卒業論文

国際学部 国際社会学科4    960138k   辰野 香織

 

 

論文名   スポーツとコマーシャリズム

 

 

目次

 

まえがき

 

第1章                  戦後日本スポーツの歴史

第1節               学生中心から社会人中心の選手構成へ

第2節               企業スポーツの台頭

 

第2章                  マスメディアとスポーツビジネス

第1節                  テレビ〜視聴率が及ぼす影響力

第2節                  新聞〜スポーツのとらえ方

第3節                  大会を牛耳る広告代理店

 

第3章                  アマチュアスポーツの商業化

第1節                  プロ化の波

第2節                  景気の影響を受けて

第3節                  JOCの腐敗

 

第4章                  日本スポーツ界の将来像

 

あとがき

 

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まえがき

 

もしテレビ放送がなかったら、新聞報道がなかったら、オリンピックやワールドカップに熱中する人はどれくらいいるのだろうか。1997年冬季長野オリンピック、1998年サッカーワールドカップフランス大会において、選手が随分身近に感じられた。彼らはひっきりなしにマスコミに登場する。そして時には芸能人のような扱いを受ける。以前、サッカー日本代表中田英寿選手が言っていた。「サッカーに興味のない人間にも売ろうとするから、世間の関心の最大公約数である人間に飛びつく。プレーを見れば、どう人間かは分かるのに…」これは、スポーツを売り物にするマスコミの姿勢を端的に表現した言葉ではなかろうか。スポーツはソフトとして、売れる。スポーツで儲けるためにはどうしたらいいか。これが、スポーツを売り物として考える企業の関心事項である。

スポーツの持つ特異な性質を金で買い、利用する企業。人々の興味をあおり、注目を得る事で付加価値を追及する。人気のあるゲームほど高く売れる。すなわち、魅力的な選手が出場すればするほど人目を集められる。そして優秀な選手には高い報奨金、出演料が払われる。プロ選手はそれを利用しているため、結果を出せば裕福な生活が出来るようになる。しかし、アマチュア選手は競技で金銭を得ることを禁じられている。「そんなのおかしいじゃない。私達だってスポーツで食べていく事を認めてもらいたい!」陸上の有森選手の主張に対しては肯定的な反応が多かった。しかしながら依然として、アマチュア選手の商業化の動きに意義を唱える声も多い。

 アマチュアスポーツの商業化、また、それに大きな影響を与えたと考えられるマスコミを中心とするスポーツビジネスの核心に迫る。

 

第1章          戦後日本スポーツの歴史

 

  日本人は、どのような過程を経て「スポーツは儲かる」ことに気付いたのであろうか。日本スポーツ界で起きた主な出来事に触れるとともに、戦後日本スポーツを10年単位に区切って調べてみる事にした。戦後の日本スポーツ選手の構成は、学生中心から実業団選手中心に移っていくため、その境目となる時期を前後に節を設けた。

 

第1節                      学生中心から社会人中心の選手構成へ 

  

1945年〜1949年:国際大会からの締め出しにあう

  戦後日本のスポーツは次々と復活した。中でも、戦前から学生に人気のあった野球や伝統的な競技である相撲、そして比較的に容易で金のかからないことに加え、見る側のストレス解消にもなるボクシングの復興は特に早かった。また、戦後日本スポーツの振興に大きな影響を及ぼすことになった国民体育大会の第1回大会が194611月に開催された。開催地を各都道府県の持ち回りにしたこと、各都道府県による天皇杯・皇后杯争奪戦にしたことなどから地方都市に競技施設が次々と整備され、スポーツの普及・振興に役立った。

  こうして、日本国内におけるスポーツ活動は徐々に復興を遂げたが、戦争での責任を問われた日本はしばらくの間、国際大会への参加を拒否された。1948年のサンモリッツ冬季大会(スイス)、ロンドン夏季大会にドイツ・日本は招待されなった。日本側は参加を望んでいたが、戦争の傷が癒えない開催国に拒否される結果に終わった。そのために1948年の競泳日本選手権は、オリンピックロンドン大会と同じ日程で行われた。そこで注目を集めたのが元IOC会長の古橋広之進氏である。オリンピックの優勝記録を4155も上回るタイムをたたき出し、一躍大スターになった。その後も世界新記録を連発するなど、戦争ですべてを失った日本人に勇気をよみがえらせた。

 

1950年〜1959年:国際大会への復帰とテレビ放送

  1949年は日本のスポーツ界が世界との交流を再開した年である。IOCのブランテージ副会長が日本の五輪復帰を認める発言をした。先に挙げた古橋や同じく水泳の橋爪四郎らは戦後初めての国際試合となった全米水上選手権で、アメリカの強豪を破るなど大活躍をし、日本のスポーツ界を盛り上げた。

