

---

 

斎藤雅美「アメニティの享受に関する考察―誰のためのアメニティづくりか―」を読んで

 

 全体を通じて参照した文献のポイントを簡潔に押さえ、一次資料を丁寧に追っている点は良い。1章でアメニティという言葉が持つ多様な意味合いをときほぐした上で、2章に入っていく。読んでいくうち、例えば新宿歌舞伎町にあれだけの人が集まるのはアメニティが高いからではなく、ある種の「怪しさ」があるからではないのか、などと勝手な想像をしてしまう。資料2の表は自作なのであろうか。そうであるとすれば労作である。ただ、この表の中にある「エロスニーズ」(バー・キャバレー・クラブ・モーテル・風俗店など)がタウン・アメニティにつながるニーズであると見なすことには疑問を感じる。

 

その後に展開される「東京の魅力」とアメニティとをそのまま結びつけている点も理解しがたい。「青少年の生活と意識に関する基本調査」にまで至ると、1章で検討したアメニティと、ここで齋藤さんが考えているアメニティとは全く違う次元なのではないかと思わざるを得ない。ただし、アメニティ概念を非常に広く捉えるとすれば、この語をキーワードに若者と高齢者の意識の違いを探ることに一定の意味はあるのかもしれない。老若男女に対応した「まんべんのないアメニティづくり」は本当に可能なのであろうか。

 

 3章に入り、「代々木商店街」をめぐるアンケートから読み取れることや、商店街組合員への聞き取りなど、独自な調査活動であるがゆえに読んでいて大変引き付けられる。まさに一次資料と現場にもとづく記述である。資料4などデータの提示にも工夫のあとが見える。ただし、「実践として代々木商店街のケースでの、タウン・アメニティ演出の提案」に関する記述をもう少し大胆に膨らませて展開してほしかったが。その他、渋谷区役所への聞き取り内容の紹介など、それ自体資料的価値があるように思われる。

 

しかし、やはり老若男女に対応するアメニティづくりの具体策を提示するのは至難の業なのではないか。それはアメニティという概念が都市計画、まちづくり、町並み、若者や高齢者の嗜好など、いろいろな諸要素を包含しているあまりにも広い概念であり、どうしても曖昧模糊としたイメージであるからではないだろうか。いわば、さまざまな取組みの結果、アメニティが何となく醸し出されるという類のものである。そのために、4章で典型的に見られるように都市計画行政という大変重い行政課題にまで間口を広げざるを得なくなってしまった。「国立まちづくり市民会議」を取り上げた視点はよいが、3章にならって、ここでこそ関係者への聞き取りや実際に自分の目で確かめてきたことをもとに考えを展開してほしかった。

 

まちの景観をめぐるアメニティ、こどもとの触れ合いを重視するまちづくり、憩いの場としての公園整備など、各論としてのアメニティ政策を展開すれば、焦点が絞れたのではないか。ぜひ卒論作成過程でのこの経験を卒業後も生かしてほしいと願っている。

 

---

 

松島一志「参加型社会林業―タンザニアの事例を中心として―」を読んで

 

キリマンジャロ村落林業計画を制度・財政・技術の3側面から見据えていこうという姿勢が終始一貫している。社会林業=「住民のための住民による林業」と捉えた上で、社会調査の手法にも言及しつつ、論を展開している。「標準化された調査票であると、回答の裏に隠された住民のニーズや社会的要素を把握するのは難しい。また、回答者が住民の代表者であると、富裕層や権力者の意見が反映されて社会的弱者の意見が反映されにくい」点などは、どのような分野であれフィールド調査に携わる者にとって傾聴すべき指摘である。

 

「住民から学びそして住民とともに学ぶ」PLAの手法を理想として、以後、評価基準をここに置きながら、検討を進めている。2章のケーススタディで、確かにプロジェクトの中身について、よく整理された説明がなされている。しかし、読み進めていくと、松島君による評価基準となっている「住民主導による自主的な活動」というのは果たして本当にプログラム実施をめぐるオールマイティであるのかという疑問が生じてしまう。これを金科玉条のごとく価値基準とするのは、参加型社会林業をめぐる諸課題の本質をかえって見誤ることにつながっていくのではないか。

 

この点はともかく、プログラム効果を有効なものとするためには住民参加型手法に帰結せざるを得ないという展開には説得力がある。プロジェクトを進めていく上での相互コミュニケーションの重要性についても理解できる。そのことは地方自治を研究の対象としている者にとっても大いに共感・賛同できる指摘であり、たとえどの国の社会であっても自治組織活動を考える上で大いに参考となるものである。まさに住民自治の実験を見るような思いすらした。 

 

