岩波新書『市場主義の終焉』佐和隆光著 を読んで

 

序論

21世紀を迎え、世界の経済状況は大きく変わろうとしている。97年には金融の魔力からおきた東南アジアを中心とする通貨危機。株式市場にはすでに登場し、貨幣として市民の通貨となる日も目前のユーロ。バブル化したアメリカ経済。IT革命の到来。日増しに懸念が強まる環境問題。ここ数年は経済界にとっても激動の年だった。80年代、万能視され、世界の経済情勢を変えてきたのが市場主義であった。しかしながら、今となってはかつてのような期待もややさめているように見受けられる。あらゆる面で転換期を迎えている今、果たして、その変化に市場主義は耐えうるのだろうか。そして、これからの新時代で必要とされるものとは何が考えられるだろうか。『市場主義の終焉』を元に考察していくことにする。

 

第一章:市場主義と反市場主義

まず、この章では市場主義と反市場主義の考え方を確認する。

市場主義とは、市場の力を万能視し、政府は市場になるべく介入せず、自由放任にする考えである。この考えは、人の理性で経済は変えられないのだから、自然に任せておく方がうまくいくという考えに基づく。「個々人が私利私欲を追求するに任せておけば、社会全体の福利は最大限達成される」という理論だ。徹底的な弱肉強食とも捉えられる。また、大抵保守派がこの主義を取る。

対して反市場主義とは、市場とは不安定なものだから、政府が介入して修正すべきであるという考え方である。介入の仕方は主に、財政金融政策と累進所得税制である。したがって言い換えれば大きな政府とも言える。これを具体的に示したのがケインズ経済学であり、比較的平等を目指した考えである。保守派に対してリベラル派がこの主義を支持してきた。

市場主義が脚光を浴びたのは主に80年代であった。イギリスのサッチャー首相によって進められた民営化、規制撤廃の政策が、経済を刺激する効果があり、成功したからである。この政策はサッチャリズムと呼ばれる。また同時期に、アメリカでレーガン大統領がレーガノミクスと呼ばれる開放政策を取り、日本でも中曽根首相による民営化路線が取られ、いずれも成果をあげていた。それまで市場主義は忘れ去られていたが、復活したのである。その背後には、平等を基調とする社会主義の非効率性が目立っていたことがある。ところが、これは予想されていた通り、所得格差拡大と公的教育、医療の荒廃を招いた。市場主義そのものが、完全能力主義に立脚しているからである。市場主義者の言い分はいつもこうである。「貧しいのは能力がないからだ。セーフティネット上で最低限の生活をしてもらうほうが効率的だ。」「平等は働く意識を喪失させ、依存の体質を生む。」確かにそういった面はある。しかしながら、不運などによっても事態は大きく変わるし、そもそも完全能力主義という言葉自体が実現できるのか怪しい。そんな不安定な生活が目指すべき道であるのだろうか。加えて、保守派は、その名の通り自国の文化や慣習を守ろうとする向きが強いが、市場にすべてを任せると、その暴走によって既存慣習が崩れていくという矛盾を含んでいる。両立はいずれ困難になってしまうのである。

この市場主義路線はすでに1つの答えが出ている。ヨーロッパでは、多くの国で中道左派 (社会民主主義) 政権が多く誕生していることから、NOという答えが出ている。あたれば儲かるが、貧富の格差を生む制度に世論が嫌だと言ったのである。そこでイギリスのブレア首相は、市場主義と反市場主義とを合わせた、第三の道というのを模索している。

 

第二章:現在の経済を取り巻く状況と問題点

先に述べた通り、現在は大きな転換期を迎えている。現在の経済を取り巻く状況はどのようなものか。ここから生じる問題点、障害はどのようなものかいくつか考えてみる。

まず、何よりも急速にグローバル化が進んでいることが挙げられる。情報技術の進歩によって、誰でも世界的にそして瞬時にお金が動かせるようになっている。IT革命である。その結果起きた現象のひとつがタイバーツの暴落による通貨危機であった。グローバルしたぶんだけ、リスクも巨大なものになる。アメリカのひとり勝ちの原因はここにある。現代で世界の主要テーマとなっていると見て良い。

人によってまちまちであろうが、私は最大の注目すべき点として環境問題、自然との共存を考えている。それは単に地球温暖化が進むからなどということではない。これは、人が求める、経済的豊かさではない豊かさ、いわゆるポストマテリアリズムへの関心の高まりと、永久的なエネルギーの入手にもかかわることでもある。1997年、国連気候変動枠組み条約第三回締約国会議(COP3)、いわゆる京都会議で、先進国41ヶ国に二酸化炭素排出を減らすことが義務づけられた。国家目標に環境保護が加わったのである。これは今までの文明を根本から考え直すことにつながる。エネルギー面でも、有限、有害を気にすることなく使える、まさに新時代にふさわしい無限エネルギーが本格的に望まれはじめているということだ。