  1950年に勃発した朝鮮戦争は日本経済の特需をもたらしたが、スポーツ界への影響も無視できない。もともとスポーツは、日常生活に余裕が出来てこそ盛んに行われるものである。特需により生活水準が上昇した国民はスポーツに関心を寄せるようになった。また、1951年のサンフランシスコ講和条約の締結により、日本の国際スポーツへの復帰が確実となった。同年には第1回アジア大会に参加し、翌年1952年にはヘルシンキオリンピックに出場した。外国との試合が盛んに行われる一方で、国内においては日本初のプロレスの試合が開催され、日本プロレスリング協会が発足した。外国人に勝負を挑む力道山の人気がブームを巻き起こした。ボクシングでは白井義男という世界チャンピオンが誕生した。

スポーツの人気に拍車をかけるように、1953年にNHK東京テレビ局と日本テレビ局が開局した。このころ日本テレビが設置した街頭テレビのスポーツ中継には人だかりが絶えなかった。日本テレビは巨人―阪神戦を中継し、巨人との関係を深め、現在の巨人応援団と表現できるような報道をするまでに至る。テレビ局側にとってプロ野球やプロレスは比較的制作が容易な割に人目を集められるため、格好のソフトとなった。NHKは大相撲、高校野球、ボクシングタイトルマッチを放送した。年間277件の中継番組の中で大相撲が62件、野球が46件を占めた。

1950年代後半になると、家庭生活に電気製品が普及し始めた。テレビ・冷蔵庫・洗濯機は「3種の神器」と呼ばれ家庭に広まって行った。テレビが普及したということは、スポーツに接する機会も増えたということである。また、経済の高度成長にも注目したい。

1956年の経済白書(経済企画庁発行)は「もはや戦後ではない」と宣言している。そして、日本のスポーツの土台づくりとして1964年の東京オリンピックに向けた整備が盛んに行われるようになる。

 

2     企業スポーツの台頭

 

1960年〜1969年:高度経済成長とスポーツ

  この時期は、所得倍増政策で確実に高度経済成長を迎えるに至った。1964年の東京オリンピックではテレビ五輪の幕開けとなり、衛星放送を利用した宇宙中継、カラーテレビ、スローVTR、小型カメラなどの新しい技術が駆使された。また、川上哲司が指揮を取る巨人軍が1965年から9連覇を果たしたほか、1961年に横綱昇進を決めてから71年の引退までに32回優勝した大鵬が現れた。

  女子バレーボールは1962年世界選手権で優勝、東京オリンピックでも優勝を飾り「東洋の魔女」と呼ばれた。彼女達を支配したのは、当時の日本人特有の根性論や精神主義であった。東京オリンピックから採用された柔道はその後世界に伝えられ、世界の「JUDO」となり、今日ではヨーロッパJUDO界から対戦相手を識別する前のカラー胴着を提案されている。

  この時代は、それまでの競技力向上の過程における限界が見え始めた。大学の体育界系運動部を中心とした選手育成の壁にぶつかったのである。東京オリンピック以降は企業のクラブが実業団リーグを発足させるようになった。社内のリクリエーションや福利厚生の一貫として始まったのが、企業スポーツチームの出発点だが、この時期にはチームは企業の広告塔の役割を担うようになっていった。会社で机を並べる仲間を応援するといった雰囲気は薄れ、選手は競技のためだけに企業に就職するようになる。歴史的に見ると、実業団の強豪チームは繊維業界などの軽工業から機械・電気などの重工業、そしてスーパーなどのサービス業へと移り変わっている。しかし、昨年から相次いで企業スポーツが崩壊していることからも分かるように、実業団チームは景気に左右され、チームの強さは日本経済の浮き沈みをそのまま反映するのである。

  また、この時代にはスポーツを題材にした青春ドラマやアニメが数多く生まれた。キーワードは青春、熱血、根性などであり、厳しい指導者の元で根性論・精神主義によるスポーツへの取り組みが描かれた。これは60年代後半の猛烈に高度経済成長を突っ走る日本人の意識にぴったりだったのであろう。

 

1970年〜1979年:オイルショックとスポーツ商業化への道

  テニス界ではテレビで放映される事を意識するようになったためか、世界のトッププレーヤーがカラフルなウエアを着るようになった。日本では1975年のウインブルドンで沢松和子・アン清村組が優勝したことで、テニス人気が生まれた。世界的なスポーツ会の動きでは、1974年にオリンピック憲章から「アマチュア」の言葉が削除され、その後のスポーツに大きな影響を与えることになる。

  1972年札幌冬季オリンピックでは日本ジャンプ人が大活躍した。「日の丸飛行隊」の影響で各地にジャンプを習う少年団が結成され、今日のトップ選手を育成している。

  同年、国技である相撲でアメリカ国籍の高見山関が優勝し、引退後はハワイから曙をスカウトして育て、横綱に導くなど、相撲の国際化への道を切り開いた。

 

1989年〜1989年:女性の活躍

  アマチュアリズムから解き放たれ始めたスポーツが、商業社会との結びつきを一層強め、拡大した時期である。1981年には日本にエアロビクスが紹介され、運動不足・肥満防止のためのフィットネスブームが到来した。80年代校半にはバブル景気で国民のレジャー熱が高まり、ゴルフ場やスキー場の開発が進んだ。