ベンデラ村の例など、「独占的なグループの存在やグループ間の対立」という点に限れば、国を問わず地域社会の至る所で抱えている共通の課題のように思われ、大変興味深い。我田引水となってしまうが、例えば、マサンダレ村で用いられた手法などは、まさにサッカーの日韓共催ワールドカップにおける横浜市のボランティア運営の手法と重なっている。

 

3章の考察では、マサイ族に対する定住化政策、タンザニア政府の林業政策技術・組織・制度の検討と続く。大変丁寧に報告書等をあたっており、資料に振り回された記述となっていない点が評価できる。しかし、やはり「住民『のみ』の持続的管理」というのはあくまでも期待値基準なのであって、これを限界値基準として捉えている視点そのものにどうしても違和感が残ってしまう。

 

この論文で本来追求されるべきであったのは「造林の成功例を住民に体験させ、住民の意欲を高めさせる方式」をどのような「政府、援助機関、地方自治体、そして住民すべての連携体制」の中で達成していくのか、その具体的な処方箋の提示でありプログラム提案ではなかったのか。この点にこそ分量を多く割いてほしかった。タンザニアにおいて調査活動を行うこと自体の多大な困難さがあるにしても、やはり、現地・現場における観察の経験をもとにした論の展開が不可欠であったのではないだろうか。

 

全体を読んで、あとがきにあるようにまさに、「様々な文献の中から情報を抽出し」、簡潔に整理・構成した労は多かったと思うし、重層的な論文構成には読み手を引きつける要素が確かにある。しかし、やや残念だったのは論述そのものが孫引き的になっているということ、要するに自分の目と耳で確かめたものではないだけに、読んでいて迫力を感じない。確かに現場に行けばいいというものではないだろう。しかし、あたかも借り物のレンズを通じて見たような論述になってしまっている側面がどうしてもあるように思われた。

 

いずれにしても、多大なエネルギーを注いだ卒論作成の経験を生かして、4月以降、社会人として大いに活躍してもらうことを願っている。

 

---

 

奈良和美「韓国のボランティア意識とその特徴活動の発展と展望」を読んで 卒論全文はこちら

 

大変な力作である。

 

「ボランティア活動は異なる状況の下では異なる形態で行われ、ボランティアという言葉自体も状況に応じて異なる意味を持ちうる」と柔軟・広範な意味付けを与えた上で、実際にソウル、仁川に滞在し、ボランティア活動に参加している。個々の註の内容も充実している。「研究者自身その行為や活動への参加が課題であり、対象者と共通の体験をすることが必要だ」という引用があるが全く同感である。自らアンケート調査を行っており、これが論文のもう一つの柱となっている。

 

ボランティア活動の変遷を簡潔にまとめている点もいい。本論で書くべきことが豊富にあるがゆえにこのような扱いとなるのであろう。文章もしっかりしている。まるで4年間の問題意識や経験が凝縮されたような内容になっている。図表等が韓国語資料を日本語訳している点など、まさに韓国の「生の資料」を多く使っている点を評価したい。

 

5.31教育改革」の指針を見ると韓国政府が主導していこうとする韓国のボランティア政策のスタンスが明確であり、欧米などのボランタリーセクターの活動やボランティアそのものの有する特性を想起すると、そのアンバランスに興味が湧く。

 

アンケート調査の読み取り・解釈などに当たっては得てして紋切り型の内容になりがちであるが、この卒論では奈良さんの現場での経験にもとづいた考察が随所に加えられており、読んでいて全く飽きない。やはり留学生・生活者として1年間韓国に滞在した経験が大きい。

 

3章のアンケート実施の試みはこれだけでも大変な価値がある。確かに専門の調査機関が行うものと比べれば規模の点ではかなわないが、自ら試みた意欲が良い。この章だけでも大変なエネルギーが注がれているのが分かる。惜しむらくはもう少しアンケート対象者・回答者が多ければ、ということか。

 

 特に「慈善団体への参加率「(縦軸)と「教会・宗教団体への参加率」(横軸)を組み合わせたp27の相関図など大変興味深い。読み進めていて次から次へと知見が出てきて引きつけられる。考察は日本におけるボランティア活動との比較考察にも及んでいる。そのことは4章の考察についても同様である。だからこそ、「行政の主導の下で進められたことによる負の副作用」という鋭い指摘も出てくるのであろう。

 

要するに韓国教育部による「青少年の人間性と共同体意識の育成」という導入理由の2本柱に、国家主導型のボランティア政策の特質があるように思われた。

 

ただし、読んでいてどうしてもこのエネルギーをケーススタディに注ぐ手もあったのではないかという思いもした。例えば、地域において積極的に活動しているボランティアグループをいくつか選び、夏休みなどを利用して「現場」にもっと入り込んで、実践者・関係者に聞き取り調査を行うことができれば、次のステップとして別の角度から多くの魅力的な知見が得られたのではないだろうか。

