コミュニケーションと文化
学籍番号000104 板倉世典
文化の壁として、文化の最大の特徴としてあげられるのが言語である。意思疎通を阻害するものとして時に邪魔者扱いにされることもある。最近では英語の日本第二公用語論が賛否両論を生んでいる。僕も大学に入学して、中国の留学生と話をしたが、彼の流暢な日本語に、言語とはこんなにも意思疎通、すなわちコミュニケーションを円滑にするものかと改めて感心した。
握手に拍手、芸術、ボディランゲージなどは文化を越えて通じるというが、それでも本当にお互いを理解するのは難しい。コミュニケーションに言葉は必要とまでは言わずとも、ある程度お互いが接近すると、必要性を感じてくることになると僕は思う。
さて、僕は彼と話し終えた後、ある事に気がついた。僕はもともと話し上手ではなく、相手にあわせるタイプだったが、今回の留学生との会話も、日本人と話すのと同様、相手を引き出す会話ができずじまいで、沈黙が多くなってしまったのである。結局自分の内面を、文化を越えてさらけ出してしまった。言語、習慣の違いはあれど、会話をするのは世界共通のことである。その共通性の中では、人は裸に近くなるのだ。
文化の違いでコミュニケーションに支障が出る状況には、僕はまだ言語を除いて出会っていない。テレビでの外国体験記でも、越えられないような文化の壁は、お互いが強制するものでもない限り、あまりないようである。ならば、相手と何かをするだけで交流が成立するとすれば、ありのままの自分を、精一杯身振りなり態度なりで示せば、たとえ言葉はなくともかなり通じ合えるものなのではないだろうか。その意思疎通には、文化の意識よりも、積極性等の文化にとらわれない自己開発がより重要だと思うのである。
外国人との交流にはしばしば消極的な日本にも、国際化の波は確実に押し寄せ、近々外国人と会うのが自然になると思われる。
僕は文化に身を縛って特別の位置づけをせず、人間としての円滑なコミュニケーションのあり方を先に考えたほうが、逆に異文化間のコミュニケーションが豊かになると考える。