  80年代は女性の人権が叫ばれた時期であったが、スポーツでも女性のスポーツが注目されるようになった。1980年に第1回世界女子柔道選手権、1981年に女子マラソンのオリンピック種目化が決まった。ドーバー海峡を日本人ではじめて泳いでわたった大貫映子、ゴルフの岡本綾子、スケートの橋本聖子、伊藤みどりらが活躍した。

 

1990年〜1999年:スポーツの構造改革を迫られる

  スポーツの商業主義化の動きは、80年代以降、徐々に加速されていった。競輪の中野浩一が日本のプロスポーツ界で初めて年間獲得賞金1億円を達成した後、それまで1千万円プレーヤーが一流とされていたプロ野球選手の年俸も急上昇し始めた。国際的な動きとしては、1984年のロサンゼルスオリンピックにおいて、その後のスポーツイベントの商業的方法を確立させた。ロサンゼルスオリンピック組織委員会はテレビ放映権、スポンサー協賛金、ロゴ・マスコットの商品化を図るなど、国・州・市からの補助金を受けず、民間資本によってオリンピックを開催した。スポーツイベントの商業化に成功したといえるであろう。

  93年に開幕したJリーグは、地域社会を巻き込み、広くサポートを得られるプロスポーツを目指したものであった。学校で育成し、成人すれば企業に支えられてきたスポーツ文化生産システムに疑問を投げかけたのである。

  地上波テレビ以上にスポーツに影響を及ぼしたのが、1990年に放送を開始した日本衛星放送(WOWWOW)をはじめとする衛星放送だ。今まで注目されなかったスポーツが注目を集め、人気スポーツになる現象が起こるようになった。NBA,世界のサッカー、大リーグなどである。スポーツあってのマスコミなのか、マスコミあってのスポーツなのかわからなくなっている現状である。

 

 

参考文献:

『スポーツの見方を変える』中村 敏夫 著 平凡社  p7789

『スポーツ学の見方』 朝日新聞社 p147153

『週刊20世紀 スポーツ伝説』 朝日新聞社 p2531

『戦後スポーツ体制の確立』内海 和雄 著 p1619

 

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第2章                      マスメディアとスポーツビジネス

 

この章では、スポーツビジネスを担う企業を追う。本論文ではスポーツ用品の購買に関するビジネスではなく、スポーツをソフトとして扱う企業に注目したい。

企業からの協賛金なくしては大きなスポーツ大会の開催はできない。多額の金を投資する見返りに、企業は大会会場内に看板を出すことや、選手のゼッケンに企業名を入れることなどを要求する。企業のねらいは、彼らがそろえて口にする「社会への貢献」などの理念だけではないだろう。企業の知名度を上げるため、販売促進活動の一環として広告宣伝を行うことに大きなメリットを感じている、そのために数億から数十億という協賛金に応じているのである。

しかし、なぜスポーツなのか。スポーツ特異の性質は何か。おそらく、誰にも予想できないということであろう。どうなるかわからない、その瞬間。選手の動きに一喜一憂する。勝って欲しい、記録を出して欲しい…試合は生のドラマである。やり直しがきかない。瞬間に起こる生のドラマだからこそ、人々の感動を生むのではないだろうか。

スポーツが繰り広げるドラマはテンポが早く、現代社会のリズムに非常にフィットする。また、中継ともなれば、ある程度の長い番組時間を埋めてくれる。テレビ局側にとっては都合の良いソフトなのだ。今や世界規模の大会が頻繁に行われているため、視聴者は世界トップクラスの選手のプレーヤーや質の高い競技大会を日常的に楽しんでいる。視聴者の心を捉えるに、放送局は魅力のある国際・国内スポーツ大会を送り続けなければならない。トップ選手を集めるとなれば多額のギャラが必要となる。企業側も、利益を見こんで巨額の資金を投入してくる。スポーツが先か、見るほうが先か、マスコミが先か、わからなくなっている。

 

1     テレビ〜視聴率が及ぼす影響力

 

  スポーツ番組としては、試合・大会の中継、ドキュメンタリー、スポーツニュースなどがある。各テレビ局は放映あたって独自色を出すために、他局との差別を図っている。例えば、NHKでは高校野球、大相撲、日本テレビははプロ野球、高校サッカー、テレビ東京はサッカー、テニス、TBSはラグビー、フジテレビはバレーボール等、特定のスポーツを各局が長年にわたって放送している。テレビには視聴率があり、その高低により放映されるスポーツとされないスポーツが決まる。競技人口が多いスポーツでも、人気やテレビ映りが悪ければ取り上げてもらえず、逆にマイナーなスポーツでもテレビ放映のおかげで競技愛好者が大きく増えることもある。

  1998年には、テレビ受けを狙ったバレーボールのルール変更が話題になった。その狙いは以下3点である。1、試合時間の短縮でテレビ放映をしやすくする。2、次々と得点が入る事で試合にスピード感を出す。3、得点方式を簡素化して分かりやすくする。国際バレーボール連盟(FIVB)の説明は、「現代はパワーやスピード感のある競技でないと人気が集まらなくなっている。バレーも変わっていかなくてはならない」であった。スポーツが進化して行くこと自体は問題ではない。しかし、進化するきっかけがスポーツの主体となる選手から持ち上がったものではなく、バレーボールを商品として意識しすぎている団体の中から出てきたことは賞賛すべき事ではない。ちなみにバレーボールの主だったルール改正は1964年以来8回行われている。

