要約

 

 現在全国には15の地域に合併協議会が設置されている(1999年11月1日現在)。協議会設置には至らずとも、何らかの合併に関する動きを見せている地域は100を優に超える。市町村合併がここにきてこれほどまでの動きを見せている背景には、中央集権型国家体制からの脱却、そして地方分権体制への移行における受け皿作りがある。

 第一章では、地方分権論の台頭と題し、合併の前段階にある政治システムの変化について論述する。まず第一節で前システムの弊害を地方行政の観点から見て取り、そこから新システムへの移行と、その時新しい政治システムはいかなる方向に向かおうとしているのか第二節で論述する。

 第二章では、市町村合併がなぜ地方分権論体制を構築する上で必要であるのか、3つのテーマを挙げ考察する。まず、「三割自治」に代表されるような現在の弱体化した地方公共団体について、問題と解決方法を簡単ではあるが挙げてみる。続いて、平成における市町村合併の特徴を、地方分権の受け皿作りという観点で見ながら、自治省の、中央政府のスタンスを記載する。最後に地方分権体制の受け皿として市町村合併と同様に注目されている広域連合について論述する。

 第三章・第四章で実際に合併構想が動き出している地域を二つ取り上げ、その是非について考察していく。第三章では、埼玉県に新たな政令指定都市を構築することをその主目的としている、浦和市・大宮市・与野市における合併構想を、第四章では栃木県南部の栃木市・小山市におけるそれを取り上げる。全国には数多くの合併に関する動きがあることは前述したが、その足並みはばらばらである。各地域における合併問題は地域ごとに異なり、合併構想が存在する数だけその問題点も存在する。合併に対する動きが対照的な二地域を挙げ、その問題点を考察することで現在の市町村合併の問題点を探っていきたい。

 前述した資料を元に、第五章で21世紀を担う政治・自治体システムを考察していく。第一節では、中央集権型国家体制から地方分権体制へと政治システムが移行した場合どのような歪みが生じるのか、そしてその中で、国・県・市町村の各政治機関にはどのような問題が存在し、その解決を計っていかなくてはならないのか考察する。そのテーマを第一節とし、第二節ではその体制を受けとめるために、市町村合併とはどのような位置づけをしていかなくてはならないのか、考察する。

 

『地方分権政策における市町村合併の役割』

 

  目次

 

はじめに

 

第一章 地方分権論の台頭

第一節      中央集権型国家の公益と弊害

第二節      地方分権体制の目するところ

 

第二章 地方分権の受け皿としての合併

第一節      弱体化した地方公共団体

第二節      平成における市町村合併:地方分権の受け皿

第三節      広域連合

 

第三章      浦和市・大宮市・与野市における合併構想

問題意識

第一節      概要

経過

浦和市・大宮市・与野市の特徴

第二節      合併が進展しやすい要因

地域の一体性

行政の効率化・スリム化

第三節      合併反対論

4市1町合併構想

民意の反映

 

第四章      小山市・栃木市における合併構想

問題意識

経過

第一節      合併が進展しにくい要因

地理的要因

栃木市・小山市の特徴

第二節      合併反対論

合併先進県栃木

隣接した市町村との連携

 

第五章      21世紀を担う政治システム

第一節      国・県・市町村が果たす役割

第二節      市町村合併を住民のものへ

 

おわりに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 これまでの全国の画一的な行政システムは、戦後日本経済の復興に多大なる成果をあげた。おそらく今論議されている地方分権という考え方が当時実施されていたら、現在の我が国の発展はなかったであろう。中央と地方という分け方をした場合、一元的な中央集権国家体制というものが絶対的な悪で、それに対する地方分権体制が絶対的な善であるという結論は正しいとは言えない。問題はその時々の国力や国民の生活水準や様式を材料に、当時必要な政治体制はどういうものであるのかを模索していくことである。

 

 日本はこれまでに二回の大規模な市町村合併を行なっている。明治初期、71、000余りあった市町村は、1889年の市町村制施行で約15,000、5分の1以下にまで減少している。その後、1953年の町村合併促進法施行で更に3500にまでなる。

 明治の大合併には封建制国家からの脱出、昭和の大合併には民主的な文化国家の建設という時代背景がそれぞれあった。しかし、この二つには国家主導型で行なわれたものであるという共通点がある。時は平成となり、また新たな合併劇が繰り広げられようとしている。その時代背景として、以下のものが挙げられる。

@戦後最悪の不況、財政悪化に対するコスト削減。

A来たるべき高齢化・少子化社会により生じる問題への対応。

B中央集権国家体制からの脱出、地方分権政策の受け皿論。

 しかし、現在の市町村合併は住民主導型を促す方向で今まで動いている。第24次地方制度調査会の答申には住民発議制度の創設が盛り込まれており、有権者のうち、50分の1以上の署名で合併協議会の設置請求が行なえる。合併という当該地域住民の生活に多大な影響を与える問題の意志決定に住民自らが参加しうることは、民主主義の観点からすると良い方向に向かっているといえるが、果たしてそこにはどのような問題が存在するのか。

 財政の効率化と住民に対するサービスの維持という、対極にある両者のバランスをどうとるのか。地方分権の受け皿としての市町村合併が推進されているのも事実であるが、一部ではそれを重圧と感じる地方公共団体もある。現在の政治システムは、教育や福祉、科学など様々な問題を生じさせており、その解決の糸口の一つとして地方分権論が持ち上がっている。

 果たして21世紀の地方はこの提案に対してどういう体制で望むべきなのか。市町村合併とはその政策を受けとめるだけの資質があるのか。実際に合併が議論されている幾つかの市町村を例に挙げ考察してみたい。

 

第一章 地方分権論の台頭

第一節 中央集権型国家の公益と弊害

 欧米先進諸国に追いつくための経済成長、福祉国家の建設とそのための運用機関の確保など、国家レベルの目標を達成するためには、中央集権システムにもとづいた画一的な行財政運営が有効であった。

 実際、戦後日本の経済発展は業界ごとの保護法(業法)を制定し、官僚制に仕切られた市場を作り上げてきた。他方、各省庁は経済発展のための条件整備にむけて、自治体の事務・事業を機関委任、補助金、政府融資などによって統制するとともに誘導してきた。土地利用規制における統制やコンビナート建設のための補助金や融資などはその典型と言える(注1)。

 こういった体制は日本を世界第2位のGDPを持つ「経済大国」へと押し上げる結果となったが、同時に歪みも生じさせてしまう。その歪みについての論議はさまざまなところで行われているので、ここでは特に地方行政への弊害という観点を示したい。(注2)

@国への財政依存は地方の陳情行政を一般化してしまった。そういった状況は地域の課題に主体的に取り組む機会を地方から奪い、同時にまた地方もその課題解決の努力を怠ってきた。

