テーマ:テキスト(講談社現代新書 ドゥルーズの哲学)を補足・補完するような議論を具体的に展開せよ

 

さて、テキストを補足、補完するというのだが、原書にも触れず、テキストのみが対象となるので、細かいところには踏み込まない。ここでは、恐らく現代の最も面白い分野である生命工学、進化について述べることにする。

ものの本質を捉えるには、それをおこさせている差異、微分的なものに問わねばならない。だが、その微分的なものは、数学的にしか現れず、けっして解けるものではない。周りのすべてのものが解けない微分方程式の解を出しながら、結果としてリアルになっている。ここで、その微分的なものを最も含むもの、その結晶として、受精卵、胚細胞に注目したい。なぜならば、それはたった1ミリ程度の大きさのものが、無から次々とリアルになっていくものだからである。細胞内部そのものが場となって機能し、顕在的に、ものすごい速さで分化していくのである。分化するということは解を出すことである。生きていることへの、種へのリアリズムを見つけるには、まさしくここから見出すほかはない。微分的なものを生み出す「場」を血眼になって探す必要はない。場はここに存在している。慎ましく、そしてひたすらここから学べば良いのだ。

次に、進化について考える。進化とはよく漠然と、羽が生えることだったり、二足歩行をすることだと考えられがちである。しかし、進化は種単位でおきるものではない。種と呼ばれるものから違うものが枝分かれしていくことである。進化とは個体内部でおきるものであり、パーツであり、それは場である。言い換えれば、我々が今生きていることが、すでに進化を内在させていることになる。進化を問うことは、我々を問うことであるとも言えよう。私は、進化を問うことは、差異を問うことであると考えている。私と彼がいる。生まれた場所が違う、住む環境が違う、行動が違う。山ほど差異がある。その個体が生きていくために絶えず体内で反応が起こる。それは生活によって変わる。その進化の結果が耐性であったり、時にガン化することであったりするのだ。

私と彼が違うことは何を意味するのか。それは述べたように、とりもなおさず進化を意味する。生物が変わっていく、進化すること自体を拒む人はあまりいない。しかし、ここからアンチ中絶という考え方が一般的になる。なぜ堕ろすのか。寿命が短いからか。生活に不自由だからか。面倒を見るのが大変だからか。これは、生まれるべき人間には大変失礼な話である。神はすでにそれを「リアル」なものにし、現に生きられる体である。解が出されたものなのである。先ほどのべたように差異が進化を意味するならば、中絶は進化を否定していることになる。現在の観念のみで判断するので、それは邪魔者扱いにされるだけである。私は、この世でいわゆる障害者と呼ばれる人たちは、不完全な進化の一形態と考える。科学は浮世離れしているので、それを純粋に注目すべきものとして扱うわけである。多くのなぞを解く可能性があったものが、科学者の、ある意味宝が何も知ることなく、知らせることもなくこの世から何万人と抹殺されてきたわけである。事実はここに述べているが、堕ろした人を責めることができないのが、現代社会のシステムである。私もあえて責めようとはしない。

  ここに、場と差異、進化について、考えついたことを書いていった。つまりはこれらのなぞを解く鍵が、接合子、受精卵にあることははっきりしたわけである。現代で生命工学を探求することは、優生学的側面も大きいが、これら多方面でも大きななぞ解きとなれる分野なのである。したがって非常に興味深い分野といえるわけである。