 また、オリンピックを含め、いくつかのスポーツ大会では視聴率確保のために試合の日時を変更してしまうほど、テレビの影響力は大きい。例えば、オリンピックが行われるたびにマラソンの開始時間が問題になる。視聴者を意識しすぎているため、選手への十分な配慮がなされていない現状が浮き彫りになっている。このことからも、CM料を払うスポンサー企業などの発言力が強く、放映権料に頼っているスポーツ界の体質がよく現れていることが伺える。

スポーツの実況に対してテレビ局が主催者に支払う放映権料は年々増えている。1984年のロサンゼルスオリンピックを境に商業化志向が強まったことは、放映権料の急激な増加からも明らかである。1960年のローマ五輪では5万ドルだった放映権料は1976年のモントリオール五輪で130万ドルに、1984年ロサンゼルス五輪では1850万ドル、1996年アトランタ五輪では9950万ドルまでに高騰している。最近のオリンピックにおいては大会開催収入の約40%が放映権料でまかなわれていることからも、スポーツとテレビの関係が密接に結びついているかが分かる。放映権料の3分の1は国際オリンピック委員会(IOC)に収める事になっているため、IOCは選手を使って金儲けをしているとの批判が絶えなくなっている。

放映権料に関してオリンピック以外に注目したいスポーツのゲームがサッカーW杯である。国際サッカー連盟(FIFA)はこれまで比較的安い料金で公共放送を中心にW杯の放映権を与えていた。しかし、94年のアメリカ大会を見た人間が世界で述べ320億人となった事から、FIFAW杯を大きなビジネスになると考えるようになった。そして、放映権料の競争入札制度を導入するに至った。98年フランス大会の放映権料は全体で約200億円であった。アジア地区の放映権はアジア太平洋放送連合(ABU)が持っているが、日本では唯一のABUの正会員であったNHKのみに放映する権利があった。その額は約6億円である。2002年の日韓共催W杯はドイツの「キルヒグループ」とスイスの「スポリス社」が96年に、既に放映権を落札しているが、その額は約1200億円である。日本の負担は主催国でもあるため、200億円以上とされている。長野五輪の日本の放映権料が3750万ドル(約48億円)であるためにその額の大きいことがわかる。

急激に高騰する放映権料を目の当たりにし、「経済力のない国ではW杯が見られなくなるのではないか」という不安が浮き彫りになっている。実際に長野五輪の際にはモンゴルなどアジアの1部とアフリカ諸国の1部は放映権を買わない事態になった。モンゴルの場合は3人の選手団を派遣していたが、国内のテレビでその試合を見ることが出来ない事態が生じた。また、ドイツでは有料テレビを持つキルヒ社が放映権を独占したことから、「W杯が無料で見られなくなるのでは」という声が広がった。これを踏まえてドイツ政府は「W杯やオリンピックなど大きなスポーツの大事な試合の放映は無料でなければならない」というガイドラインを定めた。今後は、何処までが「大事な試合」と定められるかの駆け引きが行われるであろう。

 

2     新聞〜スポーツのとらえ方

 

スポーツを扱う新聞には一般誌とスポーツ紙の2つあがある。

一般誌がスポーツに割く紙面は多い日で3ページ、少ない日で1ページとなっているが平均して二ページである。土日など、スポーツ関係のイベントが多く行われる日の次の日は大きな扱いをされ、また、オリンピックやワールドカップなどの大きな国際大会や関心の集まる大会などの期間中も大きな扱いを受ける。

スポーツ紙は近年、スポーツばかりではなく芸能や社会ネタなどワイドショー的な紙面作りで大衆紙のような傾向が見られる。販売部数は駅売店だけでなく、コンビニエンスストアでの販売拡大に伴い増加傾向にあり、1964年には3142000部であったスポーツ主要6紙の1日の販売部数は、約12000000部といわれている。スポーツ紙主要6種類の発行部数は日刊スポーツ886000部、スポーツニッポン1031000部、報知新聞644000部、デイリースポーツ563000部、サンケイスポーツ777000部、東京中日スポーツ317000部となっている。

新聞のスポーツ面は各新聞社によってそれぞれ違うが、記録、結果、話題、大会やイベントなどの内容、選手や関係者の談話、裏話や秘話などの読み物、インタヴューなどで構成されている。NBAMHLの人気に伴い、海外の話題も盛り込まれている。「スポーツニッポン」はプロ野球、「サンケイスポーツ」はラグビー、「東京中日スポーツ」はモータースポーツ、「報知」はプロ野球・巨人軍といったようにそれぞれ独自のスタイルを目指し、読者獲得の武器にしている。スポーツ新聞が広く親しまれるようになった背景には印刷技術が進み、美しいカラー刷りの紙面作りが可能になったということも無視できない。1面に派手な大見出しを取り、写真も豊富に用いて読者の目を引くようにしている。