A中央集権的意思決定システムによる画一的なサービス供給は、住民のサービス需要がある程度共通している場合においては一定の効果をあげることができた。しかし、彼らの選好が多種多様となった今日の場合、そのシステムは必要のないサービス供給まで行なってしまうことになる。

B行政の画一化によって需要される側(住民)の選択の自由が厳しく制限されると、供給する側(地方公共団体)で自己改革する意欲が失われ、サービスの質や行政効率が低下してしまった。

 第二次対戦後、未曾有の混乱期にあった日本経済をここまで発展させ得たのは紛れもなく中央集権的な官僚システムである。しかしある一定の社会水準を持つに至った今日においてそのシステムは終焉を迎えるべき時期に来ているのだろう。

 そこで次なる政治システムとして地方分権が謳われている。しかし、あまりにも強大な前システムは地方からその自治能力を奪ってしまったという事実も存在する。一部地方公共団体に、地方分権体制による権限の委譲に対する不安の声があるのも事実だ。この能力を回復するのには多大な労力と犠牲を必要とするだろうが、わが国が真の豊かさを追求しようとする限りそれに対する努力を怠ってはならない。

 

第二節 地方分権体制の目するところ

 前節において、中央集権体制から地方分権体制への移行について記述したが、この体制はどういった社会像に対応しようとしているのだろう。主なものとして3点挙げてみる。(注3)

 第一点に、高齢化社会の到来がある。65歳以上人口が全体の7%に達した段階を高齢化した社会というが、日本では1970年にその段階に入った。その数字は現在なお増え続けているが、一口に高齢化といっても65歳以上人口が依然として7%に留まっている地域もあれば、すでに40%を超える地域もある。このような状況の出現に対し、全国画一的な基準を設けたサービスの提供はもはや不可能である。

 第二点として、地方分権は政治改革としての一面も持っていることが挙げられよう。肥大化した集権体制と、55年体制による一貫した政治システムは政治腐敗の温床を作ってしまった。政治改革は、政治資金の規制や政治倫理の確立、選挙制度などの中央政府の改革に限定されないものとして考えると、地方分権改革が政治改革の有力な支柱として認識されるのはある意味当然であると言えるのかもしれない。

 最後に、中央政府の国際化を挙げてみたい。中央政府主導の近代化はその姿を内政重視型にしてしまった。その結果、中央政府の国際社会への的確な対応を不可能にしてしまう。国際社会において日本がどのように存在するべきかというかについては多くの議論があるが、その前提となる国際社会の情勢をまず中央政府は的確に把握しなければならない。

 もし現在の日本が不況下でなかったら地方自治と言うのはこれほど盛んに議論を巻き起こさなかったのかもしれない。しかし、どちらにしろ、遅かれ早かれ中央集権的な政治システムは国家が成熟していけばいくほどにその限界を露呈させていただろう。幸か不幸か行財政改革が国家の至上命題となり、その旗頭として地方分権が謳われている。前述した未来像は、果たしてどのような形となって我々の前に姿を現すのだろう。

 

第二章 地方分権の受け皿としての合併

 

第一節 弱体化した地方公共団体

 わが国の地方自治の不十分さを象徴する言葉として「三割自治」というものがある。地方公共団体が行なっている事務・事業の内で地方独自のものは三割に過ぎないと言う意味で用いられることもあるが、地方の自主財源である地方税が収入全体に占める割合は三割に過ぎないと、という意味で使われることが多い。

 表1は全地方団体を、地方税のウェート別に分類したものである。都道府県でも20%未満が15、町村になると10%未満が800団体を超える。中には地方税のウェートが1%未満という所もある。大都市ですら全てが6割未満であり、中には4割を下回る所すらある。表2を見ても地方財源の構造的な不足とその抜本的な改革が必要であることは明らかであると言えよう。

 地方税以外の収入の大部分は、補助金、地方交付税と地方債である。これらの収入項目はいずれも地方の住民と行政当局の双方に負担を感じさせないものであり、地方財政規模の膨張を引き起こすとともに、地方の行財政運営の責任を不明確にしてしまう可能性がある。行財政運営における地方団体の自主性、主体性、独立性を尊重させるためにも、収入面における国への依存脱却が必要となる。

 その解決策として地方税の拡充などが求められるであろうが、現在の税制度にはどういった問題があるのだろうか。第一に、税体制の複雑さが挙げられる。日本の税体制は国と地方を合わせて40を超える複雑なものとなっている。だが国の場合、所得税・法人税・消費税の3税目で全体の75%、都道府県では都道府県税・事業税・自動車税で83%、市町村では市町村税・固定資産税・都市計画税で93%を占め、それ以外の税は零細なものが多い。徴税コスト、住民にとっての分かり易さを考えれば零細税の思い切った廃止も検討すべきであろう。

 第二として、現行の伸張性のある税体系から安定的に税収の見込める税体系への変化の必要性が挙げられる。高度経済成長期にわが国の地方財政はその規模を、特に大都市圏において大きく膨張させたが、これを可能にしたのは法人住民税や事業税のような伸張性の大きい税目の存在であった。しかしある程度社会が成熟してしまった今日、安定的な収入をもたらすような税体系と税構造にウェートを移していくべきであろう。(注4)

 

第二節 平成における市町村合併:地方分権の受け皿

 地方分権型社会においては、人口や風土・産業等の条件を生かしつつ地域間競争に生き残っていくため、個性的な地域経営が不可欠となる。そして自治体はそれぞれ望ましいサービス水準とそれに見合った規模を住民主導で決定することが求められる。多種多様となったニーズに対して高度な行政サービスを提供するには専門的な人材・組織が不可欠であり、市町村は財政基盤の強化、行政運営の効率化に取り組まなくてはならなくなった。しかし、現行規模ではスケールメリットが働かず十分な対処は困難な場合が多い。

 また、わが国では深刻な財政状況のもと、行政改革が緊急の課題のなっており、地方においても簡素で効率的な体制が強く求められている。この中でも市町村合併は「究極の行革」として政府・自治省の関心を集めている。地方経済団体や地域住民の間でも、隣接市町村に類似施設が建設されたり、生活圏と行政圏の不一致のため、一体的な地域開発が阻害される事態に対し批判や不満が生じており、合併を通じた地方行政の効率化に対する関心が高まりつつある。(注5)

 1999年8月6日付で自治省が市町村の合併の推進についての指針を提出した。中でも、事務次官から都道府県知事に対して「市町村の合併の推進についての要綱」の作成を具体的に要請したのは特筆すべきことである。その内容を見れば明らかであるが、今回の合併に対するわが国の気運が「平成の大合併」になるべく、自治省を始めとする中央政府は市町村合併の推進に積極的だ。指針の要綱の構成を参考までに挙げておく。

