アラブ全体を見渡して考える時に、エジプトは地理的にも中心に位置し、第二次世界大戦以後のアラブにおいても中心的役割を果たした国である。しかしながら、そのエジプトは他のアラブ諸国を代表するような歴史及び文化を持つ国では決してない。エジプトは他のアラブ諸国とどのように違っているのか。その違いは何に起因しているのか。そして、その違いから生じる民族性は、授業で提示された「カウミーヤ」「ワタニーヤ」とどのように関係しているといえるのだろうか。

 

1.エジプトが有する他のアラブ諸国との違い

エジプトとアラブ諸国と違うところを列挙すれば以下のものが挙げられる。

@国の歴史と国内体制。    A国民性及びナショナリズム。    Bエジプトの早期近代化。    Cナセルによる反帝国主義の発動と、中東の自立に向けての鍵、及び障害として存在するエジプト。    D親米路線とイスラエルとの国交。

以降、@からBを中心にみてその特殊性とその根元、民族について見ていく。

 

2.民族の捉え方

  一時期盛り上がったアラブ統一は結局失敗に終わったが、あれだけの違いを持つ西アジア諸国がなぜ1つのアラブと言うことができるのだろうか。我々からすればとても1つの民族とは言うことができないように感じられる。

実は、我々の連想する「民族」の定義は、きわめて狭義でヨーロッパ的である。恐らく我々が考える民族とは以下の条件を満たすものであろう。

@言語の共通性    A地域の共通性    B経済生活の共通性    C心理状態の共通性

以上の4つの共通性はスターリンの『民族論』によるものである。しかしながら、これらに純粋に当てはまるのはヨーロッパ諸国と日本だけであり、アラブ諸国の場合BとCが当てはまらない。すでにこの考え方は否定されているものの、我々が考えがちなものばかりである。民族の捉え方は今までの固定観念を捨て去らなければならない。

 

3.アラブの成立とエジプトの成立から見るエジプトの特殊性の形成

アラブの歴史は紀元前までさかのぼる。エジプトにはエジプト文明、湾岸にはメソポタミア文明が栄えた。その後この地域は、諸大文明の十字路の位置にあることから、交易による商業が栄えることとなる。イスラーム商人の活躍である。また、この地域は乾燥地帯であり、農業に不向きであったため、イスラーム教を含め、あらゆる諸文化が商業的なものになった。権力者は搾取を自国内の農業からではなく、他文明の支配階級の搾取から得た。したがって、権力者と下部との結びつきは弱かった。これは後に大航海時代に海路で西洋と東洋が結ばれるまで続くが、それ以後は商業性があだとなり、アラブは衰退する。また、632年から1258年まではイスラーム帝国があり、その拡大に軍人も各地を移動した。

  エジプトは全く対照的である。エジプトはナイルの賜物とも呼ばれ、古来より農業国家であった。他のアラブ諸国が商業的色彩を強める中で、ずっとエジプトは農業国のままであった。これは農業生産物の権力者の搾取を生み出し、いわば強力な貢納制を形成した。また、農業国家であるため人々は長年にわたって土着し、内向、自閉的になる。そしてそこで1つの民族が形成されていく。これはどちらかといえばヨーロッパに非常に似ており、早期の近代化が可能だった理由がここにあると言える。逆に他のアラブ諸国では必ずしも土着的でなく、流動性に富み、対外への依存が強いがゆえに、確固たる狭い地域の民族意識を作ることができなかった。エジプト国民が他のアラブ諸国民と異なる点が多いのは、こういった歴史があるからである。

 

4.「カウミーヤ」と「ワタニーヤ」とナショナリズム

今日、アラブのある国の人々に、「あなたは何人ですか」と尋ねても、「アラブ人」という答えは返されず、「エジプト人」、「イラク人」といった答えが返ってくる。同じアラブ人なのになぜか。その理由は3に述べた歴史的経緯にある。アラブの統一性を築き上げたのは国民全体ではなく、イスラーム商人と軍人だけなのである。また、中央集権国家としてアラブが存在したのはたった2世紀あまりであり、モンゴル人やオスマン・トルコによる政治もあった。したがってアラブの上部層と農村、庶民とのアラブ意識には歴史背景から当然温度差がある。つまり、国民の大部分は全体とのアラブはあまり意識がなく、その地域性のほうがかなり大きいと言うことができる。よってカウニーヤがワタニーヤに取って代わることは簡単ではないわけである。また、当然ナショナリズムも、一国ナショナリズムと、アラブ・ナショナリズムとが存在することになる。