しかし今や、世界新記録や試合の結果など、読者の興味や感動を誘う記事のみを扱えば良い時代ではあるまい。第1章で触れた卓球の故萩村氏が身をもって証明した通り、スポーツは世界平和や国際交流を実現するための手段ともなりうる。また、IOCの不祥事はスポーツ界だけの問題ではなく、社会問題に発展した。オリンピックやW杯など、世界規模の大会になるとスポーツに関連した社会事情も取り上げられるが、それらの記事はスポーツ部の記者が書いているというよりはむしろ社会部の記者によって書かれてはいないだろうか。スポーツは文化である。このことはスポーツを追う記者が一番良く知っている事であろう。スポーツそのものを追うだけではなく、社会現象の一つとしてスポーツを捉えるられる人材が求められていると思う。そのような視点から、スポーツ選手に対するインタヴューの中にあるプライベートの部分に踏み込んだものの変わりに、社会事情に対する彼らの意見を聞けるような質問を採りいれてみるのもよいと思われる。

 

3     大会を牛耳る広告代理店

 

国際的なスポーツの大会が企画されるのは、競技団体内部からの場合もあるが、各国の競技団体、広告代理店が仕掛ける事もある。競技団体からアイディアが出るか、広告代理店からアイディアが出るかはアウンの呼吸であり、大会を一つ成功させた時に得られる利益は莫大な額になるために人脈作り、情報操作が鍵となっているようである。日本においては会社の規模がそのまま人材の差になり、業績の差にもなっているため、国際規模の大会まで仕掛けられるのは電通か博報堂がしのぎを削っている。電通はISL(スポーツ用品メーカー・アディダスの2代目社長ホルスト・ダスラーが創設した会社であり、サッカー、陸上、オリンピックに絶対的な強さを見せる。世界陸上、サッカーW杯の影の仕掛け人)と資本、人材面での結びつきが強い。

  大会を開催するとなると、開催場所が必要になる。地方自治体は、大きなイベントをやりたくてうずうずしている。交通網の整備や施設建設などで地域活性化が図れるし、経済波及効果も期待できるからである。しかも国際規模のスポーツイベントともなると、青少年育成や国際交流などに力を入れている事のアピールにもなる。どの地域で開催するのか、どの地区の競技団体が主催するのか、どの広告代理店がスポンサー集めを行うのか。ロビー活動が国内でも各地方自治体、地方競技団体、広告代理店の支社レベルでも行われる。中には、次章で触れる長野オリンピックの買収同様の手口を使ったり、裏工作まがいの行為もあるという。取るか取られるかのビジネスに、スポーツの純粋性はかけらも見受けられない。


  ある都市での開催が決まると、組織委員会が結成される。競技団体、地方自治体、教育委員会、消防、警察、新聞社、地方儀員(国会議員)などからなるメンバーが揃うことになる。広告代理店が表に出てくるのはここからで、スポンサーとの交渉、実際の金銭の受け渡しなどを行う。大会の運営費用は自治体が特別予算を組む場合もあるし、そのまま広告代理店に依頼することもある。宣伝が必要となるため、イベントの規模が大きいほどテレビを軸としたマスコミの力が必要となり、広告代理店の力も問われる。広告代理店は事務局からスポンサー獲得を命ぜられるわけだが、同時に、スポンサーの代理として事務局と交渉する役割も担う。また、委員会から直接に開会式・閉会式の運営なども請負う。こうして広告代理店は何重にも設ける場を持つことが出きる。

  広告代理店の他にも、国際的に活躍する選手が増えたことにより、選手のマネージメントを請負う企業も多々ある。選手の肖像権の管理、商品化権管理を含むマネージメント、マーケティングサービス、スポーツ大会の運営、スポンサーシップ販売権、テレビ番組制作や放映権の販売など、ビジネスとしてスポーツを考えた場合のあらゆる方面に関わっている。

 日本の企業がスポーツをマーケティングに応用し始めたのは、バブル期の影響が大きかったのではないだろうか。高額な金を動かせるようになったことで、世界的な大会や選手が身近に感じられるようになったからであろう。スポーツの感動はノンフィクションの世界で、作ろうとしても作ることができないドラマ性のあるものだということを日本の企業がやっと気づいたのである。広告代理店や、マネージメント会社はある時は手を結び、ある時は競合相手としてスポーツビジネスを展開している。

 

 

3      アマチュアスポーツの商業化

 

  1984年のロサンゼルス五輪は、IOCがロサンゼルスに引き受けてもらう形で運営された。民営に徹したこの大会は、テレビの放映権料やスポンサー収入を追求し、巨額な利益を上げ、商業五輪と称された。以後五輪は「儲かるビジネス」と認識されるようになる。

  この傾向を助長し、定着させたのがサマランチ現IOC会長だ。スポンサーを世界規模で集める仕組みを確立させる一方で、アマチュアリズムを捨て、プロの出場を認める路線を取った。スポーツはアマチュア主義から商業主義へと大きな転換を遂げることになった。五輪の商業化に伴い、プロスポーツ選手の活躍が目立つようになる。スポーツ選手のみならず、スポーツでもうける人間が増加する。