@市町村の地域の現状と今度の展望。A市町村の行財政の現状と今度の見通し。B市町村合併の効果や合併に際して懸念される事項への対処。C市町村の合併のパターン。D市町村合併に関する都道府県及び市町村の取り組み。

 中でもCの項目に関しては、「市町村合併のパターンの内容」として「合併することが適当と考えられるような市町村の組み合わせを分かりやすく、地図上に示す。都道府県内のすべての市町村を視野に入れて、将来の市町村の区域を検討する」など事細かな指示が補足されている。

 1999年7月16日に公布・原則として同日施行された合併特例法の改正においてもそういった兆候は見られる。住民発議制度の拡充、都道府県知事による合併協議会設置の勧告、普通交付税の算定の特例(合併算定替)の期間の延長、合併特例債の創設、など合併推進に向けたさまざまな法案が送り出されている。

 

第三節 広域連合

 同じような公共施設が競い合うかのように各市町村に建設されている。特に交通機関が発達した大都市圏では、容易に隣接した市の施設の利用をしようと思えば利用できるからよけいにそう思う住民も多いだろう。

 こういった問題を解決させるため一番徹底した行政改革が市町村合併であるが、そこまでは至らず、つまり行政区域には手を着けずに行政機能を統合することによって、実質的に合併と同じ効果を狙うものとして、広域連合がある。

 この他、今日わが国で論議されている「広域行政」をいくつか挙げてみると、(注6)@広域市町村圏・大都市周辺地域広域行政圏:1996年5月「広域市町村圏振興整備配置要綱」に基づき、自治省の行政指導により実施。A個別法方式:河川法の改正、道路法の改正など。B事務の共同処理。C府県合併・府県連合・地方庁・同州制。

しかし現在のわが国における経済状況や地方分権体制への移行を視野に入れながら広域連合もその形を変えつつある。「地方分権推進計画」においては、国や都道府県から広域連合に対する権限委譲を積極的に推進することや、都道府県間及び都道府県をこえる市町村間の連携、事務の共同処理等を進めることを要請している。

地方分権体制の受け皿としての側面も持ち、広域連合における行財政の効率化も計られている。より民主的な仕組みを取り入れるべく、広域連合の長・議員を直接的または間接的に選出したり、広域連合に対する直接請求も可能である。

 現在全国の多くの自治体で論議されている市町村合併も、それが適当な行政規模であると言い切れる地域は存在しない。そこには歴史や市民合意などの主観的要素も合併合意の社会的背景としてあるから、新市が誕生した後も広域行政という枠を超えることはできないのだ。合併のあるなしに関わらず、このシステム存続のため各自治体が検討、または問題解決していかなくてはならない。

 

第三章 浦和市・大宮市・与野市における合併構想

 

 第一章・第二章において全国的な動きについて見てきたが、以下の章から実際に論議されている市町村合併のうちいくつかを考察する。現在全国では15地域に合併協議会が設置されている(1999年11月1日現在)。協議会設置には至らずとも、なんらかの合併に関する動きを見せている地域は100を優に超える。合併構想が現実のものになりつつある地域もあれば、遅々として進まず白紙撤回の声が上がる地域もある。果たしてその差は何なのか。合併に対する動きが対照的な二地域を挙げ、その問題点などを考察することで、現在の市町村合併の問題点を探っていきたい。

 

 問題意識

 埼玉県与野市上落合地区を中心にさいたま新都心計画が進行している。計画区域47.4ha、延床面積約180万u 、就業人口約5万7千人という一大都市構想である。浦和市・大宮市・与野市による新市は総面積168.33ku 、総人口約100万人という全国でも有数の一大都市圏、政令指定都市への認定を目指す。

 問題意識の箇所で提示したテーマで以後の章を記述していくため、上記の構想に対する問題点について考察はしないが、果たしてこういった壮大な構想の下にはどういった問題点や社会的背景があるのだろうか。

 3市の合併に対して今最も懸案となっているのが上尾市・伊奈町を含めた4市1町合併構想である。この地域はもともと、埼玉中枢都市圏構想と呼ばれる浦和市・大宮市・与野市・上尾市・伊奈町による4市1町で協力関係を強めてきたため、3市による先行した形となった合併構想には強い不満の声がある。

 また、地方自治法の改正により住民発議というものにより一層の効力が与えられたが、3市では住民発議によらず議会により協議会が作られることになる。そういったところから住民無視といった意見が合併反対論者の中からも出てきている。大都市同士の合併とそこに組み込まれた小さな市とが織りなす合併劇、そこに存在する問題点を市役所の方に行なったインタビューをもとに考察していきたい。

 

第一節 概要

 経過

 1994年5月に浦和市・大宮市・与野市の市議による「政令指定都市問題等3市議員連絡協議会」が発足した。

 翌年の3月に、浦和市議会・大宮市議会において「合併促進決議」が可決され、6月には与野市議会においても同決議が可決された。同年4月、三市に制令指定都市推進室が設置された。

 1997年12月に「第一回浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会」が開催された。

 

 浦和市・大宮市・与野市の特徴(1998年現在)

 浦和市は埼玉県の県庁所在地で県内の政治の中心地であると言える。また埼玉大学を中心とする文教都市という役割も果たしている。(面積70.67ku  人口472,390人)大宮市は東北線・上越線をはじめとする交通の要所であり、また県下一の商都でもある。(面積89.37ku   人口443,295人)与野市には彩の国さいたま劇場があり、3市における芸術文化の拠点という位置を占める。(面積8.29ku  人口82,439人)

 

 このように、埼玉県内において絶対的な政治的規模を持つ都市はない。浦和市は県内の政治と教育の中枢、大宮市は交通の要所で県下一の商都である。この両市を含めた合併構想は、財政力に乏しく行政改革の一端として進められる地域とは異なり、県内の政治、交通、経済、文化などの要素を一つに集中させ強力なリーダーシップを持った都市を県内に形成するため進められたと言って良い。

 同じ政令都市構想を持つ地域として静岡県の静岡市・清水市における合併構想が挙げられる。しかしこの地域の場合、静岡市が県の県庁所在地でもあり政治・経済の権限が一市に集中している。単に政令都市に認定されるためのものとして捉えるならば二つの都市圏で進められている合併構想は同じであると言えるが、実際に二つの地域を見比べてみるとその発端には全く違った方向性が見受けられる。

 

第二節 合併が進展しやすい要因

 地域の一体制

 浦和市・大宮市・与野市が含まれる地図を見てみると一目瞭然であるが、極めて隣接した地域に市街地が集中している。宇都宮東北本線で埼玉県内に入りしばらくすると、大宮市の市街地が目の前に広がってくるが、その光景は途切れることなく首都東京まで続く。

