テーマ:専門機関のうちひとつを選んでレポートをまとめよ
選択機関:国際連合教育科学文化機関(UNESCO)
第1章
UNESCOの概要と成立
1.1
UNESCOの概要
UNESCO以下ユネスコ)は全部で17ある国際連合の専門機関の1つであり、教育・科学、文化の面で国際協力を進めながら、世界の平和を実現していく機関である。1945年11月発足し、本部はパリ市内にある。日本は1951年7月に加盟した。
ユネスコの役目は、「お互いの無知や偏見を無くし(国際理解)、国や民族を越えて人々が協力することを学び(国際協力)、人々の友情と連帯心を育てながら、共に生きる平和な地球社会を作っていくこと」とされている(1)。また、ルネ・マウ第5代事務総長によれば、ユネスコの諸事業は、@国際知的協力、A発展途上国向けの具体的支援活動、B倫理的活動の3つの指導理念で裏打ちされていると述べている(2)。
1.2
ユネスコの成立
ユネスコはいきなりできたものではなく、その前身が存在した。それが国際知的協力委員会である。19世紀後半から西欧諸国を中心として、学術や文化の面で、国際交流が積極的に展開されるようになり、学会創設や教育に関する国際会議が開かれた。この背景のもと、1922年、国際連盟はその諮問機関として国際知的協力委員会を設立した。国際連盟事務局次長であった新渡戸稲造は、代表幹事として尽力した。1926年にフランス政府の財政支援のもと、パリに国際知的協力機関が設置され、活動を拡充していくが、第二次世界大戦の勃発により十分な活動をするには至らなかった(3)。
ユネスコの生みの親は連合国文部大臣会議(Conference of Allied Ministers of Education)である。二度にわたる世界大戦による犠牲と破壊は人々の心を打ちのめし、中でも教育の荒廃は未来世代の平和と反映を保障する点でヨーロッパの指導者たちに大きな不安を抱かせた。そこで、第二次世界大戦中の1942年、本国をドイツに占領され、ロンドンに亡命政府を置いていた欧州各国(ベルギー、オランダ、チェコスロバキア、ギリシャ、ルクセンブルク、ノルウェー、ポーランド)の文部大臣はイギリス外務省の呼びかけで連合国文部大臣会議を開いた。自由フランス委員会からも教育相が参加し、このロンドン会議がユネスコの生みの親となった。
会議は、はじめはヨーロッパの教育復興を目指していたが、会を重ねるに連れて全世界の教育復興、さらには教育・文化の国際協力で世界平和を築こうという方向に進展していく。そして、1944年、連合国文部大臣会議は、国際連合の設立を協議していたダンバートン・オークス会議が教育や文化を扱う国連機関の必要を提起していることを知り、それまでの構想に手を加えて、恒久的な教育文化機関を国連の専門機関として設立することにした(2)。
1945年11月1日、イギリスとフランスの両国政府は、国際連合教育文化機関設立のための会議をロンドンに招集した。すでにこの年の10月24日にスタートしていた国際連合の51カ国から44カ国が参加した。当初は科学が明記されていなかったが、イギリスの生化学者、科学史家のジョゼフ・ニーダムが科学を入れるよう訴えた。初めは文化と科学は1つの物だとする反対意見もあったが、広島と長崎に投下された原子爆弾の惨禍の後に、科学の平和利用が火急を要する課題であることが認識され、科学も加えられることとなった。こうして11月16日、国際連合教育科学文化機関憲章が採択された。この憲章の前文はイギリスのアトリー首相と、アメリカの詩人マックリーシュの二人で書き上げられたものとされ、大変格調高い文章であり、ユネスコ設立の理念をうたっている。翌1946年11月4日、20カ国が憲章を批准した時点で憲章は効力を発し、ユネスコはスタートした(3)。
出典:(1) http://www.unesco.org/
(2)野口 昇著『ユネスコ50年の歩みと展望』 シングルカット社、1996
(3)日本ユネスコ協会連盟編『ユネスコで世界を読む 改訂新版』 古今書院、1999
第2章
最近の活動
ユネスコの活動は中央から行われるというよりむしろ草の根的な活動が多い。各国のユネスコの支部が、それぞれある一定のものに重点を置いてそれぞれの活動を行っている。したがって、活動の内容は非常に多様である。また、国際会議が多いのも特徴である。
