地方行政論

「吉野川第十堰問題から考える地方自治体の役割」 佐藤勇弥(k990129

はじめに

公共事業と聞いて頭に浮かぶことはまず「インフラ整備」。特に年末になるとあちこちの道路で目にするアスファルトの修正工事、治水・利水のために作られるダム、洪水に備えた堰などの設置、すべてをここで説明する必要はないと思うので、以上を例に挙げて終わりにするが、基本的に「住民の安全、暮らしやすさ」を作り出すのを目的にして公共事業は行われるものだと考えられている。だが、その実態を覗いてみると、そのような大義名分だけで工事が行われているわけではない事はもはや周知の事実である。そこに含まれる問題は一言でかたづけられるような単純な問題ではなく、国の行政体制自体に関わる複雑で大きな問題である。今回のレポートでは今後の公共事業においての地方時自体の役割を考えたい。しかし、公共事業といってもその種類は多種多様で範囲が広すぎるので、最近までメディアでもよく取り上げられていた徳島県吉野川第十堰問題を例にして書いていきたいと思う。

吉野川第十堰について

歴史:第十堰が最初に作られたのは1752年。かつては、旧吉野川が本流で、現在の吉野川は別宮川と呼ばれていた。この川幅を広げたところ、本流よりもたくさんの水が流れるようになり、下坂地方(現在の鳴門市大津町、撫義市などや板野郡松茂町、北島町、徳島市川内町などの地域を指す)を水不足から救うため、農業用水確保のため農民の手によって作られた。その後、第十堰は吉野川の洪水による破損、流出のためしばしば修繕、復旧を繰り返し、昭和30年以降は表面をコンクリートで覆い、下流部はコンクリートブロックで補強してきた。昭和40年以降からは建設省の管理下におかれ、11回も復旧を繰り返している。参考として第十堰の変遷を分かりやすい図で乗せている建設省四国地方建設局徳島県工事事務所ホームページの一部を以下に紹介する。

http://www.toku-moc.go.jp/jyuzeki/jyuzeki.htm 「第十堰について」部分参照

第十堰問題:第十堰問題については、上記のホームページ以外にもかなり多くのところで取り上げられている。詳細はこのレポートの最後、参照ホームページの欄に載せたい。

第十堰問題の根本的要因となっているのは、第十堰の老朽化だ。堰の特徴は、表面がコンクリートで覆われているが、内部は川底の砂利を積み上げたものであるため、水が漏れる透過構造になっており、このメカニズムが内部土砂の吸出しをまねき、空洞が発生している。表面のコンクリートのひび割れや亀裂は空洞化が原因と考えられ、洪水などの大きな力がかかった場合に壊れる可能性がある。堰が壊れてしまえば、旧吉野側に水が流れなくなってしまうため、流域の工業、農業、また一般の生活にも甚大な被害が起きてしまうことは必至であるのだ。また、洪水の時に第十堰があることで、「せき上げ」と呼ばれる現象が起こっているのが多く確認されている。せき上げ現象とは、流れている水を塞き止めるような形で手を置いた時どのようなことが起こるかと考えれば良く分かる。つまり、第十堰があることで、水嵩が増した川の流れが悪くなり、上流と下流で治水の不平等が起きてしまう。もし上流で水嵩が堤防を越えてしまったり、堤防が決壊してしまったら周辺区域に大きな被害がおよんでしまうことになるのだ。

  昭和49年洪水のせき上げ写真

写真のほぼ中央、川の中に線が見えるところが第十堰。そこより上流と、下流では水の流れが違っていることが分かる。この現象が「せき上げ」である。

<図は建設省四国地方建設局徳島県工事事務所ホームページから参照>

吉野川は昔から暴れ川で、人々には「四国三郎」と呼ばており、頻繁に洪水が起きることで有名である。このようなことから建設省は安全性を考え、第十堰に代わる新しい堰の建設に取り組むことを決定したのだ。ところが、「堰建設の決定は、住民に何の情報公開も為しに決定された」として、周辺流域に住む住民たちから反対の声があがった。市民団体などが、住民投票を実行すべく署名活動を行い、徳島市に提出。投票率が50%を下回ったら不成立とみなすなど他の自治体からの声もあったが、徳島市は住民投票を行うことを決定し、「吉野川可動堰建設計画の賛否を問う徳島市住民投票条例」を発表し、H12.1.23に河川事業のぜひを問う国内初の住民投票を行うことを定めた。同時に住民投票に反対していた徳島市長の義務をいくつか定めた。住民投票の結果は次の通りである。

投票結果概要

当日投票資格者数

207,284

総投票者数

113,996

不受理・持ち帰り等

7

投票総数

113,989

確定投票数

54.995%(成立)

有効投票

112,126

うち賛成

9,367

うち反対

102,759

無効票

1,863

(参考HP徳島市ホームページ

*住民投票に向けて徳島市が行ったこと

・吉野川第十堰に関する資料コーナーを設置

場所:徳島市役所 設置期間:H11.11.1H12.1.22(投票前日)

・「広報とくしま」など地元の広報誌や徳島市ホームページなどで随時情報公開。 (住民投票条例で市長の義務にさだめられる。)

である。また、吉野川周辺流域の32市町村で、住民投票や吉野川第十堰問題を扱っているところはどれくらいあるのか探してみたが、ホームページにおいては全く無かった。(参考:徳島県と50市町村

