テーマ:国民国家の果たす役割と限界について評価せよ

 

 国際関係論では国家は他国との関係を常に意識するが、私は国家の役割の中心は内政にあると思っている。外交などはその内政をうまくいかせるためにあるものだと思うのである。人間の基本的欲求は自己の保存であるが、これを保障してくれる存在が国家である。国家のはたらきのひとつは秩序を生み出すことであり、絶対的な主権を国内外に持つことによって、ある一定の安定を形成することが可能となる。その下で初めて個人が安心して生活できる。国家、政府の存在意義は個人、企業などの利益をいかに守っていくかにかかっている。これが守れないようではその政府は信用をなくす。最終的には国益の定義にもなるだろう。  

冷戦後なぜ内戦がこうまで増えたのか。今までは大国の脅威があった。多少の不利益があっても常に国際を意識する必要があった。今は違う。国内で自由にやっても基本的には干渉されない。内政が重視されるのは当然である。今まで抑えられてきたものがなくなる。国際経済の結びつきは増す。貧富の格差は拡大する。当然内戦のくすぶりが火を吹く。政府のあり方に対する不満が出てきた結果と言えよう。こうなると国家は単なる枠でしかなくなってしまう。一国家一政府が基本だろうが、こういう状態にない国も多い。少し前のアフガニスタンもそうであった。こういったことから国家とはきちんとした内政の上に存在するものであることがわかる。

国際上で国家の最大の役割は安全保障である。国家の成り立ちの歴史を考えたとき、例えば日本を例にとっても、国家は国際の舞台に立った時常に安全保障と隣り合わせであったことがわかる。日本は島国であり、内部で固有の社会が完成していたので、他国に依存する必要性は決してなかったのだが、国際に身をおいたとき、日本は中国の冊封体制下に入らざるを得なかった。交易はこの緊張化に行われたのであって、国家全体としての主要な国際の関心事は安全保障であった。過去を振り返るとき、もともと国家間はお互いに「ビリヤードボールモデル」的な見方であったことが伺える。国家の内部には関心がいっていなかった。

では、その国家の限界はどこに見られるだろうか。まず、国家の動きは硬直的にならざるを得ない。国民の代表である以上、多くの意見のバランスの上に政権は成り立っている。ということは民主的であり、人口が多い国家ほど、国益の保持の使命は重く、動きは拘束されるはずである。さらに、国家を取り巻く状況はここ百年ほどのうちに急速に複雑になってきている。国家は難しい選択を迫られることも多くなった。そういった問題の変化を前にしても、国家の硬直性は変わることができなかった。したがって問題に国家が主体的に関わり、解決できる場面も減ってきたのである。その問題への解決の要請にこたえるのがNGOであった。NGOがより増え、重要性を増している背景には、市民の成熟とともに、問題の広範化、複雑化がある。

ここ最近は特に経済の重要性が増すようになり、政治の主要なテーマも、サミットに見られるように政治から経済に移っているようである。しかしながら、国家はその経済の主体にはなっていない。現在の経済の主体は民間であり、政府抜きでも経済は動く。経済の主体に国家がなっているのは社会主義のケースであるが、これも最近は主流ではなく、中国などのように市場経済を導入せざるを得ない状況になっている。国家は再分配という仕事では最高の仕事をするが、それ以外では民間の果たす役割にはるか及ばない。そして、政治と経済は別のベクトルで動くのが国際経済学の基本的な考え方である。国家の中に存在する政治と経済、これが相反するベクトルに乗りつつもそれぞれが成熟したところに様々な問題が生じている。金融のいっそうの発達、多国籍企業の増加に必ずしも政治はついていくことができていない。

また、国連への更なる期待、あるいは国際機構の増加は国家の限界を認識した上でのことであろう。もはやこれらなしに国際社会は考えられなくなってきている。国連がこれまで維持されてきたのも、国家の手に負える範囲が限られてきたこと、そしてその必要性を認められたからに他ならない。

国家の主要な役割である安全保障も今回のテロの前にはなすすべもなかった。実際のところテロの手段はいくらでも転がっており、軍事力を持たずとも実行可能である。アメリカは我を忘れたかのように、大人が子供にからかわれたのを、顔を真っ赤にして殴りつけるかのごとくに報復行動に向かったが、それは失礼な言い方だがどこかこっけいで、空しく見えた人も多いだろう。結果的にアメリカの軍事力を見せつけ、勝利に終わったが、汚名は返上できるものではなかった。

国民国家として、アメリカが最も成功した国であるということは疑いのない事実であることが、国家の持つ大きな役割、つまり内政と国益の維持、そして安全保障という点で捉え直してもわかる。国内では国民にあらゆる自由を与えて夢の国を作り上げつつ、安全保障という点では他国に追従を許さない。アメリカの覇権はこの二点でゆるぎないものであったから成り立ったものであろう。しかし、そのアメリカのせいで不利益を被った国としては許しがたい存在であろう。今回の同時多発テロの一因がここにある。それが国家の限界なのである。国家として最高の出来であるはずなのに、万人に最高の国だとは思われていない、むしろ最低の国と思う人もいる。自由主義原則を基本におく国家が現在の世界の中心にいる中で、テロ国家とみなされている国はみなそれと逆の路線にいることもわかる。イスラームの思想もアメリカの思想とは逆を行くものである。現在主流の自由主義経済システムは覇権国が必要である。そして、必然的に生まれてくるものでもあろう。しかし、その覇権国の存在を良しとしない人が大勢いる。

国家が国際社会において最大のアクターであることは疑いがないし、今後も続いていくだろう。民主的であるという前提であれば、国民の代表という位置に国家が存在しているということを見逃してはならない。国家が主体で当然とも言える。しかし、国家自体が妥当で正当なものによってすべて形成されてきたものばかりではない。東ティモール、北アイルランド、植民地の残像が残る国境線などを見ても、国家とはそれほど明確なものでなく、むしろあいまいなものであることには注意する必要がある。

情報技術が発展して誰もが世界の情報を知ることができるようになり、グローバリゼーションの流れが加速している。国際社会の混迷の度合いはますます深まっていくと予想される。こういった中で国家の役割はより限定され、限界も増えていくことであろう。