 大宮市役所の職員の方も「浦和市に住んでいる人も気軽に大宮まで買い物にくるし、それは与野市の方も同じ」と話す。この地域の住民にとって現在の三市というのは、日常生活における区分というのをさほど意識させない。毎日の生活が一市では完結しておらず、仕事や毎日の買い物、高校への通学など三市全体に日常生活があるからだ。

 市町村合併を考えるときにこの生活環境の一体性というのは非常に大切な要素であると言えないだろうか。

 合併は中央の政治機構が持つ視点から見ると政治システムの合理性ばかりに目が行く。しかしその視点を実際にそこに住んでいる住民のものに変えてみよう。普段全く接することのない地域との合併構想が自分たちの間に持ち上がったら、そこに何らかの抵抗感が残るのは必至ではないか。毎日の生活の中で生まれた、隣接した地域との親密性は何よりの市民合意の形成と言えよう。

 

 行政の効率化・スリム化

 大都市型の市町村合併と言っても、この要素抜きに合併は語れない。来年四月から施行される介護保険への対応や公共設備の充実など、合併の最大のメリットに対する期待も相応にある。

 各市の下水道普及率を見てみると、浦和市が68.1%、大宮市が65.9%、調べてみて意外だったのが与野市の99.5%(対人口)である。浦和市・大宮市は東京のベットタウンとして急速に発展した経緯を持つ都市であるため、そういった環境面などに対する設備投資が後回しになり、その負の遺産を今でも背負っているのだと言う。

 「これから他の浦和・大宮クラスの都市がソフト面を充実させていく時に、両市はまだハード面にお金を割かなくてはいけない」と、大宮市役所の方がおっしゃっていたのは、私の中では意外な言葉であった。地方分権時代と言われ各地方公共団体の特徴が、良くも悪くも浮き出てしまう時代に対し危機感を持つのは当然であると言える。

 与野市は浦和市・大宮市に比べると行政規模が小さく、合併におけるスケールメリットに対する期待は大きい。与野市役所の職員の方は介護保険に対し一市で全て執り行なうことへの限界を話されていた。介護保険制度を実施するにあたり専門の職員を与野市として単独で雇うことができないのだという。

 0.97という比較的健全な財政力指数をもつ与野市ですらこうなのだから、他の過疎化などが進む地域では一体どういった対策を取ろうとしているのか。この回答は今回の研究テーマをもってして導き出すことは不可能であるが、与野市が二十一世紀の都市構想に対する問題点の解決方法として合併を選んだことは確かである。

 

第三節 合併反対論

 4市1町合併構想

 1978年10月に埼玉県長期構想が策定され、中枢都市構想が提起される。これを受け1982年9月、第8回埼玉中枢都市圏首長会議において「埼玉県中枢都市圏構想・基本構想」が策定される。後にYOU AND Iプランと呼ばれるものだ。与野市のY大宮市のO浦和市のU,上尾市のAに伊奈町のI。それぞれの頭文字を取ったこのプランをもとに各市町は埼玉県南部に一大都市圏、通称YOU AND I圏域を構築しようとしてきた。

 それから20年余りの歳月が過ぎ県内に政令都市を作ろうとしたときに、その構成メンバーから上尾市・伊奈町の両市町は外された。ここに浦和市・大宮市・与野市による3市合併構想に対し疑問を投げつける声が上がる要因を作る。

 現在の3市の4市1町合併構想に対するスタンスには多少差がある。まず3市による合併を先に行ない新市がある程度成熟してから上尾市・伊奈町の2市町を加えるがどうかを議論するという浦和市・与野市の考えに対し、大宮市ではこれまでこの圏域は4市1町で進められてきたのだから県内に政令都市を構築する際もその範囲は4市1町でという考えが根強い。

 1995年3月に浦和市・大宮市において可決された「合併促進決議」(与野市は6月)には3上尾市・伊奈町が含まれていないが、同年の5月に上尾市長が住民発議による合併協議会の設置請求を3市長及び伊奈町長に通知している。(7月には伊奈町長が同様の通知を行なっている)しかし3市による合併協議会設置からほとんど間がない状況であったため上尾市・伊奈町に対し議会へ付議しないことを回答している。

 以上が4市1町による合併推進の経緯だが、果たしてこの地域におけの最上の一手とはどちらであろうか。それは、一概には言えないが、だたYOU AND I圏域などの歴史的経緯から4市1町が本来の合併のあるべき姿だという論理はどことなく問題の根本を擦り違えているような感がある。4市1町で我々はやってきたではないか、という理論で合併の枠をくくるとなるとそれは現実を考慮しない感情論的な議論となる。

そうではなく、もっと客観的な視点も考慮に入れながらこの地域の適切な行財政規模を見ていかなくてはならない。その視点を持たない論議であれば、たとえ4市1町において合併がなされても、そこにあるのはただ大きな自治体ができあがったという自己満足を満たす結果でしかない。

 

 民意の反映

 朝日新聞が行なった世論調査(1997年9月17日)によると、市や市議会の合併の進め方に住民の意思が反映されているかという質問に対し、74%の人が反映されてはいないという回答を出している。無論三市とも説明会や広報紙などで情報提供や民意を汲み取る努力はしているが、「一人ひとりに説明して回るわけにもいかない(相川浦和市長)」、「いくら説明しても十分と言うことはない(井原与野市長)」と、政策形成に対する民意反映の難しさを話す。

この問題に対して与野市役所の方は、「メリット・デメリットに対する住民の要望はその家族構成や生活環境によって変わるから、全てのニーズに対応できる政策とはありえない」と話されていた。核家族の家庭と二世帯三世帯で生活している家庭、そこに学生の一人暮しなどでも加えたら介護保険一つ取っても、民意と呼ばれるものは様々に変化する。 

同アンケートにおいて合併後の市役所の位置を問う質問があった。過半数以上の人が現在住んでいる地域へ市役所を作ることを希望している(与野市は現在の与野市上落合地区近辺に建設予定のさいたま新都心が50%)。総括すると浦和32%大宮27%さいたま新都心31%であった。これでは新市役所をどこに建設しても過半数の反対を受けるわけだが、それも当然である。誰だって自分が今住んでいる近くにサービスを提供してくれる施設を望む。

 もちろんそういった複雑に絡み合った住民の意思を政策執行に反映させるのが行政の役割ではあるが、その限界も我々は認識しなければならない。さもなくば、民意が割れるのが当然で完全な民意反映など不可能な内容で異を唱えるような、不合理な反対理論がまかり通ってしまう。その理論を以て根本の市町村合併案に疑問を投げつけるようなことがあっては本末転倒であろう。

 