住民投票で反対派多数の結果が出たことで、「公共事業抜本見直し検討会」のメンバーや与党3等の政策責任者が相次いで第十堰を視察に訪れ、可動堰化計画を「白紙」に戻し、新たな計画を策定するように政府に勧告した。現在は、行政と住民との「対話の条件作り」について話し合う場として、建設省徳島工事事務所が呼びかけ人となり「明日の吉野川と市民参加のありかたを考える懇談会」がつくられた。だが、懇談会が可動堰事業の予算で運営され、事務局も建設省が務めていることから、反対派住民は「意図的に、建設省への批判を避けさせ、住民対立へ切り替えられている」「『可動堰ありきの会』になっている」として参加を拒否し、談話は現在滞っている状態である。

考察

吉野川河口堰問題に触れてみて、いくつかの問題点を見つけた。ここで考察するにあたってまず、その問題点をあげてみたいと思う。

  1. 可動堰建設計画が立てられた時点で行政と住民とのあいだで、なにも話し合いの場が持たれていないこと。
  2. 住民投票が徳島市でしか行われていないこと。
  3. 情報公開が限定された地域でしか行われていないこと。
  4. 行政と住民が対等に話し合える場が少なかったこと。そして、現在ある懇談会でも反対派住民が参加できていなく、懇談会自体の存在意義が問われていること。

公共事業をめぐる国と地方自治体の構図は吉野川問題から始まったことではなく、歴史の深い問題である。自治体の抱える財政問題の解決のために陳情合戦が行われたり、必要の無いところに物を作ったりしてきた歴史がいまでも根強く残っていると思われる。しかし、公共事業の見直しをする機関が国に設置されたり、また、市民の反対運動が昔よりも強くなってきている今、将来の環境問題を考えても、この現状は変えられなければならない。地方分権の視点からも、地方自治体が国に意見を述べられなかったり、その意見が聞き入れられずらかったりするのは問題で、自治体がきちんと国に”No”と言える体制を作っていかなければならないと思う。吉野川河口堰問題では、@がそれに当てはまる。ここで徳島市やその他吉野川流域周辺の地方自治体は反対意見を出していないが、国から決められたことを素直に受け入れている。吉野川は建設省の管轄下におかれているので、何も口出しが出来ないのかもしれないが、もっと早い段階から住民に情報公開をしておくべきであった。「勝手に国に決められた」と住民が行政に対する信頼感を失ってしまう危険性があるからだ。もし、住民との話し合いの場が持たれていたら、現在の吉野川問題はこれほどまでに泥沼化していなかったかもしれない。堰を作るか作らないかの問題ではない、住民と行政の間に壁が作られるか作られないかの問題なのである。Aにおいて、私は、住民投票が徳島市でしか行われなかったことに強い疑問を持った。吉野川は徳島市だけを流れているわけではない。確かに、問題の中心である第十堰は徳島市にあるが、徳島市に隣接する町や村に洪水の被害が及ばないわけではないと思う。吉野川が徳島県の川だというなら、もう少し関心を示すべきだ。これは、Bにも言えることだ。ホームページをみていて、関心の低さというか、むしろ無関心な印象をうけた。Cでは、「公共事業は国がやることなのだから、専門知識も無い住民には話す価値もない」という印象さえうける。本来、公共事業は何のためにあるのだろうか。「人々が住みやすい環境を、国民の代表が先に立って作っていく」ものであって、「政治家の私腹を肥やすため」のものではないはずだ。根本的な原因として、先述したような国と自治体の構図があるのだと思うが、これらの問題の打開策として、私が具体的に考えた案を以下に書きたいと思う。

これらを考えた根本にある考えは、「国が住む場所ではなくて、自分たちが住みやすい環境を自分たちで作る」ということだ。自治体が勝手気侭にやってしまわないか、また、例えば道路や、県をまたぐ橋など小さな自治体だけでは決定できないことなど、様々な問題はあるだろうが、「本当に必要な物」は、直に触れて、感じて、疑問や不満に思う事から生まれてくるものだ。だから、最小単位から公共事業を出発させるべきだと思うのだ。大きな公共事業を行うのに際して、小さなレベルの自治体がどの様に対応してゆくべきかという問題に対して、1つの案を考えた。それは、自治体同士が共同体を形成するということだ。もちろん権限は公共事業に限られるが、自治体同士で話し合いをすることで、大きな問題でも解決が可能になると思う。

以上のようにすることで、無駄な公共事業や、政治家たちの私腹を肥やすような公共事業を増やさないようにできるのではないだろうか。あくまでも、主人公は住民であるべきだ。そのために住民は周辺の環境に気を配り、高い関心を持って生活しなければならなくなっても、勝手に決定された事業に反対運動を起すよりもエネルギーの無駄は無いと思う。

結論

私が最終的に言いたかったことは、市民や地方自治体の「お上まかせの意識」を無くすこと、そして、行政と住民との間に「信頼性」を築くということだ。共生を住民との間に隙間があってはならないと思う。「みんなでする町作り」、こんなスローガンをたまに見かけるが、これをスローガンにとどめるのではなく、実際にそうできる社会になることが望ましいと思う。

 

*最後に

このレポートを作成するにあたって参考にしたホームページの紹介

別に作成したページがあるので、そこへリンクをはります。そちらの方を参照してください。

参考ホームページ