課題1 :「武道の気・身体理論」についての考察のまとめ

 

〇武道の修練と十人十色について

講義ではよく各個人の違いを重視した話、いわゆる個性と、十人十色の必要性が話された。各個人はよく十人十色というが、実際にそうであろうとすることは大変だという話である。私はそれ聞くまで何とも思わなかったが、実際そのとおりである。私は彼とは違う、みんななんとなくそう思っているが、現実に自分の色を鮮明に放っている人は少ないように思われる。

武道では一般にある決まった型があり、それをまずできるように練習するものが多い。私が修練している弓道はそうだし、私の知る限り、柔道、剣道、合気道、相撲等皆そうである。では、武道では個性を嫌うものだろうか。私の経験上、同じように稽古し、一つのやり方に沿っても癖は出てくる。中には悪癖もあるので、矯正していくが、やはり癖は残っていく。その結果、成績にも変化が出てくる。これは忌むべきことといえるのだろうか。

私はそうは思っていない。なぜなら、生まれ落ちた時から人はみな違っているからである。骨も違えば筋肉も違う。背の高さも体重も違うのである。これは短所がある反面、長所もあるということである。高段者の特に七・八段クラスの演武にはいつも感心させられるものだが、またその方々はのびのびとしているのである。そしてみな違う味があるのだ。洗練された個性とも言えるような味なのである。

みな十分に個性が引き出せ、色を放つというのは武道の見地からしてこうしてみても難しいことがわかる。しかしながら実現できた時の素晴らしさは個性のないものとは比にならない。よって、武道の目標の1つとは、いかに自分の色を出せる境地に至れるかということであると考えられる。

 

〇鍛練の6過程、守・破・離と快感について

講義で鍛練の6過程、守・破・離についての説明があった。これによって自分の上達程度が、武道に限らずわかるとのことであった。また、鍛練の過程では快感を生むところもあるという。

6過程の初めはどうにかやれた、面白いという段階だが、まずこの段階に至れるかである。人によってはここで快感を得られずに、やめてしまうものもいよう。2段階はできるが疲れる、つまらなくなる段階だが、ここでやめるかが分かれ道である。ここで練習を続けられるかは、友人など環境によるものが大きいようである。部活動でやめる者が出てくる6月くらいのことだろうか。1つの物だけではつなぎとめられない段階である。3段階が快い動きが出はじめ、自分のチェックができる段階だが、この段階がいわゆる「はまる」状態である。いかにしてうまくなるかがようやく分かってきて、楽しく、快感も得やすい。4段階の集中してリラックスできる段階も3段階に準じる。しかし、5段階の意識しなくともできることがある段階になると、同時に自分も見失いやすく、またスランプにもなりやすい。ここからが正念場というところである。これを克服した者が自動化定着の最後の段階に至り、他人の目を引くようになれる。また、スランプに陥り練習がつまらなくなるのは、うまくなろうとする直前の現象だから、頑張って続けよという言葉があるが、確かに克服した時には快感であるので、次の練習の原動力になるし、1つの弱点がなくなったことでもある。したがって、この言葉は真実をついているし、大変励みになる言葉である。

次に守・破・離についてであるが、私は前の6過程のうち5段階までを守の段階であると考えている。無意識のうちの成就も、基本を修めれば必ず可能になることであるからだ。私の見る限り、段では全十段のうち二、三段くらいがこれにあたろうか。周りから見ても動きに思い切りが良く、あまり体をいじらないので、それはそれで美しく見える。しかしながら、本人は大抵まだまだだと感じるので、自分であれこれ試行錯誤しながら技を磨いていく、破の段階に入っていく。書道などでも経験があるが、自分で作り上げるということは模するよりもはるかに難しく、できも思うようにならないものである。段では四段から六、七段くらいにあたろうか。傍目から見ても、流れは良いものの、どこか勢いがない。心得のない者には、二段の人が五段の人よりうまく見えてしまうこともある。もちろん修練を積んだだけ技術も知識も比べ物にならないが、一種の迷宮入りともいえる状態であるだけに動きにも迷いが見られる。しかし、この段階を経ないと離の段階には至れない。試行錯誤が実った時の技はその人に合ったすばらしいものとなる。その美しさは守の段階の人とは違う感動を与える。これは八段以上の境地であるように思う。ここにきて6過程の最後の段階にようやく至るのである。