  世界では1984年がきかっけといわれるスポーツの商業化。日本では放映権料の高騰が見受けられるものの、アマチュアスポーツ選手のプロ化はそれほど盛んに騒がれていない。本章では、アマチュアリズムから商業化に移行したスポーツ界の動きを追う。

 

第1節     プロ化の波

 

「競技に参加することにより、いかなる金銭的報酬も物質的恩恵も受けたことがあってはならない」〜1990年全面改正されたIOC憲章の一部

 

   1982年以降、アマチュアスポーツ界は商業主義の方向へ進むことになる。それまで人々の意識の中には、スポーツ本来の姿はアマチュアリズムにこそあるべきだというイメージが強かった。しかしこの年を境に、アマチュアリズムが基本であったはずのスポーツの代わりに、ビジネスとしてのスポーツが台頭してきた。「スポーツ商業主義」という、これまで考えられなかったことが一気に社会に浸透し始めたのである。                       

  ロサンゼルスオリンピックの運営を任されたピーター・ユベロス組織委員長は「史上初の民営五輪」を宣言し、一銭の税金も使わずにオリンピックを成功させた。徹底した省コスト化と民間資金の積極的な導入が彼のとった作戦だった。まず、人件費がかからないボランティアを募り、五輪の運営に登用した。そして新規施設の建設を極力抑え既存の施設を活用、走行1キロあたり3000ドルの有料聖火リレーなどを実行した。また、約4億5000万ドル(約1兆140億円)の五輪運営費の大半をテレビ放映権と協賛企業からの金でまかない1億5000万ドル(375億円)の黒字収益を上げた。1976年のモントリオール五輪が10万ドルという赤字を出していることを考えると大変大きな差が伺える。さらに、五輪マークを商品化し1億2000万ドル(290億円)の企業協賛金を得るまでに至った。

  ロス五輪は旧ソ連や東欧諸国のボイコットで、大半の競技に世界のトップクラスの選手が参加していなかった。その結果、競技会としては低レベルのものになったが、ビジネス面ではそれ以降のオリンピックの運営方法に大きな方向付けをしたと言える。これは、民間資金活用という名の、五輪とスポンサーの蜜月関係の維持と強化に他ならない。多くの企業はスポーツは儲かると実感したはずだ。中でもテレビ放映は大きな利権を生むようになる。第2章第1節でも触れたが、ロス五輪後のオリンピックや大きな国際スポーツ大会の放映権は高騰する一方である。そしてテレビ局は金だけでなく口も出すようになった。それが五輪放映時間を巡る駆け引きを生む原因である。

  オリンピックの度に問題になるのがマラソン競技の開始時間だ。金を沢山出すテレビ局は視聴率確保のために、その国のプライムタイムに生放送で中継できるように圧力をかける。オリンピック会場にいる選手のコンディションなどは無視した運営を迫るのである。実際にソウル五輪の際には、3億ドルで放映権を落札したNBCの要望をオリンピック組織委員会が受け入れたことにより、陸上競技の決勝はソウルの早朝に行われることになった。

  スポーツ商業主義のもと、一躍大スターになり巨額の富を築いたのがカール・ルイスではないだろうか。陸上競技の商業化は他の競技に先立って行われている。1982年の国際陸連アテネ総会では、競技者基金・賞金レース・顔見せ料の公認など、ビジネスとしての陸上競技が解放されている。それまでの陸上競技には「アンダー・テーブルマネー」と呼ばれる裏金が存在していた(そこそこの成績の選手には、国際大会出場料として2,3千ドルほどの金が手渡されていた)がそれ以降、上位入賞者への賞金がオープンにされる

ようになった。カール・ルイスは走る度に出場料、優勝報酬、気録更新料などの金を手に入れた。  

   近年、外国では、スポーツ選手の「商品」としての価値も年々高まっている、マイケル・ジョーダンに代表されるような富豪も出現した。スポーツ用品を扱うナイキ社は彼を宣伝キャラクターとして商品を売り出す事で莫大の利益を得た。特定の人間や組織に富をもたらす一方で、選手のプロ化は、大リーガーの移籍問題やNBLのストライキの原因にもなったように、選手の高給がチームの存続を左右する要因にもなっている。

  上記に示してきたように、海外では1984年のロサンゼルス五輪に、スポーツの商業化の原因があるようだ。日本ではどうだったのだろうか。海外のスポーツ界と同様に84年以降、スポーツの商業化や選手のプロ化が一気に進んだのであろうか。次節で考察したい。

 

2     景気の影響を受けて

 

  1964年に日本で東京五輪が開催されたことで、スポーツのテレビ放映は以前より盛んに行われるようになった。このことは、スポーツとテレビの結びつきを強める結果になった。

この時の女子バレーボールチーム(日紡貝塚)の活躍が、企業スポーツの台頭を促す事になったと考える。企業スポーツが、企業の発展の一手段として発展していったのである。また、戦前から戦後直後までの学生中心の選手層に限界(今日ではトップアスリートのやく割が社会人)が見え始めていた事も理由となり、日本のトップアスリートを養育・保持・組織化するのは企業の役割、スポーツをするなら企業に属し、社員選手として給料を支払われながらスポーツをするという風潮が広まった。かつて社会主義国には、国威発揚のために国家の支援を受ける「ステートアマ(アマチュア)」と呼ばれる選手がいたことを考えると日本の選手はまさに「企業アマ」と呼べるであろう。経済成長期にさしかかると、企業の成長とともに企業スポーツの規模も拡大していった。