教育では発展途上国の高等教育機関の充実を目的として、ユニトウィン・プロジェクト(UNITWIN Project)とユネスコ・チェア(UNESCO Chairs)の2つが意欲的に実施されている。前者は姉妹大学関係を中心とした大学間協力、特に、発展途上国と先進国との間の協力関係を重視している。後者は「ユネスコ講座」と称すべきもので、当該ユネスコ講座を設ける大学の関係分野の研究と教育の充実を目的としている。この2つは組み合わさる場合もある。
自然科学では1992年にブラジルで開催された国連環境・開発会議(UNCED)に対して、ユネスコも地球環境問題を学術的見地から扱ってきた国連専門機関として重要な貢献を行った。この会議での結論、アジェンダ21へも、ユネスコは現在フォローアップに力を注いでいる。
人文・社会科学では、1993年開催の第27回総会は、この分野では初めての国際共同研究事業として、「社会変容の管理」(社会変容への対応プログラム)発足を承認した。現在、この事業企画が実施に移されてきている。人権に関しては、1993年、国連主催によってウィーンで開催された世界人権会議に、人権に関する研究や教育の実績を踏まえて貢献を行った。国連の主催によって1995年にコペンハーゲンで開催された社会開発サミットにユネスコは準備段階から積極的に参画した。ポジションペーパーを作成して世界に配布し、本会議で主要課題に取り上げられた教育、健康、文化の問題にも、これに関するコミットメントが宣言の中に含められた。ユネスコはバイオ・エシックス(生命倫理)の問題にも取り組んでいる。近年進展した遺伝子組み換え技術を始めとする生命科学技術をどこまで人間に適用すべきかなどについて、1993年に国際バイオ・エシックス委員会を設け、倫理的、文化的側面など幅広い観点からこの問題の検討を進めている(1)。
その他、細かい活動等を以下に列挙する。
プログラム、プロジェクト
・ストリートチルドレンの教育の実験的プロジェクト(対象国 ナミビア、ギニア、トーゴ、
ブラジル、ロシア、ルーマニア) 1996〜
・世界寺子屋運動(途上国への識字教育) 1989〜
・ユネスコ親善大使制度発足 1991〜
・平和の文化プログラム 1994〜
・World Education Report 創刊(世界の教育動向を分析、2年ごとに刊行) 1991〜
・World Science Report 創刊(世界の学術研究等の動向をまとめる) 1993〜
国際会議
・万人のための教育世界会議(UNDP、UNICEF、世界銀行との合同開催) 1990
・万人のための教育サミット会議(途上国9カ国の首脳参加) 1993
・9大人口途上国首脳会議 1995
・第29回ユネスコ総会、「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」「未来世代に対する現世代の責任に関する宣言」 1997
・高等教育世界会議 1998
・世界科学会議 1999
・世界教育フォーラム 2000
また、ユネスコは2001年から2010年までの10年を「世界の子供たちのための平和の文化と非暴力の国際10年」として、行動計画を実施している(2)(3)。
日本はこれらの活動の中で、とりわけ世界寺子屋運動に特に力を入れていて、活動はJICA(国際協力事業団)と協力して行っている(4)。
出典:(1)野口 昇著『ユネスコ50年の歩みと展望』 シングルカット社、1996
(2) http://www.unesco.org/
(3)日本ユネスコ協会連盟編『ユネスコで世界を読む 改訂新版』 古今書院、1999
(4)http://www.unesco.or.jp/
第3章
ユネスコのユニークさと今後の展望、課題
3.1
ユネスコのユニークな点
ユネスコのほかの国連専門機関と異なる特徴は何といっても活動の幅広さと、民間の活動の重視である。民間、知識人の重視は憲章で鮮明に掲げられている(1)。
ユネスコは国連などと同じく、国が加盟し、国家予算から分担金を払い、総会には政府代表団を送る「政府間組織」である。つまり国連そのもの及び下部機関はもちろんのこと、各専門機関でも、各国の政府が主要な立場にあり、国家同士が中心で、民間はあくまで周縁の存在に過ぎない。また、専門機関では取り扱う分野も世界保健機関(WHO)などのように比較的限定的である。しかしながら、ユネスコの場合は教育から環境、人権、文化などほぼあらゆる分野に及んでいる。このことは、広い活動分野をカバーできるという側面と、文化の名の下にありとあらゆる問題を持ち込まれてしまうという難しさを含んでいる。