 第三節に記載した朝日新聞の同アンケートによると、「3市の合併に対し関心がありますか」という質問に対し、82%の人が大いにあるまたは少しは関心があると答えている。合併の是非については54%の人が賛成という結果であった。同節で考察した論理を元に すると、行政ができる民意反映とはここまでではないだろうか。無論、74%という高い住民疎外感を拭い去る努力を行政はしていかなくてはならないが、この数字が示す値=住民不在と捉えるのは性急であろう。

浦和市・大宮市・与野市における合併構想に対する反対論はどこか、警察用語での「別件逮捕」というイメージが残る。感情論や今ある数字をただ愚直に組み合わせて根本の合併構想に異を唱える。そういった印象を持つ。

当該住民はそれでいいのだろう。自分たちが要求しうる意図を全て行政にぶつける、そのことが彼らの役割でもあり、またそれを最大限汲み取ろうとするのが行政の仕事でもある。しかし、それを公に批評する立場の人間はもっと客観的に状況を把握しなければならない。

 今回自分はその状況把握のために充分な資料を用意することが、必ずしもできたとは思えず、それに対する結果も充分なものを出すことができないかもしれないが、現在持っている資料や知識、価値観からすると、浦和市・大宮市・与野市における合併構想は成立への方向性で進めて良いのではないかと考える。その根拠として、以下に2点ほど挙げてみたい。

@現在埼玉県内における政治・経済における権限は分散されており、それが一つの市区に統一されようとしているのは自然の流れである。

A3市における住民の日常生活は独自では完結しておらず、この日常生活における交流がなによりの市民合意と言える。

 大宮市役所・与野市役所の方に行なったインタビューにおいて期せずして同じような回答があった。「合併のメリット・デメリットは裏腹でしかもその結果は5年10年とたってみないと分からない」。もちろん今回の合併が住民にとって悪評を得ることがあるかも知れないが、現在存在する介護保険の問題や未曾有の不況下での地方行政を改革していこうという姿勢を予想不可能な未来を根拠にして批判するのは間違ってはいないだろうか。

 

第四章 栃木市・小山市における合併構想

 

 問題意識

 1999年8月、栃木市・小山市が「栃木市・小山市合併に関する市民アンケート調査」を行った。その結果「合併が望ましい」という回答は16.6%、「どちらかと言えば望ましい」という回答が14.9%で全体の約3割程度にとどまった。これに対し「合併望まない」が14.9%、「どちらかと言えば望まない」が18.8%であった。これに「近隣との問題処理前提」の15.7%を合わせると反対派が約半数にのぼる。

 現在設置されている15の合併協議会のうち、住民発議によるものは6件ある。栃木市・小山市における合併協議会はこの住民発議という手段を経ているが(小山のみ)、合併設置より3年近くたった今民意は割れている。第三章で考察した浦和市・大宮市・与野市は協議会を設置するにあたって住民発議という手段をとってはいないが、住民達による過半数の賛成を得ている。これに対し住民発議という一見民意を汲み取った形での政策合意を進めた栃木市・小山市での合併構想は住民から多くの疑問の声が上がっている。

 なぜ栃木市・小山市における合併構想は遅々として進まないのか。第三章における合併が比較的進展している地域との比較を交えながら、全章同様小山市企画部の方に行なったインタビューをもとに考察していく。

 

 経過

 1996年7月2日小山青年会議所から合併協議会設置請求書が小山市に提出された。選挙管理委員会における署名簿審査を経て9月22日、受理された。同じ月に栃木市に合併協議会設置協議について栃木市議会に付議するか否かについて意見照会があり、12月17日栃木市長から合併協議会設置協議について議会に付議する旨の回答があった。

 翌年の3月18日合併協議会を設置することについて小山市と栃木市の市議会定例会において議決された。4月1日合併協議会の設置について告知が行なわれ、同年7月に第一回栃木市・小山市合併協議会が開催された。

 

第一節 合併が進展しにくい要因

 地理的要因

  栃木県南部に位置する両市は、道路では栃木小山線、鉄道ではJR両毛線によって結ばれている。各駅を中心に約2km四方に市街地が広がるが、その両市の市街地の間には約10kmの距離がある。しかも栃木市は東西に市域が伸びているのに対し、小山市は南北に広がっている。両市の端から端までは約30km近い距離がある。はたしてこれだけ広大な都市同士が合併したところで一市として発展していけるのだろうか。

 浦和市・大宮市・与野市のケースとはまったく反対の状況にあると言えるが、小山市役所の方は次のように話されていた。「栃木市、小山市はその中心部が離れているし、その間には川や農地が広がり両市の生活圏は分断されてしまっている」。また、浦和市・大宮市・与野市の3市による合併をどう思うかという質問に対しても「3市は市域が密接しているため合併は進展いやすいのではないか」と、同様の意見が返ってきた。

 また、合併の最大のメリットとは、財政のスリム化と政治政策の効率化である。現在方々に散財している人・物・金をある地域に集中させスケールメリットによる政治を合理的に行なうことであるとも言える。それはこの地域の場合、栃木市・小山市どちらかに過剰に投資されている権限をより有効な方へ移行させることでもあり、極論を言えば片方の地域の市街地を消滅させてしまう可能性も意味する。

 合併が成立したとすると、どの地域に人・物・金を集めるのか。小山市役所の方の言葉を借りるならば「現在ある中心部をどう結びつけるのか」。それぞれの住民や商業従事者の方達には難しい質問であろう。

 

 栃木市・小山市の特徴(1998年現在)

 栃木市は栃木県の旧県庁所在地でもあり、歴史のある街である。(面積122.06ku  人口84,525人)これに対し、小山市は昭和の大合併後、広大な敷地を背景に工業誘致に成功する。JR線、東北新幹線が通り栃木県南の商業・交通の要所でもある(面積171.63ku  人口152,934人)

 

 現在建設中の北関東自動車道路が東西に伸びており、南北には東北自動車道路がある。JR線や私鉄が通り、大都市東京までは半径100km圏内という栃木・小山両地域は格段の好立地にある。確かにこの両市が合併なりで協力関係を強めていけばそこには無限の可能性が秘められていようが、そこに到達するのにはまだ時間がかかりそうだ。

 歴史や市としての文化のようなものを持っている栃木市と、高度経済成長期にその時代の流れに乗り急速に発展してきた小山市との合併であるから、感情論的な批判だけ考えても多くの不満の声が出てくるだろう。新市の名称や新市役所の位置など両市の面子や体面などで意見が分かれてしまう問題もこれから数多く出てくる。もし新市の中心部が合併により移動し、人・物・金がほかの地域に移ってしまったら当該区域の住民達はこれをどう捉えるのだろうか。