  企業運動部設立の最初のブームは、1945年の終戦直後から、東京五輪の開催が決まった1955年を経て、1964年の五輪開催までであった。第2ブームは1973年の第一次オイルショックの後である。設立は80年代に入っても続いたが、90年代にバブル経済が崩壊すると一気に減少する。

  いわゆるアマチュアスポーツ界の中で、社会人野球・バスケットボール・サッカーなどの企業に属したチームの休部・廃部が相次いで現れ始めたのは平成4,5年あたりからである。長引く不況によって経営母体である企業の行政気が悪化していった事が主な原因である。そしてこの傾向で、会社の事情でチームの存続が揺らいでしまうという、企業スポーツの限界が著しく明らかになった。また、このことは企業に属する事で、1社員として収入を得ていたアマチュア選手が中心となっていた日本のスポーツ界の構造に変化をもたらす事になったとも言えるであろう。

  企業はスポーツチームを企業内部に抱える事で、年間2億近い支出がある。運営費の主なものは多いものから順に挙げると、公式試合参加のための旅費・宿泊費、練習費、合宿費、用具備品購入費、協会等にかかる費用、依託選手・依託スタッフの人件費、利用施設の運営・維持費、選手などのスカウトにかかる費用、チームの広告宣伝に要する費用、等々となっている。スポーツチームを持つ企業の多くが、高度経済成長期に社員の健康増進や求心力づくりの一環としてチームを作っている。しかし長引く不況で、スポーツチームを抱えていく、すなはち、年間200億円近い出費を余儀なくされる、ということは企業にとって大きな負担となっている。企業がリストラに努めているあかしとして、チームを切り捨てる場合もあるという。撤退か、あるいは様々な工夫をして乗り切りを図るのか。企業は選択を迫られている。 

  過去5年間にNKKはサッカー・バスケットボール(男子)・バレーボール(男子)、NECはバスケットボール(女子)・アメリカンフットボール、ニコニコド―は陸上・野球・ラクビー、ヤマハはスキー・卓球という各チームを休部にしたり廃部にしたりしている。ここに挙げた以外にもそれらの例はたくさんあるが、バブル経済時に「本業」から離れ、安易にスポーツを利用して売上や利益を上げようとしたツケがまわってきているという事であろう。「スポーツを通じて、国民の件公・福祉に貢献する事が経営の目標」「スポーツによる国際文化交流を通して、世界平和に貢献する事が経営の目標」。経営にゆとりがなくなるとスポーツは見向きもされなくなる事が明らかになった。

  1999331日で消滅した日興証券女子サッカー部「ドリームレディース」の解散前の様子が朝日新聞32日から37日に6回にわたって紹介された。日興證券女子サッカー部は、1986年当時の社長であった岩崎琢也氏が提唱した福利厚生施策「日興ドリーム」の目玉として生まれた。国内ではまだ層が薄く、国際舞台でも通用する。会社のイメージアップの道具として年間経費約2億円は十分見合うとされていた。1991年の全日本選手権に初出場・初優勝し、1994年からはLリーグで3連覇をはたした。

  しかしながら、後に触れる横浜フリューゲルスと同様に、「強いチームが存続する」という方程式は成り立たなかった。運営費を負担する企業に、その能力がなくなればチームは消滅する事を免れる事はできない。第1回目から第6回目まで、数名ずつにわけた形で、選手のコメントが掲載されていたが、競技に対する未練と将来に対する不安がうかがえた。移籍する選手がほとんどだという。

長い間、競技する事でしか金銭を得る方法がなく、引退後の保障などがゼロである海外の選手に比べて、日本の選手は恵まれていると考えられてきた。日本選手の大半が実業団の所属であるため、少なくとも企業が社員として生活を支えてくれているからだ。引退後の事を考慮しても、まず、暮らしの保障は立つ、そう考えられてきた。

  しかし企業が持つスポーツ部が廃部になった場合、選手は会社に居続けられるのか。部活動のみのために会社に籍を置いている選手は退社するそうだ。選手の大半が、スポーツのためだけに就職し、スポーツを「職業」としてかんがえているからである。

  最近のスポーツ界の動向としては、プロ化を見越した日本バスケットボール協会(JBL)が、企業と直接契約を結んでプレーする「契約選手」いわば「プロ」の存在を認めている。

日本漕艇協会は今年4月に日本ボート協会に改名し、「金銭や有価証券、または換金価値の高いものを商品とする事はできない」というアマチュア規定を競技規則から外した。アマチュアリズムの象徴的な存在だったラグビーもプロ容認に踏み切っている。日本陸上連盟は、特例としてではあるが、有森裕子選手がプロとしてコマーシャル出演をすることつまり、有森選手のプロ活動を容認した。長野オリンピックで金メダルを獲得した清水宏保