ユネスコ憲章に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあり、教育科学文化機関と名前がついていても、戦争を防ぐために設立されたという点は面白い。ユネスコは「国連の良心」とも呼ばれ、各国の利害が政治的に交錯する国際社会において、理想を前面に掲げる数少ない国際機構でもある。最近の活動からもうかがえるように、活動ひとつひとつは地味であるが、この良心の下、幅広い分野にユネスコの立場から確実にアプローチしている。
3.2
国際人権保障に見るユネスコの特徴
ユネスコのユニークな二点を更に際立たせるものとして、私はユネスコにおける国際人権保障のための通報処理手続に注目した。ユネスコは1978年、第104回ユネスコ執行委員会の決定3.3によって、ユネスコ権限分野内の人権侵害に関する個人または個人群からの通報を審査する手続を設定した。人権の国際的実施措置には大きく分けて「締約国による通報制度」と「個人による通報制度」の二方法が注目されているが、ユネスコのケースは後者にあたる。後者は国家を越えて、個人の申し立てを直接機構が審査するというものであり、国家が人権を保障していない場合においても国際レベルで救済が可能な制度である。他に主なものでこれと同様の制度のものは、自由権規約第一選択議定書があり、最近では1999年に採択された女性差別撤廃条約選択議定書がある。
しかしながら、この制度は国家の主権を一部損なうおそれを伴うもので、この制度を含む条約に批准している国は少ない。ユネスコの通報手続は条約上の義務を各国に課するものではなく各国の自発的協力を要請する制度である。したがって救済が十分になされるとは言い難いが、内容は非常に進歩的である。国際法においては各国の思惑がぶつかることで内容が硬直的になりがちであるが、ユネスコはこれと反対に、理想を先取りしたものと言える(2)。
この内容について人権に関する国際法に詳しい宇都宮大学国際学部の今井直助教授に話を聞いた。それによると、以下のことを指摘された。
この制度ができたのは途上国の加盟が相次いだ60年代の後、途上国の内部まで各国の目が向きはじめた1970年代後半にできたもので、当時は人権に関する法的措置への関心が非常に高まっていた時であった。もともと高邁な精神を持つユネスコはその勢いの中でこの制度を作り上げた。それから20年以上たち、その是非について論じられる時期に来たが、ここしばらくはこの制度は活用されていない。それには様々な原因があると考えられるが、その最たるものはユネスコ自体の問題、つまりユネスコ自体が人権関係にあまり本気で取り組もうとしていないことである。人権の問題は各国の政治事情が大きく絡むが、英米の脱退などの後、ユネスコと政治に関わることを避けるようになった背景がある。ユネスコは、この制度を作ったことに安住してしまっているとも言える。内部の官僚的な権力構造も影響している。内容は確かに進歩的であったが、現在では残念ながらあまり注目されないものになってしまっている。
出典:(1)野口 昇著『ユネスコ50年の歩みと展望』 シングルカット社、1996
(2)長尾良子『ユネスコにおける国際人権保障のための通報処理の手続』(『法学ジ
ャーナル第五十八号』) 関西大学大学院法学研究科院生協議会、1991
3.3
ユネスコの展望と課題
ユネスコはこれからどのような展望が見込めるのであろうか。ユネスコの設立当初の理念は述べた通りだが、冷戦を経て状況が変わった50年後の現在においても、その理念、は色あせていない。むしろ、混迷を極めるポスト冷戦期においてより一層大切であるように思われる。それはやはり、平和実現への必要条件が、教育を初めとする個人の開発であることに間違いがないからであろう。地域紛争が頻発する中で、ユネスコは「国連の良心」に立ち返り、解決へ向けて倫理的役割を果たしていくことが重要であると思われる。
課題としてあげられるのは、ユネスコの存在感を高めることと、ユネスコ、NGO、国家の更なる連携であろうと考える。
日本において、名前が似ているということでいまだにユニセフとユネスコの違いが分からないという人が多いということを聞いた。確かに、世界遺産を除いて、我々がユネスコを耳にすることは少ないように思われる。ユネスコは国際機関の中ではとりわけ民間を重んじる機関である。しかしその割には我々との関わりが少ないように感じられるのである。国際化が更に加速している中でユネスコはこの面で一層の努力が必要である。
ユネスコ、NGO、国家の更なる連携についても、ユネスコの柔軟性を考えて提起した。これまでは国家とNGOが協力して事業を行うことはとりわけ日本では決して多くなかったが、民間と国際機関との協力関係を緊密にしていくべき点を考慮すれば、今後の課題として挙げておくべきであろう。