 まだ両市による新市構想ができていない段階であるから上記の事柄は予想の域を超えないが、それほど現実離れした推測でもないだろう。こういった問題を考えると、小山市役所の方が漏らされた「栃木市に対する印象」という質問への回答が思い出される。「栃木市は厚みのある都市。小山市はまだ歴史の浅い都市だからどうしても街に対する愛着や文化とか、そういった厚みがない。小山市もいつかそうなれば」。

 両市における合併のメリット・デメリット論をここで考察するだけの資料を持ち合わせてはおらず、また考察したところでおそらく現実的な回答得を導き出すことはできないだろうから止めておくが、せめて感情論だけをもってしてその問題の決着が計られることがないよう願いたい。

 

第ニ節 合併反対論

 合併先進県栃木

全国には現在3,252(1999年現在)の市町村がある。最も多いのが北海道の212、次いで長野県の120が来る。以下順に、新潟県112、岐阜県99となっている。逆に、最も少ないのが富山県・福井県の35になる。以下順に、神奈川37、鳥取県39となり、栃木県はさらに7番下がって49である。

 栃木県は比較的平野の多い地域だ。明治・昭和期の大合併において37という市町村数にまで減少した背景にはこの要因が強い。近隣の県の市町村数を見てみよう。福島県90、茨城県85、群馬県70、埼玉県92、となっている。総面積に違いがあるにしろ、栃木県はこと合併に関してはある程度飽和状態にあると言える。

 栃木県知事も県内の合併に関しては同意見である。現在県内で合併構想が持ち上がっている栃木市・小山市、佐野市・田沼町・葛生町の両地区がなかなか思うように進展しない要因として、この県の消極的な姿勢も挙げられる。

 明治・昭和期に行なわれた、巨大な中央のリーダーシップによる大合併でも山間部同士の合併など地理的に不適当なものは外された。逆に地理的に合併しやすい環境にあった市町村は両時期における大合併で相当数縮小されたと考えられる。それはこの各県による市町村数のばらつきが証明している。そうすると栃木の市町村数は飽和状態にあるという考えは妥当であるのかも知れない。

 しかし、あくまでこの市町村数は他県と比べた場合の相対的な数であり、絶対的に栃木県が適当な数にあると言い切れるものではない。合併構想が持ち上がっている当該市町村はもちろん、県レベルまで含めた行政機関は、他県との比較という観点からだけではなく、もっとミクロな視点を持って合併問題に対する回答を出さなくてはならないだろう。

 

 隣接した市町村との連携

 前掲書した栃木市・小山市合併協議会のアンケートは1999年11月10日の読売新聞において「市民半数が否定的」という見出しがつけられた。しかし同アンケートでは、全体の15,7%の方が「近隣町との問題処理が前提」と言う解答を出している。この回答を否定派に含めるとその見出しは正しくなるが、これを賛否どちらにも含めないとすると賛成は31,5%反対が33,7%。ほとんどその数には差がない。

 両市の市長も同日の紙面で「近隣町との兼ね合い」というものを意識しており、両市全体としてこのアンケート結果を、「市民半数が否定的」というより「近隣町との問題処理の方をまず解決していくべきだという意見が強い」と受けとめているよう見受けられた。

 折しも2000年春に同入予定の介護保険制度など、財政規模の小さい市町村では一市でその問題解決が計れない問題が出ており、現在の市町村区分内における行政に対し、不安の声が上がっている。しかしこの地域の場合、栃木市・小山市地区はその広域連合圏に計2市8町が存在し、その中でどれほどの市町を合併構想の中に取り込んでいけば良いのか、簡単に答えの出る問題でもないだろう(2市8町を単純に足すと総面積約600ku )。

 小山市は昭和29年〜40年の間に大谷村・美田村・間々田町・桑絹町と合体、吸収合併を行なっている。その時の構想には小山市南部の野木町も含まれていたが、野木町がそれを拒否している。野木町と旧間々田町は当時同等の行政規模であったが、現在は様々な資源が小山市の一部となり吸収されている間々田地区に比べ、野木町は多くの公共施設がフルセットで完備されているという。 これぞまさしく人・物・金のばらまきであると捉えることもできるが、合併による行政の効率化が行なわれたことで当該住民に対するサービスの差が生じてしまった結果と捉えることもできる。

 近隣の市町村との連携と一口に言っても、それはどういった範囲なのか。または最終的に広域連合に留めるのか、合併してしまうのか、難しい問題である。合併を前提に各市町が論議を重ねても結局数合わせでしかない統一感のない都市が誕生してしまう。これでは市町村は大きければ大きいほど良いという意見を罷り通してしまうことになる。

 それではここに広域連合というクッションを入れるとどうであるか。広域連合の主旨はそもそも、一地方自治体では解決できない問題に対して市町村レベルの枠組みをこえて共同でその解決方法を探ることにある。この運用によって地域間の交流が起こり、そこから各地域の一体感が生まれてくれば、その後に各市町村間において合併構想が生まれてきても不自然な点はない。

 

 昨年1998年の11月にも、今回と同様、栃木市と小山市の市町村合併についてインタビューを行なった。その時「果たしてこの地域で将来的にも両市の合併が成立するのだろうか」という感想を持った。そもそも両市における合併のメリットとは存在するのか。栃木市・小山市はそれぞれ独立した自治体であり、市民的合意・一体性も何もないままにただ数の理論による合併政策が執り行なわれている、という印象であった。

 一年たち今回のインタビューを行ないその印象もだいぶ和らいだ。今回のアンケート調査が行政側の合併に対する問題意識をはっきりさせたように見受けられたからである。もちろんまだ問題は山積みされている。中でも一番のネックが栃木市・小山市の両市は既にある程度の行政規模ができあがっており、生活環境が1市で完結されるような市域となってしまっていることである。このような都市同士による合併は都市としての一体性を形成するのが困難であるし、合併の反対論者の根拠となるデメリットというものをもろに味わうことになってしまう可能性が高い。

 小山市役所の方に「栃木市・小山市の合併についてどう思うか」と最後の質問として出した回答と現在自分は同意見である。「時期尚早」である。解決しなければならない課題はまだま多いが、両市の合併をもみ消してしまうには惜しむべき点が多い。

 地方分権は言うまでもなくミクロの視点による政治である。そのための合併であるならば各市町村や県もそういった視点を持つ必要がある。もっと住民重視の、この地域で言えば隣接した地域との一体性というものに視点を移してみれば、栃木市・小山市における合併劇にも新たな動きが見られるだろう。

 

第五章 21世紀を担う自治体システム

 

第一節 国・県・市町村が果たす役割

 市町村合併の是非を論述する前に、自治体を含めた政治システムというのを広い視野で見てみたい。そもそも市町村合併が地方分権における受け皿論や、究極の行革など、国全体の行政改革の一端としてその構想が持ち上がっているからである。中央集権型政治システムの限界とそこから地方分権型政治システムへの移行時における最終的な目標とは一体何であろうか。論議の巻き起こるところであろうが、私は権限回帰という言葉をその回答として出したい。