選手はフリーになりスポンサーを獲得している。

  以上で述べてきた事から、日本におけるアマチュアスポーツの商業化は、きっかけは1984年のロサンゼルス五輪にあるものの、企業スポーツの後退により加速したと言えないであろうか。

 

第3節          IOCの腐敗

 

長野オリンピックの後、2002年冬季五輪を呼ぶために、アメリカソルトレークシティーの招致委員会が、国際オリンピック委員会(IOC)委員に対して子弟の奨学金などの名目で金を渡していたことが明らかになった。これが一時的にではあったが長期にわたりスポーツが新聞の社会面でも大きく取上げられたIOC不祥事の発端である。ソルトレイクシティー五輪の招致委員に対するIOC委員のたかりが次々と暴露されていったのと同時に、五輪開催に対する疑問、IOCの存在理由を問う声が飛び交った。そしてIOCの日本支部としての役割を果たしているJOCの役割も疑問視された。

五輪招致で賄賂としての金銭が動くことは長年ささやかれてきたことだ。ついに明るみにでたという形になった。

長野五輪開催招致委員会は開催地を決める投票で、票の取りまとめを仲介する広告代理店とコンサルタント契約を結んでいた。スイス・ローザンヌのゴラン・タカチ氏が経営する広告代理店「スタジオ6」に対して長野は「情報収集」の目的で40000000円支払ったという。招致委員会が支払った契約金は当初10000000円であったが、事務作業が増えてきたため増額し、最終的には40000000万円支払うことになった。成功報酬などは支払わなかったと主張しているが、詳細は明らかになっていない。さらに招致委員会は会計帳簿を「紛失した」とし、実は焼却していた。「招致委員会解散後(199110月)半年ほどは長野市役所の倉庫に保管されていたが、19923月末に事務所の明け渡しに伴い、不要なものとして破棄された」、ということだ。20億円に上る招致費の内訳がわからないままになってしまった。正当な行為であったとは認めがたい。

帳簿の処分や接待、不審の広告代理店との契約など長野五輪招致をめぐる疑惑はいくつもあり、真相は見えてこない。これに対してJOC側も有効な調査手段を持たず、あいまいなままとなってしまった。

IOCの不祥事が騒がれ、長野問題も曖昧になっている間に今度はJOCの会長人事が報道された。IOCの人事はいわゆる「密室人事」で、選挙では決まらず、一部の有力理事らが水面下で候補者を絞り込み、評議員会に推薦するのが慣例となっている。会長人事には根回しと内外の力を持っている人たちとのパイプが必要とされているが、これはJOC内部に強烈な派閥対立があることを意味しているように思えてならない。2008年夏季五輪の国内候補地の決定方法をめぐっては「話し合い」か「投票」かで揺れに揺れた。横浜か、大阪か。カネになる五輪をなんとしてでも横浜で、大阪で。JOC内部での利権争いも伝えられた。

  この問題では、最終的に大坂への招致が決まり、大阪府・市をはじめ、財政界、JOC関係者で構成する全国規模の招致委員会が発足し、2001年のIOC総会での開催地決定に向けて活動をしている。日本は過去に東京・札幌・そして長野と夏季冬季合わせて3回の五輪を開催してきた。その運営や組織能力は国際的に高く評価されている。しかし長野五輪ではアメリカの都市などと争ったことなどから「金権招致合戦」とも称された。大阪五輪招致でかかる数10億の招致活動費は民間からの寄付と大阪市などの財政支出でまかなわれる。長野の教訓を生かし、金の使い道を公開はもちろんであるが、運営の透明性が問われるであろう。大阪市は「街づくりの延長上に五輪がある」として会場アクセス・選手村・競技施設などを建設しているという。2008年の夏季五輪の開催地がフェアな方法で決定されることを祈り、見守りたい。

  JOCの抱える問題のひとつには選手育成の問題もある。1996年のアトランタ五輪では「金メダル5個を含む25個以上のメダル」を目標に掲げながら、金メダル3つ、銀メダル6つ、銅メダル5つの計14個という結果に終っている。選手育成のための具体的な方法は「ナショナルトレーニングセンター」の設立以外に聞こえてこない。そもそもJOCの役割は、IOCの日本支部として、オリンピックに出るようなトップレベルまで到達している選手がよりレベルアップを図ることができるような環境を模索していくことではなかろうか。その一貫として、選手にとってプレーしやすい土地を選ぶという観点から五輪の開催場所を選ぶことが求められていると考える。

不透明なオリンピックの開催構造を目の当たりにし、オリンピック不要論も出始めている。新しい競技がどんどん追加され、オリンピック自体が肥大化している現状に疑問を持つ声もある。「大会を開催する国は、一つか二つ、その国独自の新しい競技を採用できるようにすればいい。(ドイツ・五輪研究所フィリップ所長」や、五輪発祥の地であるアテネでの開催に固定するべきだという意見もある。そもそもアマチュア選手を対象としていた大会であったことは忘れられてしまうくらい商業主義化しているため、五輪の存在理由を根本から見つめ直す必要があるのではないだろうか。