各国の一般市民の民族性にはよって差があるが、ここでもエジプトは特殊である。アラブの国々の多くは、威厳があり、儀礼的であり、構えている。対してエジプト人は気さくで庶民的で開放的である。したがって、ナショナリズムの表れ方もよりエジプトに向かうもので、かつ熱いものとなっている。これをエジプトを代表する2人の指導者ナセルとサダトに関係する事例で見てみる。

ナセルはクーデター以後民衆の熱烈な支持を彼が死ぬまで得つづけたが、彼の葬儀は凄いものであった。カイロに集まった人間は1千万人以上、宿泊施設はパンクし、食料は底をついた。このため列車も止まったが人々はつかれたように、馬車、ロバ、徒歩でカイロを目指した。至る所で圧死者が出た。そして、すべてのエジプト人が号泣した。第三次中東戦争の敗北後にナセル大統領が辞意を表明した時にも似た状況が起こった。全員がいっせいにナセルが唯一の指導者と叫びだし、カイロ市内が何万もの人々で埋まった。

これと対照的なのがサダト大統領の死である。彼はイスラーム原理主義者によって暗殺されたが、この時は町は静まり返り、葬儀の会葬者もわずかであった。エジプト国民の非常な一面である。では、エジプト国民はナセルの汎アラブ主義を支持し、サダトのエジプト一国主義を支持しなかったのだろうか。短絡的にそうであるとは言えない。数々の重大な足跡を残した彼の評価は、今なおエジプト国内外で分かれている。

ごく最近の事例を見ると、8月1日付の読売新聞の記事によれば、今エジプト国内ではサダト前大統領の半生を描いた「サダトの日々」が大ヒット中だという。国内にはパレスチナ騒乱の長期化の中で、エジプトとイスラエルとの国交を結んだサダト氏を「平和の象徴」として美化しているといった批判もあるが、このヒットにも、エジプトの強いナショナリズムをうかがうことができる。

 

 

5.アラブから見る民族の捉え方

アラブのこういった歴史は、民族を考える時に、非常に重要な民族の普遍性を我々に与えてくれているように思える。ともすれば、確定されたものと考えがちな民族の概念は、実は極めて曖昧なものであると気づかされるのである。そして、新たにアラブの事例から以下の3つのことが言うことができる。

民族は歴史のあらゆる段階に現れる可能性がある。

確固たる民族の出現には言語の統一や地理的関係が深いといった条件のほかに、国家的な中央機関を管理し、その共同体の生活における経済的統一性を保障する一階級が存在している時に民族が現れる。

民族とは常に一つで一定ではなく、発展もあるし、後退、消滅もある。またいくつかに分化して別な民族を構成することもあれば、それらがまとまることもある。時には民族と言えないような、類似した複数の種族からなる集合体にすら後退することもある。したがって、民族はすでに複数の類似した種族を包含し、統一性を保障する社会階級が存在する時にそれらが集まって民族となる。

  3つめのことをかんがみて、アラブは昔近隣の諸地域を巻き込んで形成されていったが、イスラームとともにイランもペルシャ人の国でありながら、かなりアラブ化していることは認めざるを得ない。

 

  西アジア諸国の見方はいろいろあるが、ここではエジプトを取り上げながら特に民族にスポットを当てて考えた。西アジアは以上のことから単に石油やイスラームなどだけでは決して理解することができないことが分かる。現代の複雑な中東事情はやはり複雑な背景から成り立っており、日本人が陥りがちな、ヨーロッパに影響された単一な見方によって片づけてしまうことは慎まねばならない。中東を見る時にはまた新たな視点からの理解が必要となるのである。

 

参考文献

  小山茂樹著 『現代アラブ思索の旅』 日本放送出版協会、 1992

  サミール・アミーン著  北沢正雄・城川桂子訳 『アラブ民族―その苦悶と未来―』

  亜紀書房、1982