 中央集権体制とは、言うまでもなく全ての政治的権限を、強力なリーダーシップを持つ一つの複合的な組織に集中させるものである。発展途上であった日本をこの政治システムが経済大国へと導いたその後、国内には世論の多様性が出現した。明日の飯を必要としていた人間がその飯の内容を要望するようになったのだ。これ自体は悪いことではない。国が発展するというのはそういうことである。

 政治システムというのは常に市民の要望を満たすためにあるから、自然と現行の政治システムにはその終焉と新たな体制の出現が要求される。それが地方分権である。国として市民を区分していた時代が終わり、地域ごとのそれへと変わっていくのである。そしてもう一方、本来地方公共団体レベルで行なうべき政策・事業に関する権限を、全国の社会水準底上と少資源の有効活用を名目に一手に引き受けた中央政府から返還させることでもある。またそれは中央政府が本来持つべき、外交・国家レベルでの政策立案を可能にさせる。これが私の言うところの権限回帰である。

 しかし歴史はその時代時代の過渡期においてさまざまな歪みを要求する。例を挙げてみよう。中央政府も地方自治体もこれまで本来の責務を果たしてはこなかった。そのため当然、将来に対する能力も備わってない。一部の地方自治体から「地方分権といってもそれを遂行するだけの力がない」という声が上がるのも言わば必然であろう。

 既存利益にしがみつく、または消極的な現状維持をよしとする個人・団体の主張はそれで一応の説得力を持つが、それでは新しい時代は構築されない。時代錯誤な旧制度にしがみつき共に心中するようなものである。さてそれでは、来たるべき新制度はどのような問題点を持ち、その解決を図らなくてはならないのだろうか。

 まず中央政府について考察してみる。地方分権論者は一応に国の役割として国家外交と国家的見地から見た利害調整を説く。しかし、果たして現在のわが国でそれが可能か。中央政府はこれまで、異常とも思えるほど細部まで地方自治体に対し指示を与えて来てきたわけだが、逆に言うとそれ程の労力をこれまで中央政府は地方に対し注いできたのである。それがある日突然(無論これは極論)、中央政府は国レベルの実務をするよう要求しても果たして期待するほどの成果を挙げれらるだろうか。つまり地方自治体が膨大な権限を請け負うのをためらうのと同じ現象が中央政府にも起こりえるのではないだろうか。

 これが先ほど挙げた、改革に対する消極論であるのは重々承知しているが、地方分権論者が見逃しがちな視点ではあろう。これまでの異常な地方介入はある意味、人・物・金の過剰投資であると言えるから多少地方公共団体のそれとは性質が異なるが、権限を地方に移した後も、中央政府が真に社会の国際化に対応するため、または公平な国内の利害調整機関となるためには関係各機関の再教育や新しいマニュアル作りが必要となってくる。

 次に都道府県はどうであろうか。中央集権体制にける県は国と地域とのパイプ役である。悪く言うと、親会社・子会社・孫会社の二番目であろうか。しかしこれらが独立しそれぞれの責務を果たすようになると、つまり地方分権型社会においては、そのパイプ役は大幅に存在意義を失う。その上、各市町村間の利害調整能力を広域連合などにとられでもしたら、もはや都道府県という枠組みは存在しなくても良いことになる。

 しかし、広域連合はおそらくどの時代においても完璧にはなりえない。その行政区域の柔軟さという長所が、あらゆる意思決定に対してもろさを持ってしまう短所でもあるというジレンマを常に抱えているからだ。県内の利害調整が可能で、しかも住民サービスを独自に決定する市町村に対して圧力とならない程度の大きさ、という2つのバランスを慎重に均衡させうる自治体組織としなくてはならない。

 最後に市町村について記述する。地方分権賛成論者である小西氏は自治会・町内会レベルにおいて、最少の自治体的組織の構築を唱えておられるが、基本的には私も同意見である。その内容は、まちづくりの主役を市町村から住民が直接参加する最少の自治体的組織へと移し、市町村は客観的な地域の合意形成に務めるというものだ。そうなれば4層の行政組織が成立するが、県を広域行政組織のような役割に留め、実質3層構造の社会構築を目指す。

 上述した意見と、今日方々で論議されている地方分権論の中で市町村合併はどのような位置づけを持ってするのか、以下の節で考察していく。

 

第二節 市町村合併を住民のものへ

 地方分権体制の理念は権限回帰であると説いた。それではその実践は何を持ってするのか。そもそも権限とは、憲法における主権者とは一体何であるのか。教科書的には主権者は「意思決定者」を指す。そしてそれは国民にあるという。しかしそもそもここに問題の所在がある。国民または住民とは、意思を発議する権限を持ちはしても、それを決定する権利を持てはしない。意思とは複雑でありまた醜悪でもある。ある一方の意思がもう片方の意思を妨げることは多々ある。意思の発議者と決定者が同一であれば、そこに繰り広げられる世界はただ強く多いものが社会を支配するものへとなる。

 ただ多数という理由からでも強者による意思という理由からでもなく、常に正しく長きにわたる視野を持ち、その複雑に絡み合った糸を紡ぎ上げるのが、市民により信託された社会契約機関なのである。しかし現実はそうではない。そこに存在するのは意思を発議することを怠った市民と、その発議がもともと自分たちの権利であったように錯覚した行政機関である。ただ「生きたい」という時代は市民の意思が容易に想像でき、彼らの満足する決定を結果として出したため、市民は発議することを怠ることができた。

 しかし彼らの意思が「よりよく生きたい」と変化してきた今日、各行政機関はその意思を先取りすることができなくなった。人間がヒトとして存続するための意志とはそれほど多様化したものではないが、人として存続するための意志は一人一人違ってくる。その意志を最大限社会に還元することができる組織が今必要とされている。地方分権体制もそれを可能にする一つの手段である。市民に発議する権利と義務を回帰させるのである。

 市町村合併はそのことを彼らに思い出させるのに格好の機会だ。それはもう日本のどこか、日常生活には何の関連性のないお話ではない。自分の住んでいる街の名前が変わり、市役所の位置も変わる。生きるためには、そんなことはどうでもよい。名前で食えるわけはない。ただ生きるために満足する結果を行政が示してくれればいい。

しかし今は違う。自分が生まれ育った街の名が消えてしまうのは寂しいし、市役所が遠くなったら不便である。現在の社会において不便というものは悪なのである。逆に、これまで自分の住んでいる街が小さくて、充実した施設が利用できなかった人間はこれを歓迎する。