  したがって、すべての過程の原点は模倣にあると言える。また、その過程のほとんどが模倣から始まるのである。人まねは良くないというのは全く見当違いのことで、しっかりと、真剣にまねをすることにこそ、上達の道が開かれるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題2:授業についての印象のまとめ

 

〇空間の選択について

「空間の選択」言い換えれば「行動の選択」とも言えるだろうか。これは私が大学に来て、話を聞くまで考えたこともなかったことだ。実際は、幼稚園、小学校、中学校、高校と、自分でたいした選択をせずともやることが決められていたので、自覚することがなく、必要もなかったからかもしれない。しかし、意識し始めると、いかにそれが重要な選択であるのかがわかった。大学の環境のせいもあるだろう。

「あなたがこの講義に来ているということは自分で選択したということです」「ただ漫然と毎日を過ごすこともできれば、同じ時間で生き生きとした時間を送ることもできる。すべてはあなた次第です」

この言葉を聞いてから私は絶えず自分の行動、選択を意識するようになった。「ああ、この時間がもったいなかった。あの時あれができたのに」と、ひととき、ひとときの重みが実感できるようになった。これからはしばらく選択しつづける人生に気づいた自分。社会に出てからもそれは続くが、時の制約の中の選択はさらに重みを増すことだろう。武道とは直接関係ないかもしれないが、このことは自分の人生を動かす大切な実感であろうと思う。これからも、時の重み、今を自覚して生活しようと思う。

 

〇なぜ武道修練に励むのかについて

剣道の八段審査のビデオを授業で見ることがあった。私と同じ弓道部の一人もこの授業に出ているが、彼女はそのビデオに出ていた一人のおじさんの顔にいたく感動していた。私も、なかなかこんな顔には出会えないし、なれないと思いながら見ていた。先生は一言、人間はこんな顔をするために生きているんじゃないでしょうかとおっしゃった。

「剣道即人生」弓道でも「弓道即人生」という言葉がある。この時、私はこのおじさんはまさにこの言葉の言う通りの状態にあるのではと思った。喜びも悲しみも修練から生まれる、ということもあろうが、人間を作り上げるということでもこの言葉に至れるのだと思う。ただ漫然と毎日を過ごすだけではこんなすがすがしい顔になることはないし、忙しく、あわただしい毎日を送っている人からも、あまりこういった顔は見ることがない。前者は覇気のない、生き生きとしてない顔であることが多いし、後者はいつも硬い表情で、どこか疲れた顔をしていることが多いように思う。しかし、このビデオのような場面やオリンピックなどでこの豊かな表情を見ることがままあるということは、スポーツや武道にはどうも人を活かす力があるように思える。つまり、自らの意志で体を使って頑張り、挑み、達成するということは、人間にとって最も喜びと快感を与えるものなのであろうとこのことから思われる。

私は今まで真剣に、なぜ自分は弓を引きつづけているのだろうということを考えたことがなかった。今のところ、単に上手になって中てたいということと、中ることは快感だからという理由に過ぎない。しかし、実は知らぬ間に私は、この武道の人を活かす力に引かれているから続けているのかもしれない。これからは、こんな素敵な顔になれるよう、より身を入れて稽古に励もうと思う。

 

〇自己開示論と自己見解形成について

この授業をとる前は、たいそう難しい理論を話されるのだろうと思っていた。しかしながら、基本的には先生の自己開示と学生の自己見解のやり取りである。少し意外であった。自分の考えたことをいかに文章にするかを毎回求められ、武道とはつながりがないように思われたからである。しかし、この形式は授業に緊張感を生み出した。先生は初め、「私とあなたがたは師弟関係になった」とおっしゃった。私たちは師の言葉ひとつひとつに注意を払い、自分なりに理解しようとする。先生はそれを読んで次の講義をする。まるで師と弟子の問答である。こんな授業は生まれて始めてだったが、何気ない普段の話から、何をくみとるかという訓練になったと思う。

私が弓道を修練するにあたっていつも思うことに、ヒントは何気なく散らばっているということである。私の不足しているところをすべて書いてある本はどこにもないし、人からの教えも、完璧ではない。上達するにはいろいろなヒントを本、先輩、あるいは日常生活から見つけ出さねばならない。しかし、これは大変骨の折れることである。この講義では、内容ばかりでなく、このことにおいても私にとってプラスになったように思う。