 

ボランティアの活動というのはまさに生き物のようなものかもしれない。サッカーの2002年ワールドカップ大会をめぐる日本のボランタリーセクターの動きを追っていると、そのことがよく分かる。つまり従来の発想では全く想定もしていなかったようなボランタリーセクター活動の萌芽を見てとることができる。

 

ボランティア活動の中で奈良さんが最も関心をもつ政策分野は何であろうか。今後はある特定政策領域のボランティア活動に焦点を当ててもよいかもしれない。

 

表現は平易であり、仮にここだけ読めば簡単に読み流してしまいそうな、最後の4点の結論を導き出したことに自信を持っていい。この卒論はアンケート調査を駆使する形で、今まで自らが培った関係者や友人たちとのネットワークを武器に、非常に把握しにくいテーマに敢えて取組んだ意欲作である。そのことは、資料@から資料Bの大変な充実ぶりからも分かる。

 

私毎だが、1月22日から2カ月間、オーストラリア(ゴールドコースト)においてスポーツレジャーサービスをめぐる調査活動に従事するが、このようなエネルギッシュな卒論に大いに力づけられた。「地を這うような」調査活動をしていきたいと考えている。

 

 今回の卒論作成の経験を生かして、卒業後大いに活躍することを期待している。 

 

---

 

後藤恵美「ウォルト・ディズニー・カンパニーの経営戦略と今後の展望について」を読んで

 

12万人もの従業員を抱えるディズニー社が、○○帝国と名づけてもいいような、あらゆるメディアを通じた世界規模での経営の展開には凄まじいものを感じた。特に、1980年代以降の多角的経営の拡大は、3章の定義にあるようにまさに「シナジー」を連想させる。しかし、全体の分量からしても相対的にシナジーの説明が長過ぎたのではないか。

 

これ以外にも4章まで読んだ段階で読み手が把握できたのは、ディズニー社のおぼろげな輪郭のみである。英文資料、インターネット情報を丁寧に当たってはいるものの、どうしても概要説明の域を出ない。残念ながら全体として項目の羅列で終ってしまい、考察が深まっていない。

 

例えば、p.5に「プロスポーツチームの所有」とあるが、これだけ取り上げても、実際の球団運営の仕組みや経営収支状況、選手の待遇やファンの反応、グッズ販売戦略とその効果、フランチャイズ地域に及ぼした経済波及効果などいろいろな視点が挙げられる。ディズニーの事業サービスのうち、最も関心のあるものに絞った上での論述がどうしても不可欠なように思われる。

 

ディズニー社は少なくとも現段階まで市場における最強の勝利者なのだろう。この巨大な、それでいて戦略的に柔軟に変貌しつつある組織を、あたかもほんの少し撫でるかのような記述で終ってしまった。残念ながら、実際に自分の目と耳で観察した貴重な経験が内容に反映されているようには思えなかった。やはりここでの検討を前提として、ミクロなレベルから経験にもとづく、事例を提示しなかったことがどうしても惜しまれる。

 

上記のような指摘を受けて、ぜひ今後の研鑚と活躍を望む。

 

---

 

廣田祐子「障害スポーツと行政の役割」を読んで

 

「はじめに」において本テーマでの強烈な問題意識が感じとれる。しかし、1,2章の内容は障害者をめぐる状況と施策の概要を説明したものであり、卒論題目からみると違和感がある。3章から障害スポーツの記述に入るが、各節とも政府や地方自治体による説明をまとめたものになっている。確かに図表を分かりやすく提示しているし、データとしての重要性もあり、説明も要点を押さえたものにはなっている。

 

しかし、自分で論を進めていくというスタイルにはなっていない。ポイントを羅列するような記述の仕方を取るにしても、それに対する自分なりの位置づけや評価、分析がどうしてもほしいところだが、それがないのが残念である。

 

 4章以下のスルーネットピンポンへの絞り込みは良い。また、実際に参加したことから生じた認識には説得力がある。「目に障害を持つということが、障害ではなくゲーム上のルールであることから////」(省略中村)「彼らの個性を発見できた」といった記述がそれである。5章でも、「障害を持つということで、労働のような生産的な活動に従事することが困難であれば、/////それらに楽しむ資格さえないように見られてしまう」(省略同)といった鋭い指摘がある。しかし、あまりにも論述の分量・質ともにコンパクト過ぎたというか、あっさりし過ぎている。要するに最初の問題意識が肝心の本文に浸透していない。

 

スポーツ世界の構成要素の一つに過ぎないと見なされがちの障害者スポーツが、実は制度や社会が抱える課題の縮図であるという認識を持てたことは大きい。これを契機とした今後のより一層の参加と探求を期待する。

 

---

 

                            卒業論文トップへ  研究室トップへ