 こういった意志を発議させることが地方分権体制の究極の姿である。そしてそれを一つの地域として意志統合させることが行政機関の責務である。時には市民が気付かないような長期的・客観的視点を彼らに提示し市民による発議を促すとはあっても、それ以上であってはならない。

 市町村合併における論議にこの視点は盛り込まれているだろうか。誰のための合併であろう。中央政府の政策のつけを地方に回しやくするため?巨大な権限を受けとめきれない地方自治体のため?それはそれでよい。行政機関がその機能を保持することができなくなった時、結局困るのは市民だ。それを回避するために最善の策として合併を推進するのは当然の政策立案だ。

 しかしそれは本当の意味での地方分権ではない。住民の意志発議をないがしろにし、結局また彼らの意志を先取りして、彼らが住民自治を希望していると思い込み、それに満足する結果を与えようとしているのに過ぎない。地方分権体制を成立させるための市町村合併というならそれを決めるのも当該住民である。我々が全国的視野に立って合併の是非論を唱えること自体、発端が中央集権的な国家理論そのものであると言えよう。

 

 この市民による意志発議という考えを盛り込むと、私の言う社会構造も見えてくる。小西氏の提言した3層構造あたりが理想的だろう。その3層とは、国家機関・市民による発議機関(自治会・町内会などの小学校区域単位)・発議機関の調整機関の、大きく分けて3つの行政組織による政治システムである。最後の機関が都道府県レベルか、市町村レベルか、はたまた広域連合の権限を拡充させるのか。即答しかねる問題ではあるが、現在のわが国の市町村に直ちに権限を委譲するのは性急な気がするので、次の提案を行なう。

 一端、都道府県に権限を委譲し市町村の体力をつける。その後、相当な時期が来たと判断できたらならば市町村に権限の細分化を行なう。その時、都道府県なり、広域連合なりの広域的な利害調整機関を更に設ける。中央政府の巨大な権限をどのレベルの行政機関に委譲するのか、これはこれで重要な問題ではある。中央政府の解体・再構築など、新体制を迎えるにはまだまだ問題は山積みではあるが、これらよりも最少の自治組織の構築が最前提と考えるので、今節では上記程度に留めた。

 

 結局市民は、特に日本人は「お上」の言うことを聞くだけで、彼らの言うことを待っていたら地方分権体制なぞ永久に来ないのではないか。全くもって、その通りだと思う。自治省なり中央政府がまたリーダーシップを発揮しなければ、本当に地方分権システムは成立しないのかも知れない。しかしそれはそれでいいではないか。「地方分権などいらない、このままでいい」と彼らがいったら、それを受けとめることも一種の地方分権政策であるとは言えまいか。もしそれにより彼らが不利益を被ることがあれば、その時彼らが口を開くであろう。「我々に政治参加をさてせてくれ」と。その時彼らは、自らの手でそれを手に入れようとするだろう。

 確かに、地方分権化政策はその第一歩に強力な中央政府のリーダーシップを必要とする一面を持つ。しかし一見矛盾するかに見える上記の問題を軽視して通っては、本当の意味での地方分権体制は成立しない。おかしな言い方かも知れないが、地方分権を拒否することを市民に認める。これが真の意味での地方分権化政策の第一歩であるのかも知れない。

 

おわりに

 

 詰まる所「合併は賛成なのか反対なのか」と尋ねられたらこう答えるしかない。「どちらでもない」と。「浦和市・大宮市・与野市における合併は?」に対しては「賛成」であり、「栃木市・小山市における合併は?」に対しては「時期尚早」である。

 私は地方分権論者であると思っている。そしてその最重要ポイントは住民自治であると。その自治に決定権を与えるか否かについては第五章に私見を記述した。その是非はともかく、地方分権に傾向する以上、市町村合併が地方分権体制において重要な事項であるなら、なおさらその選択も住民に委ねるべきであろう。それにより地方分権体制が整うことがなくとも、それは彼らの責任である。地方分権という権利を与えるならそれに伴う義務・リスクも与えなくてはならない。

立場上、極論に近い記述をしてしまった。生粋の地方分権など存在しないのだから、新体制成立には幾度もの矛盾点の妥協は必要であろう。しかし、昨今の地方分権体制における論議はどうも住民から離れた中央主義的な理論がその土台としてあるように思えてならない。誰のための分権であるのか。権利と義務の享受をしやすい環境を作るための市町村合併は誰のためであるのかであるのか。もう一度、地方分権とは、受け皿論的な市町村合併であってもそれはだれのものなのか、という原点に立ち議論をすることは不毛ではないと考える。

 

 最後にこの論文を完成するのにあたってご尽力くだされた、宇都宮大学中村祐司先生。並びに現地調査にご協力いただいた、大宮市・与野市・小山市、各市役所の企画部の方々。まことにありがとうございました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。

 

 【注】

注1:新藤宗幸『地方分権』(岩波書店,1998年).6貢

注2:林宜嗣『地方分権の経済学』(日本評論社,1995).15−17貢

注3:新藤宗幸,前掲書,5−8貢

注4:林宜嗣,前掲書,21−23貢,26−30貢

注5:高坂晶子『「地方分権」時代における市町村合併のあり方』

http://www.jri.co.jp/JRR/199801/Local.html

注6:日本地方自治会編『広域行政と府県』(敬文堂,1990年).17−19貢

 

 【参考文献及び資料】

4市1町合併・政令指定都市推進大宮市民会議『4市1町合併・政令指定都市推進大宮市民会議』(機関誌第5号,1999)

浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会事務局『浦和市・大宮市・与野市合併推進だより』(浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会,Vol1−2,1999)

『21世紀の自立都市を目指して』(与野市役所政策企画部政令指定都市推進室)

『まちづくり夢づくりよの』(与野市役所政策企画部政令指定都市推進室)

『さいたま新都心』(埼玉県住宅都市部・浦和市都市整備部・大宮市都市計画部・与野市都市整備部)

文書事務管理研究会編『地方自治便覧(1992)』(地方財務協会,1992)

『市町村の合併の推進についての指針』http://www.mha.go.jp/gapei/gshishin.html

『合併特例法改正の主な内容』http://www.mha.go.jp/gapei/kaisei.html

『合併協議会設置の状況』http://www.mha.go.jp/gapei/gapei3.html

『広域連合の設置状況』http://www.mha.go.jp/kouiki/kouiki4.html

『市町村合併ノススメ−平成の大合併の自治哲学』

http://www.jri.co.jp/JRR/199801/Local.html

『都道府県別市区町村数一覧』

http://www.lasdec.nippon.net.ne.jp/jyuusyo/cyouson_ichiran.html

読売新聞 1999/11/10

朝日新聞 1997/9/17

 

                                                             2000年1月1日

                                                 宇都宮大学国際学部国際社会学科

                                                                   行政学研究室

                                                                     小笠原幸司