また、ほかに途上国の経済発展に伴う、供給過剰現象がある。今までは、先進国は生産物を途上国に輸出することで発展してきた。しかし、アジアを中心に、途上国が今急速に経済発展を続けている。近い将来間違いなく生産物、そして労働者の供給過剰が起きる。これは相対的に市場が狭くなり、かつ競争者が増えるということで見逃せない点である。

さて、これらのことが、ただ野放しの市場に任せっきりであれば、どのようなことが起きるだろうか。やはり、筆者の言う通り、国家間、個人間の差がとても広くなり、途方もない数の敗者、弱者を生み出すことだろう。当然これは不満、争いのもとともなりかねない。市場主義はあくまで強者の論理と言える。

 

第三章:新時代における経済発展の展望

  第一章、二章を踏まえ、この章では何に注目すれば経済を発展、維持できるのか考えていく。

まずは現在進展中のIT革命から考える。日本政府も、首相を筆頭に絶えず標語のように口にするが、確かに新時代の鍵を握るものであることに疑いの余地はない。IT革命の特徴としてあげられることに、時間の概念の変化と、情報発信の主体が拡大することがある。今までは行動と結果に時間差が生じたが、今や数秒で結果が出るようになった。また、取引が個人間で行われることも多くなり、国の存在が薄くなってきている。これは多方面で全くこれまでの感覚を変える性質のものであるから、少なくとも後れを取らないようにすべきであろう。すべて先手を取られ、時期を逃がすようではすべての分野で力が発揮できなくなってしまうことにもなりかねない。

労働力過剰には何をもって対処すべきだろうか。まず効果的なものにすみわけが考えられる。人件費等の問題で、もはや先進国は基本的もの作りでは途上国に勝てなくなる。したがって、より先端の技術を使ったハイテク産業や情報・通信産業に主力を移さざるを得ない。統計によれば、現在の日本で、労働力の供給不足があるのは通信分野だけである。すでに他の分野では他国に負けているところが多いということでもあろう。人間の豊かさを実現する方面へ力を注ぐことも効果的かもしれない。ともあれ、違う需要を見つけるなどして、共倒れにならぬよう気をつけねばならない。

最も注目したいのが環境についてである。環境に敏感になっているということは、逆に言えば大きなチャンスでもある。途上国を中心に環境への配慮を無視しようとする国もあるが、人類の健全な存続には、近いうちに否応無しにつきつけられる性質のものであるから、必ずや必要とされるものであるといえる。かつて石油危機の時に、日本は技術によって、それを転じて福となした。これも同じことが言える。最先端技術で環境問題を解決できるものもあるはずである。日本はこの新しい分野にもっと目をむけてみてはどうだろうか。環境配慮による、現在へのマイナス面を数えていても意味がないのである。

以上のことがうまくいけばひとまず問題はないと思われるのだが、これには、戦後引きずってきた、日本特有の不透明な構造を改革しなければならない。しかし、注意しなければならないのが、アメリカの後追いの猿まね改革と、規制緩和である。改革は日本の文化に即しつつ、良いものは残すべきである。また、より次の時代を見越して改革をしていかねば、役に立たない、意味がない改革となってしまう。ここで佐和氏は日本の失業者をなるべく出さない慣習が最も良いものだと言っている。このよい点については、野村正實『雇用不安』岩波新書、に詳しく出ている。また、そこで野村氏は大店法を例に出して、安易な規制緩和に警鐘を発している。そこにあるのは弱肉強食の市場主義的路線である。

 

結論

これまで見てきたことで、市場主義は大きなリスクを伴い、危険なものであることが分かった。また、グローバル化に伴って、勝者と敗者の差の拡大、不確実性の増加によるリスクの増大、人間としての豊かさを求める潮流に対処できないなど、新時代において不都合な点が多く、適していないことが明らかになった。負担があまりに大きすぎるのである。

これからの時代には途上国が成長することで、それぞれ生き残りが大変になるのは確実である。また環境、人権など、ポストマテリアリズムへの欲求もますます増えていくであろうから、これらの要求を満たしていけるようになることが必要となる。当然、IT革命もいずれ一般的になる。したがって、それらの発達を妨げないだけの構造改革をしなければならなくなるのである。そして、より大切なのが、的確に状況を見据え、次の時代を見越した、自国に合った構造改革を進めることなのである。